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ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

人生がもったいない?

2013年03月15日 | 思想・学問

 ある時、40歳を過ぎた女性が、働いた経験もなく、独身を貫き、裕福な親と同居し、多額の小遣いをもらい、スポーツや旅行、芝居や美術鑑賞を楽しんでいる姿を紹介したテレビ番組を放送していました。

 それを一緒に観ていた父が、一言、「人生がもったいない」と呟きました。

 私は父とは真逆の感想を持ちました。

 素晴らしい人生だ、と。

 私は食うためにつまらぬ宮仕えに耐え、惚れた女と暮らすためには常識的に籍を入れるのが効率的だと思ってそうしました。

 しかしそれが、私に幸福感をもたらしたかと言えば、大いに疑問であると言わざるを得ません。

 なるどほど、私は手堅い職場に就職し、安月給ながら食う心配はありません。
 また、この人ならば、という相手と入籍し、家庭を築きました。

 しかし私は、これらこの世を上手に渡っていくための方途を自ら選んだことに、激しい後悔を感じます。

 乞食をやったって食っていくことはできましょう。
 家庭を持つなど、自ら重い荷物を背負うようなもので、賢明な者のすることではありません。

 要するに私は、おのれ本来の深い欲望よりも、世間体だとか、常識だとかを重視したわけです。

 なんという俗物。

 私は俗物を馬鹿にしながら、気がついてみたらその俗物になってしまっていたのです。

 しかし今さら、どうしろと言うのでしょう。

 私は俗物として20年以上擬態して生き続けてしまいました。
 もはやそれが擬態なのか本性なのか、それすら分かりません。 

 このまま黙って擬態を続けるより他、私には今後の生き方が思い浮かびません。

 しかし例えば、突如発心して出家するとか、すべてをなげうって行乞の旅に出るとか、そういう精神上の一大決心が私の精神を襲ったなら、私はそれに素直に従いたいと思っています。

 酒を飲んだり、女遊びに励んだり、様ざまな好みの耽美的芸術や物語に親しんだり、そういったことはもはや一通り済ませました。

 唯一私が心の奥深くで求めながら、実行に移していないことは、この世の真理を探す長い旅であるに違いありません。

 いつ私が発心するのか、それを待ちたいと思っています。

方丈記 発心集 歎異抄 現代語訳
三木 紀人
学灯社

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超能力

2013年03月13日 | 思想・学問

 研究機関に勤務していると、時折、一風変わった研究について教えを請いに来る人がいます。

 先日は、もう50歳は過ぎているかと思われるおじさんが、研究生として受け入れて欲しい、とコンタクトを取ってきました。
 おじさんの独自の研究によると、有史以前、現在の天皇家の祖となった一族が世界を支配しており、それらは古文書からも考古資料からも明らかだ、というのです。
 で、私が勤務する機関の文献史学者と考古学者はおじさんを押し付け合い、結局断りました。
 でもその話、偽書とされる竹内文書などとそっくりな気がします。
 受け売りですかねぇ。

 それを横で見ていて、福来友吉博士のことを思い出しました。

 明治末期、催眠術の研究によって東京帝国大学で博士号を取得した人で、東京帝国大学という日本最高のアカデミズムの現場で助教授を勤めながら、興味の対象が心理学から超能力に移り、千里眼やら念写やらの研究を始め、超能力者を集めて公開実験をやったりして、明治から大正にかけてマスコミをにぎわせた人です。

 しかし、検証実験ではことごとく失敗し、実証性がないと、事実上東京帝国大学を辞職に追い込まれ、その後は私設の研究所でひっそりと研究を続けながら、自らも超能力を身につけるべく、高野山で修行したりしたそうです。

 捨てる神あれば拾う神ありで、後に高野山大学の教授になっています。

 この人の実験が、Jホラーの金字塔、「リング」の貞子の母親のモデルとなったとされる人物です。

 この人、晩年は忘れさられた感がありますが、「リング」の大ヒットによって再び知られるようになりました。

 福来博士は当時のアカデミズムやマスコミからペテン師と言われましたが、今は必ずしもそういう扱いではなくなってきましたね。

 一般に超能力者と呼ばれる人の能力は、その時々で好調だったり不調だったりし、とくに自分に敵対的な態度をとる人の前では委縮するんだか緊張するんだか、不調になると言われていますね。

