近年、先進諸国では、同性婚、もしくは同性同士での公的なパートナーシップを認める動きが活発になってきました。
多くのヨーロッパ諸国や、米国の一部の州でこれらがすでに認められています。
わが国ではこうした動きは鈍いですが、わが国の場合、同性婚に反対する人が多いと言うよりも、無関心な人が多いせいではないかと思います。
わが国では男色を悪とする見方は伝統的にほとんど存在していませんでしたし、他人の趣味に口出ししない、というのが一般的な態度なのだろうと思います。
明治の近代化以降、欧米の影響もあって同性愛を忌避する風潮が生まれましたが、それはわが国の伝統には反するものです。
仏教においても、同性愛を禁じるような教えはありません。
しかし、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、同性愛は神の教えに背くものであるとし、有名なソドムとゴモラの話を持ち出すまでもなく、これら宗教では同性愛は禁忌でした。
これら3宗教では、同性愛は犯罪とされ、時代や場所によっては死刑でした。
長い差別との戦いのなかで、ユダヤ教とキリスト教では、同性愛を禁じる考えは薄れてきましたが、イスラム教国では、今も犯罪とされているのが普通です。
事実、イランで、2005年に同性愛行為を行ったとして少年2人が処刑されています。
死刑までは課されなくとも、懲役刑を課すイスラム教国は多く存在します。
同じヤハウェの3宗教でも、同性愛に対し、合法化と厳罰化という真逆の方向に進んでいるのは興味深い事実です。
ただ、イスラム教国でも、原理主義が台頭する以前は、わりと同性愛に寛容だったと聞きます。
そうすると、原理主義の台頭こそが、差別を助長していると考えるべきでしょうね。
日本で生まれ育ったせいか、同性愛に嫌悪感を感じる人が存在するのは理解できますが、死刑にしてしまうというのは、何とも理解不能です。
何も殺すようなことではありますまいに。
同性愛は精神病とされ、治療の対象であった時代もありました。
それであっても、死刑にするよりは大分マシです。
どんな時代、どんな地域にも必ず一定の割合で同性愛者が存在するのが人間の在り様として当然とされる時代にやっとなりました。
人間の多様性を重んじるのが現代の常識ですから、性の指向に対しても、人それぞれであることを認めるべきでしょうね。
同性愛に反対する人は、それを認めれば、小児性愛や、暴力的な指向を持った人も認めなければならなくなる、と危惧する人もいるそうです。
しかし、大人同士で、互いに合意しているのであれば、それは小児性愛やサディズムとは全く異なる普通のことです。
また、小児性愛や殺人を嗜好する人も、そういう性質を持っているというだけなら、何の問題もありません。
勝手に自慰でもしていれば良いのです。
犯罪さえ犯さなければ、犯罪を夢想すること自体は勝手だし、処罰することはできません。
おそらく、同性愛と同様、小児性愛やレイプ、さらには殺人まで嗜好する人も、どんな時代、地域にも一定数存在するのだと思います。
そういう嗜好に生まれついてしまった人は誠に気の毒ですが、同性愛とは違い、明らかな犯罪になりますので、そこは空想の世界に遊んでもらうしかありますまい。