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ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

世界文化遺産

2013年06月23日 | 思想・学問

 今朝の新聞では、まるで米中戦争が始まったかと見まごうばかりの巨大な見出しで、富士山及び周辺が世界文化遺産に登録されることになった、との報道がなされていました。

 ずいぶん前から世界自然遺産への登録を目指しながら、ゴミが多いなどの理由で登録が見送られてきました。

 これでは埒があかんと、霊峰である富士の精神性や宗教性、富士を描いた浮世絵が欧米の美術界に与えた影響などを訴えて、自然遺産ではなく、文化遺産へと路線を変更し、このたびの登録となったようです。

 世界の感想は、大鵬へ死後、国民栄誉賞を贈った時の日本国民と似ています。
 まだ世界遺産じゃなかったのか、ということです。

 わが国ではお祝いムードですが、私はなんだか白けています。

 世界遺産に登録されようがされまいが、富士山が持つ美しさや人々が富士を巨大なご神体と見て尊崇する気持ちに変わりはありません。

 むしろ、観光客が国内外から殺到し、静かな霊峰が、騒々しい観光地に変わってしまうことを怖れます。

 私としては、世界から懇願されても、世界遺産登録を拒否するくらいの矜持を持ってほしかったと思います。

 わが国の多くの名店が、ミシュラン・ガイドへの掲載を拒絶し、欧米の美食家や料理人たちを驚愕させたように。

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親殺し

2013年06月20日 | 思想・学問

 近年、家族・親族間殺人が、全殺人事件の50%を超えている、という驚愕のニュースを聞きました。

 特に多いのが、子供による親の殺害。
 理由として、超高齢化社会における老々介護の問題や、20年以上も続く不況、個人主義が広まったことによる家族の絆の喪失などが考えられる、と識者は書いていました。

 しかしそれは、表層的な問題ではありますまいか。

 現代日本社会において、人を殺すということは、たいへん重い罪であり、まして尊属殺人がことさら重い刑を下されるのは、日本人なら誰もが知っていることです。

 それを乗り越えて親を殺害するとは一体どう理解すればよいのか、私にはわかりません。
 ましてわが国で発生する殺人事件の半数以上が家族・親族間で行われるとなると、赤の他人よりも家族・親族のほうが怖ろしいということになってしまいます。

 なかには、親の資産を担保に勝手に借金を重ね、ついに家が競売にかかる段階となって、自殺を決意した62歳の男が、無理心中を図って90近い母を殺害し、父は殺害にいたらずに生き残り、父が息子を裁く法廷に車椅子で現れ、寛大な刑を希望したという泣けない話もあります。

 子ども、特に男の子というものは、人生のいずれかの段階で精神的親殺しを行うものであろうと思います。

 男の子が成長する過程において、親とくに父親は最大の障害になるからです。

 「スター・ウォーズ」においても、父親たるダース・ベイダーと息子たるルーク・スカイウォーカーが、わが国のチャンバラを基にしたという光剣(ライト・セーバー)で一騎打ちをする場面が印象的ですね。

 

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 しかし親たる者は、自らがかつて精神的親殺しを行って成長した経験があるため、男の子が自分を精神的に殺害しようとすることを予見し、それを許すものです。

 そして精神的親殺しを終えた息子は、心の底から親の心を知り、親に対する尊敬を深めてきたというわけです。

 私もまた、17歳くらいの頃に精神的に父親を殺害しました。

 であればこそ、私は亡き父が限りなく恋しいのです。

 不思議なのは、母親に対しては強い憎しみも強い愛情も感じないこと。
 まぁ、母が人格者ゆえなのでしょうけれど。

 精神的親殺しと、実際に親という生命体を殺害することには、たいへんな隔たりがあります。

 実際に親を殺害してしまうということは、言わば精神的親殺しに失敗したためとも言える大事件で、そのようなことがわが国で頻発するということは、由々しき事態と言わざるを得ません。

 ではそれをどう克服すれば良いのかを思うとき、私はただ沈黙せざるを得ません。

 現代日本社会において、古い価値観を復活させようとすることは無駄な努力と言うべきで、また、経済的な問題に至っては、何をかいわんやです。

 できることは、現代日本社会において、そのような深刻な問題が起きているのだということを啓蒙し、国民一人一人の覚醒をうながすことでしょうか。

 それでは手ぬるいとの批判は当然起こるでしょう。

 しかし、長い歴史の果てに、家族や親族を殺害する者が増えてしまったことを思えば、それを解決するには、同様に長い時間がかかると思うのです。

 まずはせめて、私が家族・親族を殺さないと決意することから始めたいと思っています。

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後悔

2013年06月13日 | 思想・学問

 人間生きていれば後悔することや反省することばかりですね。
 あの時ああしていれば、とか、もうちょっと気をつければ、とか。

 このたび指原某がAKB48グループの総選挙で1位になったことを、秋元先生は「後悔している」とだけ語ったそうです。

 それは指原某が男性スキャンダルを起こした時解雇しなかったことを指すのか、あるいは博多へ左遷したことを指すのか、あるいは遡って彼女を採用したことを指すのかは分かりません。

 しかしお陰様で人気に陰りが見え始めたグループに、再び強烈なライトが当たったことは確か。

 さすがに秋元先生、強運の持ち主ですねぇ。

 私が後悔していることと言えば、高校進学から始まって大学進学、就職、パートナーの選択と、ほとんど全ての人生の分岐点に取ったおのれの行動に後悔しています。
 今住んでいるマンションだけは、立地条件の良さから気に入っていますが。

