人生を旅に譬える言葉は、よく耳にするところです。
徳川家康は、
人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し、と述べたと伝えられます。
徳川家康ほどの激動の人生ではなくても、上の言葉は実感できます。
中学や高校などで、先生は必ずと言っていいほど、家に帰るまでが旅、と言って子供たちをさとします。
真、帰ることを前提にしているからこそ旅は楽しく、また旅の終わりは寂しいものなのでしょう。
楽しさと寂しさを同時に味わってこその旅と言うものです。
一方、死への旅路という言い方もよく使われます。
こちらは帰宅しないことが前提です。
黄泉の国に行くのか、極楽往生を遂げるのか、地獄に堕ちるのか、あるいは輪廻転生を繰り返すのか。
誰にもわかりませんが、少なくとも現世にとどまって幽霊になることを望む者は多くはありますまい。
死後の世界がどうなっているのか、そもそもそんな物は無いのか、今を生きる人々で、これに明確に答えられる人は皆無でしょう。
一部宗教などでは死後の世界を説きますが、それが真実であるかどうかなんて、誰にも分かりません。
いくら考えても、古今東西の書物を繙いても分からないことは、考えないことが一番で、実際多くの人はおのれが死に行く存在だと知りながら、そのことを考えずに日々を生きています。
で、人生を旅に譬えてみたりして、誤魔化しているというのが本当のところでしょう。
私は今年、8月20日(土)から8月25日(木)の6日間、夏季休暇を取りました。
8月22日(月)から8月24日(水)までの二泊三日で、奥日光は中禅寺湖畔のリゾートホテルで暑さから逃れてのんびりするつもりです。
東京近郊の避暑地の中では、奥日光が最も涼しいですからねぇ。
短い期間の車での旅行ですが、現代日本のサラリーマンにはこのくらいが精いっぱいでしょう。
短い旅でも、旅行中の楽しさと旅の終わりの寂しさは変わりません。
そしてまた、帰る場所があるという安堵感も。
人生そのものが長くて辛い旅であり、死への旅路が未知のものであるなら、夏の旅行はほんのわずかなアクセントとでも言ったものでしょうか。
私はもはや何も考えない人に成り果てて、ただ、楽しさと寂しさを味わってきたいと思うのです。