 いかに偉大な打者でも、10割打てる人は存在せず、それどころか4割打者もまず生まれないことを考えれば、毎回毎回必ず安定して超能力を発揮するのは無理でしょうねぇ。

 しかしポスト・ドクターが溢れかえり、博士号の大安売りのような現代とは違い、当時東京帝国大学で博士号を取るというのは大変なことだったと思います。
 おそらく超能力の研究を始めればせっかく築いた自らの地位も失うであろうことは予想できたはず。
 そうであってもおのれの探究心に従い、世間から後ろ指を差されながらも孤独な研究をつづけたのは、なかなかできることではありません。

 彼の研究を継ぐ者も当然アカデミズムの世界に居場所はなく、手弁当でやらなければなりません。

 世間を渡っていくのが不利だと判っていても、自らの信念を貫くというのはなかなか立派なことだと思います。

 当然、私には無理ですねぇ。

透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件
寺沢 龍
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竹内文書―世界を一つにする地球最古の聖典 (5次元文庫)
高坂 和導
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「竹内文書」の謎を解く―封印された超古代史
布施 泰和
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一周忌

2013年02月23日 | 思想・学問

 今日は実家のお寺で亡父の一周忌法要が営まれました。
 密葬および本葬のときとは違い、親族だけでひっそりと行われ、法要後の会食もくだけた雰囲気が漂いました。

 遺骨は亡父の希望で歴代住職の墓ではなく、祖先が眠る小さな墓へと納められました。

 これでいよいよ父も安眠できるものと思われます。

 生命力の塊のような、力強く、教養豊かで、欲深だった亡父も、72歳ではかなくなってしまうとは、人生というものはわかりません。

 過去、人々は死について様ざまな思考をめぐらせてきました。
 わが国の神話では死後は黄泉の国に行くとされ、それは穢れでもありました。
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三宗教では、やがて最後の審判の日が訪れ、すべての死者がいったん蘇って天国行きか地獄行きかの審判を受けるとされています。

 仏教では悟りを開けば輪廻転生を免れ、極楽往生できると説きました。
 それは後に発展し、日本仏教などの大乗仏教では、すべての衆生が救われると説くようになりました。

 とくに浄土真宗では、有名な「歎異抄」に見られる、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、と言って悪人正機説にまで高められました。

 悪人というのは犯罪者とかいう意味ではなく、深い信仰を持たない一般庶民ということです。

 すなわち、阿弥陀仏の本願はすべての衆生を救うことであり、信仰を持たない者までも追いかけて行って救ってくださるというありがたいお話で、浄土真宗が庶民の信仰を集め、日本最大の宗教教団に発展したことは故なしとしません。

 私たち人間にとって究極的に重大で、どうしても知りたい事柄は、死と宗教の話であるに違いありません。
 あらゆる学問は、一直線に死と宗教の問題に結びついていると言えるでしょう。

 父は謎めいた辞世の漢詩を残しました。

 あえてここでは記しませんが、およそ坊主が残すには相応しくない、あまりに人間的な、人生の不思議を嘆く内容です。

 私はこの辞世の解釈を、生涯かけて考え続けなければなりません。

 おそらくそれが、亡き父が私たち親族に課した最後の課題なのだと思います。

 亡父の冥福を祈ります。

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
千葉 乗隆
角川書店

 

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600年ぶり

2013年02月12日 | 思想・学問

 第265代ローマ教皇、ベネディクト16世が退位を表明しましたね。
 ローマ教皇の退位は600年ぶりだとか。

 この600年、ローマ教皇に就任すると亡くなるまでその職務を担っていたというわけで、おじいちゃんにはしんどかろうと思います。

 報道では、ローマ法王という呼称が一般的ですが、ローマ教皇庁は一貫して教皇と呼ぶようマスコミに働きかけており、正式名称はローマ教皇です。
 よりのほうが偉いからでしょう。
 キングではなく、エンペラーだというわけで、現在世界でエンペラーと称されるのはローマ教皇とわが国の天皇陛下の2人だけです。
 キングはたくさんいますが。

 ベネディクト16世という人、教義に厳格で同性愛や中絶、安楽死、はては避妊まで否定する石頭でしたね。
 前のヨハネ・パウロが世界中を飛び回り、温厚な人柄が愛されたのとは対照的でした。

 在任中にカトリック聖職者による少年らへの性的暴行が問題になった時、「性的暴行はカトリックに限った問題ではない」と発言して物議をかもしたり、イスラム教を攻撃したり、さらに仏教を称して「信仰の義務さえない自己陶酔」と批判したりして、教養の無さと他宗教に対する寛容さが無いことを露呈してしまいました。

 少年時代はヒトラー・ユーゲントに学んだ元ナチとも言うべき人ですが、ナチがユダヤ人を迫害したことから、ローマ教皇庁は一貫してナチを支持していたわけですから、そんな経歴はむしろ勲章だったのかもしれません。