 さだまさし「主人公」という歌に、たしかに自分で、選んだ以上、精いっぱい生きる。そうでなきゃ、あなたにとても恥ずかしいから、というフレーズがありました。



 それはそうなのでしょうが、そうはいかず、ぐじぐじと後悔し続けるのもまた人間。
 その時その時は精いっぱいの決断だと思っても、後で振り返ってみれば、後悔先に立たずというのはよくあることです。

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 そして人間は、長く生きれば先が見えてきて、諦めることを覚えるよりほか、自分を正当化できなくなるというわけです。

 当たり前ですが。

 諦めることができない老人ほど、辛いものはありますまい。

 しかし人はまるで老化に伴う本能であるかのごとく、諦めが早くなり、なんだかもうどうでもいい、みたいな心境に近付くようです。

 私はまだそこまでには至っていませんが、諦めることは、万やむを得ず、身に付けてしまいました。

 世の中には運が良いとか悪いとか言うことは確かにあるように思います。
 同じような能力を持っていても、うまくいくかどうかは人によって違います。

 翻って私はといえば、特別運が悪いわけでも良いわけでも無い、平凡な能力を持って平凡に生きてきた凡人であると認めざるを得ません。

 強烈な誇りを隠し持った私にはそれを認めることは屈辱以外の何物でもありませんが、しかし事実である以上仕方ありません。

 多くの人が、私同様、過去を思い返しては後悔の念に襲われ、それでいてただ今現在をも無為に過ごし、将来に向かって後悔の種をばらまいているのでしょうねぇ。

 まったく愚かと言おうか、懲りないと言おうか。

 私は自身を含め、全ての凡人に深い同情を禁じ得ません。
 それでも日々を誠実に生きている凡人たち。

 名作「アマデウス」では凡庸な才能しか持っていないことを自覚している宮廷音楽家のサリエリが、自分よりも当時の宮廷では低く見られていたモーツァルトが持つ天賦の才を見抜き、嫉妬に駆られます。

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 サリエリは年老いて、自分の曲が忘れ去られて行くなか、若くして亡くなったモーツァルトの音楽が永遠の命を保っていることを目の当たりにし、神を呪い、自身を凡人の王と呼びます。

 世の中を支えているのは私たち凡人の群れに違いありません。
 それは古今東西、常にそうでした。

 英雄や天才に憧れ、自身もそうでありたいと願うのは、若者ならば大抵そうでしょう。

 しかし、人生も後半を迎えた私は、多くの凡人たちとともに、誇り高い凡人として生きていくほかないと思うのです。

 
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鎌倉新仏教

2013年06月06日 | 思想・学問

 私が日蓮宗の寺で生まれ育ったことは、このブログで何度か紹介しました。

 それで、不思議に思っていることがあります。
 日本版ルネッサンスと言うべき鎌倉新仏教の様々な宗派がありますが、日蓮宗だけが、宗祖の名前を冠していること。

 なんとなく個人崇拝みたいで、嫌な名前だなぁと思ってきました。

 また、教理についてもそうです。

 道元禅師が開いた曹洞宗は、座禅と公案によって、自力で涅槃にいたろうとするもので、大乗仏教華やかなわが国において、珍しく上座部仏教的な色合いを感じます。
 あくまで自力ということが最大の特徴でしょう。

 一方、法然上人が開いた浄土宗は、多くの人は自力で涅槃にいたる厳しい修行には耐えられず、また出家しなくても涅槃に至る道を探り、阿弥陀仏の本願にすがり、他力=阿弥陀仏の力によって、広く衆生を救おうとしました。

 さらに法然上人の弟子の親鸞上人にいたると、自らを煩悩具足の凡夫と呼び、半聖半俗と称して、少なくとも建前はご法度だった妻帯に踏み切り、しかも宗門のトップを世襲とするという、今のわが国の寺院で多く見られる形態の先がけとなりました。

 この浄土真宗は他力という考えを徹底させ、南無阿弥陀仏と唱える行為ですら、自力で行っているのではなく、阿弥陀仏の力によって唱えさせられているのだという、絶対他力という概念を打ち建て、文字も読めないような一般庶民でも絶対他力によって救われるのだと説き、爆発的な勢いで信者を獲得していきました。

 日蓮宗においてはどうでしょうか。

 法華経を第一に置くことと、わりと政治的な行動や過激な行動に出ることで知られていますが、正直、日蓮上人が学んだ比叡山の天台法華と、何がどう違うのかよく分かりません。

 ただ、天台宗は法華経も浄土教も禅も密教も何でもやる総合仏教というイメージがあり、日蓮宗は法華経一本やりというイメージがあるので、法華者といえば通常日蓮信徒を指すようです。

 また、法華経というお経は素人目に見ると、何が良いんだかよくわかりません。

 例え話と、法華経は素晴らしいという自画自賛が続いたと思うと、2仏並座のようなSFめいた記述があり、面喰います。

 江戸時代、27歳の白隠禅師が、世に名高い法華経とはいかなるものかと思ってわくわくしながら読んだところ、くだらんと思い、何十年も法華経を読むことはなかったそうです。
 それが老境に至って、再び法華経を読んだ時、その素晴らしさに気付き、感涙したと聞き及びます。

 今の私は、27歳の白隠禅師みたいなものかもしれません。

 日本文化があらゆる面で仏教的価値観から強い影響を受けてきたことは間違いありません。
 古典文学にしても、能などの舞台芸術にしても、美術にしても。

 しかし仏教ほど、教理の体系づけが曖昧で、全体を俯瞰して理解することが困難な宗教も珍しいでしょう。
 それでいてキリスト教やイスラム教のように殺し合いの言い訳に使われたことが無いという特異な宗教でもあります。

 あまり自由な時間はありませんが、仏教に関しては、生涯勉強し続けなければならないようです。


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野心のすすめ?

