雨の休日。
先般実家から大量に貰い受けた亡父の蔵書など眺めています。
とりあえず、哲学者・梅原猛と漢文学者にして古代漢字の泰斗・白川静の対談集を読みました。
「呪の思想 神と人間との間」です。
白川静にかかると、漢字というのは大抵呪いから来ていることになるようです。
例えば道。
これは首と進むが一緒になってできた文字で、道というのは敵や生贄の生首を運ぶためのものであったろうと言います。
例えば邊。
これは鼻を上にした髑髏を載せる台このとだそうで。
現在もアマゾンやアフリカの原始的な暮らしをしている部族の小屋には、よく髑髏を並べるための台だ設置してあるんだとか。
魔除けですかねぇ。
梅原猛はそれに応え、わが国の縄文の文様もまた魔除けであったろうと言います。
とくに袖や襟からは魔が入ってきやすいから、袖や襟にとくに念入りに縄文の文様を入れたんだとか。
さらに白川静は、文字はともともと人と人との交流手段ではなく、神と人との交通手段であったはずだと言います。
人間は物が言えますが、神様は物を言わないので、文字を使った、と。
だからわが国の行政文書である木簡や竹簡などは、文字本来の使用方法が廃れたずっと後に生まれた、人間だけのためのものだと断言していました。
良いですねぇ。
こういう浮世離れしたことを仕事にして大金が稼げるというのは。
それにしても人間というものはほとほと妖怪怪異の類が好きなようで、時代をさかのぼればさかのぼるほど、人は妖怪や怨霊、古い神々と一緒に暮らしていたことがうかがえます。
それならなぜ、近代文明の発展とともに、もっとも人間らしいとも言える、この世ならぬ存在を畏怖する心を、前近代的として排斥するようになったのでしょうね。
原初、人間がもっとも怖れたのは闇であったろうと想像します。
あらゆるものを隠してしまい、だからこそ何が潜んでいても不思議ではない闇。
現代のお化け屋敷なんかも、ずいぶん暗くしてありますね。
あれは原初の恐怖を今も人間は持ちつ続けていることの証左ではありますまいか。
「月夜の晩ばかりじゃねぇんだぜ」という定番の凄みも、要は闇を怖れる精神に訴えかけているものと思われます。
現代、いくら節電と叫んだところで、繁華街は一晩中明るく、繁華街ではなくても街灯が夜の闇を消しています。
「呪の思想」は、原初の恐怖の感情と、それを克服しようとしてなお克服できない人間精神の奥底を垣間見せてくれる良書でした。
呪の思想―神と人との間 | |
白川 静,梅原 猛 | |
平凡社 |
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