2013年05月27日 | 思想・学問

 流行作家の林真理子「野心のすすめ」なるエッセイを発表し、これがたいそう売れているそうです。

 読んでいないので何とも言えませんが、タイトルからして読む気が起きません。
 アマゾンのレビューを見ると、大分評価が分かれているようです。

野心のすすめ (講談社現代新書)
林 真理子
講談社



 ひどいのになると、著者の単なる自慢話に過ぎない、とこきおろしている者もいれば、感銘を受けた、と感激している者もいます。

 賛否両論が分かれるからこそ問題作なのかもしれませんねぇ。

 しかし元々のわが国の伝統的価値観から言えば、野心を持つということはあまり褒められたことではありません。
 せいぜい明治維新後、クラーク博が札幌農学校の生徒に「Boys, be ambitious」と発破を掛けたりして、立身出世を良しとする風潮が生まれて後のことと思われます。
 また、「少年よ、大志を抱け」と訳されることが一般的ですが、ambitiousという言葉には清廉潔白なイメージはなく、野望とでも訳したほうが原意に近いものと思われます。

 わが国では、仏教的価値観から、欲望などの執着を捨て、道を求めることを良しとする風潮が長く続き、今もそれはわが国の人々の精神の奥に脈々と受け継がれています。

 中曽根政権下、朝飯のおかずはめざし一匹だったという清貧のイメージがある土光敏夫臨時行政調査会長がもてはやされたことなどに見られますね。
 もっとも、土光敏夫はお金持ちだったはずで、単にめざしが好きだっただけではないかと思いますが。

 そんな中、「野心のすすめ」とは挑発的なタイトルを付けたものです。
 しかもそれで大儲けするのですから、まさしく野心の塊のようなおばさんです。

 人間にはもとより強い欲望があります。
 性欲・食欲・睡眠欲は人間が生き延びるために是非とも必要な欲望ですが、それ以外にも、出世欲、名誉欲、金銭欲などがあり、これらが社会を構成する重要な要素になっています。
 同業他社と熾烈を極めた競争を繰り広げるのは、社会的に生き残るため。
 社内で激しい出世争いは地位や名誉や高給を得んがため。
 これらの欲望がなくなれば、人間社会は成り立たないこともまた事実。

 しかし私は、精神障害を発症してから、そういったことに何の興味もなくなりました。
 お釈迦様が規定した4つのの人間本来が持つ苦しみ、すなわち、生・老・病・死の解決には、これらの欲望は役に立たないばかりか、有害でさえあります。

 しかし人間というもの、本来的に欲深ですから、なかなか執着を捨てることも道を求めることもできません。
 だからこそ、鴨長明「発心集」を書いて人々に発心の重要性を説いたのでしょう。

方丈記 発心集 歎異抄 現代語訳
三木 紀人
学灯社

 私は何も発心して出家しようとまでは思いませんが、愚かな欲望からは抜け出し、出来る範囲で道を求めたいと思います。

 なかなか困難であろうとは思いますが。


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老人学

2013年05月13日 | 思想・学問

 大阪大学が老人の幸福感についての研究成果を発表しました。
 それによると、70代・80代・90代の幸福感をアンケート調査した結果、90代女性が最も幸福感が高いことが分かったそうです。

 一方、全年代で最も幸福感が低いのが、45歳男性。
 きっと職場で中間管理職として下からも上からも突き上げをくらい、しかもプレイイングマネージャーとして、実務もこなしつつ管理もしなければならないという仕事のしんどさに加え、子どもがちょうど思春期を迎え、親に反抗的になったり、また、奥様とも倦怠期で疎遠になったりといった要素が考えられます。

 しかし、45歳を底にして少しずつ幸福感が上がっていくのだすれば、これは朗報ですね。

 私も来年の8月には45歳になります。
 それが底なら、後は上がり調子になるはずです。

 90代女性で幸福感が高いのは、男性の場合、いくつになっても社会的な評価を気にし、思い通りに動かない肉体や頭にイライラするのではないか、との分析がなされていました。
 一方女性は、長い人生経験から、少々辛いことがあっても、大したことはない、と笑ってやり過ごすことができるのではないか、とも。

 しかし、私は少し違った見方をしています。
 つまり、90歳まで生きられる人はそう多いわけではなく、楽観的な性格の人が長生きし、結果的に90代まで生きている人はそもそもが物事を前向きにとらえることができるのではないか、ということです。

 これからますます寿命が延び、少子化がさらに進むのだとすれば、誠に嫌なことではありますが、70歳くらいまでは働かなければいけない世の中が来るでしょう。
 今も年金支給開始は65歳。
 60歳で引退してしまっては、5年間無収入になってしまいます。
 それまでにせっせと貯金して、退職金がきちんと出れば、5年くらいは食いつなげるでしょうが、年金支給が70歳になってしまう可能性もあり、掛け金だけ払って年金は貰わずに早く死ぬのが国家のためなんて風潮になったら嫌ですねぇ。

老人学
日本老年行動科学会
海拓舎


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1兆分の1秒後

2013年05月09日 | 思想・学問

 現在世界の宇宙物理学者が、リニアコライダーなる巨大実験機器を作るべく、各国政府に働きかけているそうです。
 これが完成すると、ビッグバンから1兆分の1秒後の状態がわかるんだとか。
 現在の技術では、1億分の1秒後の世界までしか分かっておらず、1兆分の1秒後の世界が判明すれば、宇宙誕生の謎に迫ることができるんだそうです。

 夢のある話ですねぇ。

 ただ、膨大なお金がかかるそうです。
 主要先進国はのきなみ及び腰。
 その中で安倍総理だけが、研究チームの代表と会い、前向きな返答をしたとか。
 
 落ちぶれたりとはいえ、わが国はまだお金持ちの部類。
 科学技術にお金を落としてほしいものですが、ざっくり1兆円程度必要で、そのうち半額の5000億円を設置国が拠出し、残りの半額をEUや米国、ロシアに出してもらうんだとか。

 この装置によってダーク・マタ―(暗黒物質)の正体が分かるかもしれません。

 そうなれば、様々な実社会に役立つ分野への応用も期待できるとか。
 知りたいという欲望は人間の根源的な欲望の一つですから、これをわが国が率先して行えば、日本ここにあり、という存在感を示すこともできます。

 アベノミクス効果で景気が好転してきた昨今、今こそ一見無駄遣いに見えるリニアコライダーの開発に邁進してほしいものです。


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数千億万人

2013年05月06日 | 思想・学問

 政治家の主たる仕事というのは、言うまでもなく法律を作ったり改正したり廃止したりすること。

 民主主義国家においては、基本的に何事も多数決で決められます。
 極端な話、半分+1人の賛成で法律は成り、半分-1人の意見は尊重されることはあっても結果的には切り捨てられます。

 そう考えると、政治家の仕事はシビアですね。

 憲法改正に限っていえば、衆参両院で3分の2が賛成し、さらに国民投票で過半数の人々が賛成しなければ、改正は成りません。
 厳しい要件に胡坐をかいて、今に至るまで憲法改正が成らなかったことは、政治の不作為とも言うべきで、政治家のみなさんには反省を求めたいところです。

 今朝の某新聞に、興味深い記事がありました。
 民俗学者の柳田國男の言葉を引用し、法律の改廃、制定にあたる者の心構えを説いたものです。
 「時代ト農政」に書かれているそうです。

 国家の生命が永遠でありますならば、予め未だ生まれてこぬ数千億万人の利益をも考えねばなりませぬ。
 況や我々は既に土に帰したる数千億万人の同胞を持って居りましてその精霊もまた国運発展の事業の上に無限の利害の感を抱いているのであります。

 ごもっとも。

 中曽根元総理が、政治家は歴史という法廷の被告、と言ったことがあります。
 しかし民意を元に政治活動を行わなければならない民主主義国家においては、その責任は小さいにしても、全ての国民が歴史という法廷の被告であらねばならないでしょう。

 これはいかにも荷が重く、民主主義国家においては何をおいても教育を充実させ、民度の高い国民を形成しなければ、国民一人一人がその任を全うすることはできますまい。

 私たちはすでにこの世に無い、しかしこの国を形作ってきた多くの先人の魂にも、また、今後生まれてくるであろう多くの人々にも思いを馳せ、今を生きる私たちの当代かぎりの利害に汲々とすることなく、広い視野であらゆる現実の問題に対処しなければなりますまい。

 それには、私たち人間は横の繋がりもさることながら、はるか過去の同胞、遠い未来の同胞と繋がって生きているのだということを、深く心に刻む必要があります。

 人間どうしても目先の利益にとらわれがちですが、過去や未来を現在と同様にとらえる態度を涵養することが、品格ある国家への道であるように思います。

柳田国男全集〈29〉 (ちくま文庫)
柳田 国男
筑摩書房



柳田国男先生著作集〈第4冊〉時代ト農政 (1948年)
柳田 国男
実業之日本社



柳田国男全集〈2〉遠野物語
柳田 国男
筑摩書房

 

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若作り

2013年05月02日 | 思想・学問

 NTTアドの調査によれば、「実年齢よりも若く見られたい」と答えた人は男性が55.4%に対し、女性はなんと77.3%にものぼったそうです。

 ずいぶん多いですねぇ。

 私が小学生だった30年前くらいまでは、年相応に老けるのが良いとされていたように思います。
 今思えば私が幼児の頃、祖母は50代だったはずですが、真夏以外は大抵地味な着物を着て、二言目には「あたしは年寄だから」と口にしていました。

 最近は40代でも50代でも、変に若々しく見える人が増えたように思います。
 食生活の変化や運動の習慣などがあるのでしょうが、何より社会の価値観が、若々しいほうが良い、という風に変わってしまったせいのような気がします。

 私は165センチと身長が低く、顔のつくりが子供っぽかったせいで、35歳くらいまで5つ以上若く見られることが多く、それが悩みで、よく逆サバ読みしていました。
 35歳なのに40歳だと言ったり。
 
 私が28歳、同居人が29歳の時に籍を入れましたが、同居人はしばしば私を初めて見た知り合いから、「旦那いくつ年下?」などと尋ねられ、憤慨していましたね。
 同居人が老けていたわけではなく、私が子供っぽかったのだと思います。

 今では苦労が顔に出てきたのか、年相応に見られるようになり、喜ばしいかぎりです。

 男の顔は履歴書とか言いますから、年相応に見られるのがよろしいかと思います。

 見た目の若さにこだわるというのは、あまりにも切ないと思います。

 古来、権力者は不老長寿の妙薬を求め続けてきましたが、誰もそれを手に入れた者はいません。

 人は必ず老いるもの。
 赤ちゃんが成長するのと同じことです。
 その必然を無理やり否定しようとするのは、まさしく不可能を可能にしようとする虚しい努力に過ぎず、努力が報われることはなく、必ず深い失望の底に沈むでしょう。

 よく、今が一番若い、という言説を耳にします。
 昨日はすでに過ぎ去り、明日は今日より老いるわけで、今より若くなることは無い、ということで、全く的を得た言いようだと思います。

 もし老いたくなければ、自殺するしかないでしょう。
 若くして自殺すれば、老いに悩むことはありますまい。

 現に川端康成は、「老醜をさらしたくない」と言って自殺しました。
 ノーベル文学賞まで取った、日本的美意識に基づいた美しい作品を生み出し続けた文豪ですら、老いることを怖れたのですから、若さに執着するな、というのはあるいは酷なのかもしれませんね。

 外見上の老いは、人それぞれ違った現れ方をします。
 頭髪が薄くなる人、白髪になる人、皺っぽくなる人、シミができる人、顔がたるんでくる人、色々です。
 私はなぜか髪はふさふさで黒々していますが、ずいぶんシミができました。
 男でも、シミ取りの手術を受ける人がいるそうですが、それはイタチごっこに終わるでしょうね。
 髪が薄くなるというのは、じつは結構良い老け方なのではないかと思います。
 ジャン・レノやブルース・ウィルスみたいに極端に髪を短くして髭でも生やせば、禿がオシャレのポイントに早変わりします。
 それが嫌ならかつらを被るという方法もありますし、薄毛はごまかしが効くように感じます。

 いずれにせよ、中年、さらに老年を迎えた者は、堂々と老ければよいと思います。
 堂々と老けて、生きてきた長い時間を顔で示せばよいのです。
 それは青少年への人生教育になるでしょう。
 人は必ず老い、若さは一瞬のきらめきに過ぎないことを、その衰えた姿で示すことが。

 生きている限り時々刻々と老い、死に近づいていく他ないのが人間を含めたすべての生命の宿命なのだと、人生経験の少ない青少年に知らしめるのもまた、長く生きた者の務めです。

 青少年はあるいはそれら老醜をあざ笑うかもしれません。
 あるいは気味悪がるかもしれません。

 どちらにしても、青少年に何らかのインパクトは与えるでしょう。

 そして死ぬ時。
 ぴんぴんころりを望むのは万人がそうでしょうが、本来生きている者が死ぬというのは苦しいことです。
 死の苦しみを若い家族や親族に見せつけて、人間が死ぬということの意味を教えるのも、死期が近づいた者の定めなのかもしれません。

 若く見られたいなどとくだらぬことにうつつを抜かす暇があるなら、人生の真実に迫る努力をするほうがよほど有益でしょう。

 年は隠せないものですから。

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メイ・デー

2013年05月01日 | 思想・学問

 今日はメイ・デーですね。
 1886年5月1日、米国はシカゴで労働者が8時間労働を求めてストライキを行ったのがその起源だとか。
 当時は単純労働者の労働時間が12時間以上だったと言いますから、8時間労働の実現はユートピアのように思えたでしょう。

 トマス・モア「ユートピア」では労働時間は6時間とされていますから、それより2時間長い労働時間を勝ち取るために、先人は頑張ったのですねぇ。

 今、私の労働時間は7時間45分。
 隔世の感があります。

 しかし人間というのは欲深なもので、今の私はトマス・モアのように6時間労働を夢想しています。

 わが国でも大正時代からメイ・デーの運動が行われ、太平洋戦争の最中とその前後を除き、今も続けられています。

 私が中学生の頃、5月1日は必ず休暇を取る教師がけっこういました。
 たぶん日教組の教員だったのだろうと思います。
 今では組織率が3割程度まで落ち込み、見る影もありませんが、30年前にはけっこう影響力のある組織でしたね。

 労働組合に偏見を持つ人は多いと思いますが、私は労働組合が行ってきた運動は、括目すべきだと思っています。
 時の政府に逆らうような行動にまで出て、多くの労働者の待遇改善を求めたその勇気は、賞賛に値します。
 私はデモもストライキもしたことがありませんが、彼ら勇気ある人々のおかげで、一日7時間45分、完全週休2日、年休は年間20日、そのほかに夏季休暇を付与され、さらに病気休暇や葬式や結婚の際の特別休暇も貰えるのですから。
 また、女性であれば出産休暇も取れますし、男女問わず子供を授かれば3年間に及ぶ育児休暇も貰えます。
 また、育児休暇中は無給になることから、給料は減りますが一日6時間の時短勤務を選ぶこともできます。

 1886年のシカゴの勇気ある労働者からみれば、これ以上望むべくもない厚待遇を、今を生きる私たち労働者は当たり前のように享受しています。
 しかし、ここに至るまでには血のにじむような先人の努力があったことに思いを致すべきでしょう。

 私もまた、今得ている権利を当たり前のこととして日々を過ごす愚か者ですが、5月1日くらいは、待遇改善を求めた大先輩たちの熱い思いに心を致したいものです。

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誇り

2013年04月26日 | 思想・学問

 平日の朝目覚めるたびに、今日はずる休みしてやろう、という気持ちに襲われます。
 しかしその日のスケジュールを思い起こし、泣く泣く出勤の車に乗り込むのです。
 飯を食い、酒を飲むためにはやむを得ざる仕儀というわけです。

 3回目の長期病気休暇から復職して今月末でちょうど丸3年。
 欲深な私は、給料を守るために、ただ隠忍自重の日々を重ねてきました。
 しかしこの3年間を思い起こしてみると、私は傲慢なまでに、おのれ独りの事務処理能力に恃み、困難に出会って泣きたい時も、平気なふりをして、世界一気楽な仕事をしているかのような顔でやせ我慢を続け、すると不思議なことに問題は解決していったのでした。

 安倍自民党も維新の会も、判で押したように教育改革の必要性を訴えます。
 それは学校教育のことで、じつは最も重要な教育は家庭で行われます。
 特に学齢期にいたるまでの幼児教育は、子供の将来を左右する重大なものです。

 私には子供がありませんが、平たく言って、父親の役割はシンプルなものだろうと思っています。
 まず、子供を子供としてではなく、小さな大人として、一人前の人間として尊重することです。
 さらに、子供を、世界で最も重要な人物だと遇して、子供に限りない誇りを持って生きられるように導くことです。

 人というもの、他人から高い評価を受けることが、生きがいにつながるものと思います。

 長い人生の最初の最初に、子供から見れば世界の全ての価値観を体現している父親が、子供を認め、尊重することで、子供は限りない誇りを持つことができ、幼児の頃に培った限りない誇りは、その後いかなる挫折に会おうとも、揺らぐことはありません。

 かく言う私も、今は亡き父から、限りない誇りを持って、おのれ独りの信念に忠実に、孤独な人生を生き抜くことを教え込まれました。

 それは言葉によるものではなく、父が私に接する態度や、時には目上の相手に対しても激しい口論を厭わない信念を曲げない生き方から、間接的に学んだものです。

 私はそのことを、深く感謝しています。
 そうでなければ、度重なる私を襲う精神上の問題に押しつぶされ、私は廃人同様になっていたことでしょう。
 しかし私は長期の病気休暇の最中にあっても、限りない誇りと自信を失うことなく、自助グループに通ったり、リワーク・プログラムに通ったりして、捲土重来を期し、今のところそれはうまくいっています。

 子供がいない私が言っても説得力はないかもしれませんが、世の親たち、わけても父親の皆様におかれましては、どうか問題児であろうともどこまでも子供の人格を尊重し、子供が誇り高く生きられるように導いていただきたいと思います。

 私は、誰もが世界一偉いかのような顔をして生きられる世の中を夢想しています。

 おのれ独りを尊重できないようでは、他人を尊重することなどできません。
 おのれが重要人物だと思えばこそ、他人もまた、それぞれ重要人物だと気付くだろうからです。

 わが国には謙譲の美徳というものがあります。
 しかし謙譲というのは、何も卑屈になることではなく、謙譲という手法によって、他人を尊重することだろうと思います。

 何よりも、おのれ独りが、限りない高い誇りを保つことが重要であり、私は誇り高い人を尊敬します。

 滅多やたらに自己卑下するような人は、気持ち悪くて仕方ありません。 

 おのれ独りを恃んで、誇り高く生きることが、幸福への近道であり、それには何より家庭での幼児教育が重要でありましょう。

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大学ランキング

2013年04月22日 | 思想・学問

 世界の大学ランキングというのが毎年発表されます。
 ここで30位以内に入るのはわが国では東京大学だけ。
 それも27位。
 寂しいかぎりです。

 それでも、アジアの大学では1位となっています。
 いかに高等教育が欧米中心となっているかが分かります。

 残念なのは、東京大学は論文の引用数では世界トップレベルにあるのに、総合評価では27位にしかならないことです。

 留学生の受入れ数など、研究よりも教育分野で低い評価を受けています。
 これは長いことわが国の大学教員が研究を重んじ、教育を軽く見てきた証拠でしょうねぇ。

 しかし近頃、高等教育機関は広報や外部資金の獲得に熱心になってきています。
 少子高齢化が進み、大学が淘汰される時代が近付いたためだと思われます。

 平たく言えば、金を引っ張ってこられる教員と、学生に人気がある教員が生き残るということになりましょうか。

 時代の流れとはいえ、地道に基礎的な研究をしている学者にはしんどいことになりました。
 特に文学・哲学などの分野においては、いかに高名な学者といえども、外部資金を獲得するのは困難でしょう。

 どうしても医学・薬学・工学など、利益に結びつく分野が有利です。
 しかしそういった金になる学問も、金にならない分野の研究のうえに成り立っているはず。

 もし金にならない学問を公的機関が補助しなければ、日本の高等教育及び学術は滅んでしまいます。

 高等教育行政・学術行政を担う行政官は、そのことを肝に銘じなければなりますまい。


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ボストンマラソンと道徳律

2013年04月16日 | 思想・学問

 ボストンマラソンの最中、爆発事件が起きました。
 それも2回続けて。
 死者3人、負傷者は130人にも達するそうです

 怖ろしいですねぇ。

 ランナーも観衆も生きた心地がしなかっただろうと思います。

 米国政府はテロ事件と見ているようです。

 テロというのは昔からあり、それが大規模になれば革命となり、革命が成功すればテロはテロとして裁かれることはなく、むしろ英雄的行為として賞賛されます。
 よく、一人殺せば殺人犯だが、100万人殺せば英雄だ、などという言説を耳にします。
 人間の歴史をみれば、悲しいかな、それは事実。
 正義というものも時と場所によって大きく変わります。

 現代、わが国を含む先進諸国では、自由と民主主義が普遍的価値とされています。
 しかし、未来永劫続く普遍的価値など人の世に存在し得ようはずもなく、それがじつは嘘であることは疑いの余地がありません。
 ただ、現世を上手に生きていくためには、自由と民主主義を信奉しているふりをするほうが得策です。

 戦時中、多くの人が天皇が神だなどとは思っていないのに、時代の要請に従って、やむを得ず天皇陛下万歳を唱えて戦いました。
 自由と民主主義を擁護するのもそれと似たようなものです。


 米国がお節介にも世界に押し付けようとする自由と民主主義も、かなり胡散臭いものだと思ったほうがよろしいでしょう。

 大体において、おのれが信じる価値観で動く人は扱いにくいものです。
 信仰を貫いて拷問に耐えて死んだ殉教者など、最も厄介な人種でしょうねぇ。
 何しろ死んでも言うことを聞かないのですから。

 付き合いやすいのは、損得勘定で動く人ですね。
 損得で動く人は分かりやすいし、交渉ができます。

 しかし信念で動く人とはそもそも交渉が成り立ちません。

 もちろん、誰もが損得だけを考えて生きていたら、それはそれで生きにくい世の中になり、弱肉強食になってしまいます。
 そのために宗教や武士道などの道徳律を発達させてきたわけでしょう。

 道徳律がよく機能するためには、まず共同体の中でその道徳律が認められ、多くの人が守ることが必要です。
 そしてその道徳律を否定するような別の道徳律が存在しないか、存在してもごくわずかであることも重要でしょう。

 
 自由と民主主義の厄介な点は、暴力に訴えないかぎり、あらゆる多様な価値観を認めようとすることにあろうかと思います。
 つまり、自由と民主主義そのものを否定するような価値観も認めなければならないわけで、その場合自由と民主主義と言う価値観は、自らを危険にさらす要素を根源的に持っていることになります。

 そうかと言って、現代社会を生きる私たちは、自由と民主主義を超える新たな価値観もしくは道徳律を確立し得ていません。

 前世紀後半、共産主義がそれに取って代わるかのごとき勢いを見せましたが、見事なまでに凋落してしまいました。

 したがって、私もまた、不承不承ではありますが、現代社会において比較的マシな価値観、道徳律は何かと問われれば、自由と民主主義と答えざるを得ません。

 人は誰も、時代の影響から逃れることはできないのですから。

 あぁ、私を強烈なカリスマで導いてくれる指導者が欲しいですねぇ。
 それを盲信して生きることができれば、こんな楽なことはありますまい。

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復活祭

2013年03月31日 | 思想・学問

 今日はキリスト教西方教会系ではイースター(復活祭)なんだそうで。

 キリスト教では、磔にされたイエスが死後3日経って復活したとされており、今日がその復活を祝う祭りだと聞き及びました。
 しかし毎年何月何日と決まっているわけではなく、3月後半から4月前半の日曜日、月の満ち欠けによって決まるんだとか。
 また、西方教会系と東方教会系では、布教の過程で土着の古い宗教の習慣を取り入れたため、イースターを祝う日も違うとかで、なんだかいい加減ですねぇ。

 よく米国の映画などを観ていると、イースターにはウサギの着ぐるみを着た人々が練り歩き、家庭ではそれぞれに思い思いのご馳走を楽しんでいますね。

 中東諸国がイスラム教化前と後では大きく生活が変わったように、欧米ではキリスト教以前と以降で人々の生活や思考パターンが大きく変わったものと推察します。

 しかるにわが国では、仏教伝来後も根強く神道は残り、ついには神仏習合なんていう破天荒な理屈を作って、共存共栄を図ってきました。

 今でこそ神道の守護者に見える天皇家も、長いこと仏教を庇護し、出家して法皇となられる天皇も多くおられました。

 聖徳太子の父帝の用明天皇は、「仏法を信じ、神道を尊う」と述べたと、「日本書紀」にあります。

 そう考えると、神道一本やりの現在の皇室はむしろいびつであると言えましょう。

 わが国が原理主義的な思想を嫌い、仏教でも神道でも儒教でも耶蘇教でも、柔軟に様ざまな考えを取り入れたことは、戦国末期わが国に訪れたイエズス会の司祭たちが一様に驚愕したという、わが国民の知的好奇心の旺盛さにあろうかと思います。

 あるイエズス会士は、他のアジア諸国と違い、日本では民百姓にいたるまで、天文学の話や哲学の話の話に驚くほど熱心に耳を傾ける。しかし、なぜか神の話には関心を示さない、といったほどの意味の手紙を本国に書き送っています。

 そりゃそうでしょうねぇ。

 わが国には八百万の神々が住み給うわけですから、1柱くらい増えたってどうってことないし、そもそも昨日今日やってきた異教の神だけが唯一絶対で、わが国の八百万の神々は偽者だと決め付けられたら、怒るより前に失笑をもらし、聞く耳を持たなくなるのは必定。

 江戸時代、耶蘇教が御法度となっても、ひっそりと信仰を持ち続ける隠れキリシタンが存在し続けたようですが、それだって専門家である司祭は一人もいないわけですから、ずいぶん日本化したものと思われます。

 石川淳の小説「至福千年」では、幕末の混乱に乗じて、キリスト教による千年王国を築こうとする隠れキリシタンの一派の暗躍が気風の良い江戸弁風の文体で描かれており、フィクションとはいえじつに興味深い作品でした。
 やや難解ではありますが。

 私の職場には数多くの欧米人の研究者が長期滞在しますが、彼らと喫煙室などで話したところ、欧州ではキリスト教への信仰はほとんど姿を消して、風俗習慣として残ってはいるものの、多くは無神論者だそうです。
 一方米国では熱心なキリスト教信者が数多くいて、原理主義的団体も少なくないとか。
 ただ、いわゆる高学歴のエリートはあまり熱心な信仰は持っていない人が多いと聞きました。

 ナチのSS将校のキリスト教棄教率は99%を超えていたとかで、ヒトラーやヒムラーがキリスト教以前のゲルマン神話に回帰しようとしたためと思われます。
 それには同盟国日本で神話に基づく神道が途切れることなく隆盛を誇っていたことに刺激を受けたせいだ、という説も聞きました。

 宗教、とくにユダヤ・キリスト・イスラムの三つの兄弟宗教は、日本人から見るとほとんど同じ教えに見えるのですが、世界の平和と繁栄を言葉では願いながら、じつは侵略の尖兵になったり、紛争の原因を作ったりしてきました。

 この三宗教のわずかな違いを考えると、表面的には仏教の浄土門と禅門のほうがよほど違いが大きいように思えます。

 しかし、仏教では悟りにいたるには様ざまな門(宗派)があり、どの門から入ってもたどり着く頂上は同じなのだから、本質的に大乗仏教も上座部仏教も同じものだと考えるため、論争は起きても殺し合いまでには到りません。

  要するに同じ山を登るのに登山口がいくつもあって、どの登山口から登っても、ルートは違えど頂は一緒ということですね。

 
 ところが件の三宗教は、違いばかりを強調して血みどろの殺し合いを繰り返してきました。

 みみっちい話です。


 イースターという良き日に、あえて、キリスト教徒の皆様におかれましては、キリスト教が過去に侵した世界史上の巨大な過ちに思いを馳せてほしいものだと切望します。

イースターってなあに
Liesbet Slegers,女子パウロ会,聖パウロ女子修道会=
女子パウロ会



日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
宇治谷 孟
講談社



日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
宇治谷 孟
講談社



至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)
石川 淳
岩波書店

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犀の角

2013年03月25日 | 思想・学問

 今日もまた、引きもきらぬ俗物どもを相手に、つまらぬ仕事で一日を過ごしました。
 連中から見れば、当然私もくだらぬ俗物ではありましょうけれど。

 人が職場で過ごす一日は、言ってみれば嘘八百を並べ立て、脅してみたりすかしてみたり、誠に愚かな猿知恵で日々を暮らしているものだと実感します。

 霊長類なんて偉そうに名付けてはみたものの、およそ自然界を見回して、猿とその子孫ほどくだらぬ欲望にうつつをぬかし、馬鹿げた権力闘争を繰り返している生き物もおりますまい。

 はるか室町時代、「閑吟集」に見られる歌謡に、

 人はうそにてくらす世に 燕子が実相を談じ顔なる

 という文句が見られます。

 全くそのとおり。

 人が嘘八百を並べて俗界を生きているのに比べ、燕はその鳴き声でこの世の真実を語り合っているように見えるというわけです。

 「閑吟集」という書物、なかなかシニカルで、この世の真実の裏の裏を突いているようで、興味深いものです。

 それにしても、人はなぜこの儚い世に生まれ、限りある命を使って、出世やら、女性であれば子どもがいるかいないかとか、他人より優位に立ちたいと思うのでしょうね。

 お釈迦様は己と仏法のみを光とし、犀の角の角のようにただ独り歩め、と厳しい教えを説きました。

 漢語では、自灯明法灯明なんて言いますね。

 おのれ独りの信念と覚悟、それに仏法のみを頼りに、つまらぬ人付き合いを避けて道を求めよというわけで、それをサラリーマンをやりながら貫こうとすれば必ず、和をもって貴しとなす、愚かな大勢と衝突します。
 
 今の私がそうです。

 和を重んじれば、犀の角のようにただ独り歩むことはできません。

 しかし、サラリーマンであろうと坊主であろうと自分探しの末に初老を迎えてしまったフリーターであろうと、また、俗界で出世した俗物であろうと、人間であるかぎり、本当に知りたいことは、ただ一つしかないはずです。

 それは、人はなぜ生まれ、死ぬのか、という、死と宗教の問題。

 それに真正面に向き合うのは誰しも怖ろしいに違いありませんが、人間が求める最後の問いは、それに尽きると思います。

 で、あるならば、2年か3年一緒に働くだけの浅はかな人々との付き合いを大切にする時間があったら、くだらぬ付き合いはすべてキャンセルし、付き合いの悪い嫌な野郎だと言われようが、ごくわずかな自由時間をおのれの心に耳を傾けるほうが、よほど人生を豊かにすると思うのです。

 そういうわけで、水曜日に迫った課の送別会には欠席すると幹事に伝えた次第です。

閑吟集を読む
馬場 あき子
彌生書房



新訂 閑吟集 (岩波文庫)
浅野 建二
岩波書店

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
中村 元
岩波書店

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