 派手ななりをしてふんぞりかえるドイツ人、私はいけすかない野郎だと思っていました。



 次のローマ教皇には、カトリック至上主義みたいな考えは改めて、もう少し世界の様々な宗教や価値観に理解のある人が就任してほしいものです。


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皇紀2671年

2013年02月11日 | 思想・学問

 今日は建国記念の日でお休み。
 明治初期にわが国の建国を祝う日とされ、紀元節という名の祝日となりました。

 もともとの根拠は、日本書紀に見られます。
 初代の神武天皇が橿原宮で紀元前660年の元旦に即位し給うた日ということで、それを太陽暦に換算すると2月11日ということになるそうです。

 戦前は元号とともに皇紀が広く用いられ、今年は紀元2671年ということになります。

 敗戦後、長く紀元節皇紀も根拠が脆弱であり、しかも軍国主義の遺物であるとして忌み嫌われてきましたが、国民の間から紀元節の復活を願う声が澎湃として起こり、昭和46年、建国記念の日と名称を変えて復活しました。

 暦というのは西洋暦にしてもイスラム暦にしても根拠が明確ではありません。
 したがって皇紀の根拠が脆弱であることをもってこれを否定することはあまり意味がありません。
 暦は歴史的正統性よりも、国民に広く根付いているかどうかのほうが重要で、それは暦が日々の暮らしに欠かせないことから当然です。

 まして軍国主義とは無関係です。
 世界でも稀なくらいわが国で広く民主主義思想が流行し、軍人が軍服を着て表を歩くことを憚ったと言う大正デモクラシーの時代にも皇紀紀元節は何の違和感もなく行われていました。

 また、当時欧米で出版された日本史に関する書物にも、当たり前のように皇紀が用いられていました。
 キリスト教国ではないわが国が西洋暦ではなく、独自の暦を使うことは当然と考えられていたわけです。

 ただ、今となっては皇紀は国民の間に根付いておらず、これを復活させることは意味が無いでしょうね。
 しかし建国記念の日を祝うことには意味があると思います。

 日本古代史では天皇のうち最初の5代までは架空の人物とされているようですが、国民にとって重要なのは歴史的事実よりも、民族が大切にしてきた物語を伝承していくこと。
 共産国家のように革命である日突然国を作ったというのと異なり、なんとなく国が形成されていったわが国のような場合、神話であってもそれを仮に事実として伝承し、神武天皇の即位をもってわが国の始りとすることで、民族の自己同一性を維持することに役立つと言えるでしょう。

 そういう意味で数ある祝日の中でも、もっともおめでたい日が今日という良き日であることは間違いありません。

 おめでとうございます。



日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
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日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
宇治谷 孟
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Hybrid Culture

2013年01月04日 | 思想・学問

 わが国の文化は、伝統的にHybrid Cultureだと言われることが多いですね。
 適切な日本語が思い当たりませんが、混合文化とか混成文化と言うことでしょうか。

 古くは仏教の受容。
 これによって、神道を中心としたアニミズムの文化は一歩後退しましたが、神仏習合に見られるように、廃れることはなく、新しい文化である仏教と融合しながら、古い文化も生き残ってきました。

 また、儒教を受け入れる際、本場、中国では孝をなにより重んじるのに対して、わが国は意図的に忠ということに重きを置きました。
 これは結構大きな違いで、親孝行のためなら人様の迷惑になることも厭わない、という精神性を持つ中国に比べ、わが国は公のために尽くす忠こそ大事であるととらえました。

 また、明治期、例えば絵画などでは、欧米風の油絵や風景画がもてはやされましたが、そうかといって伝統的な名所図や浮世絵、襖絵などは廃れることはなく、むしろ欧米風の写実的な手法を取り入れながら独自の発展を遂げました。

 古くは和魂漢才、明治期には和魂洋才と言って、進んだ外国に学ぶけれど、精神はわが国独自のものを維持する、という宣言を行ったわけです。

 ここに、現在わが国を席捲するヲタク文化などのポップ・カルチャーが花開いた最大の原因があるように思います。
 今やわが国のポップ・カルチャーは、世界標準の文化になったとも言え、それはわが国がどんな技術や思想を取り入れたところで、わが国がわが国である国の根本を捨て去ることが無かったからだと言えましょう。

 例えばオーストラリアなどの美術館に行くと、アボリジニの芸術を展示するコーナーがあります。
 しかし、それら先住民の芸術と、欧米の芸術が交わることはありません。
 あくまで世界標準は欧米の芸術であり、先住民のそれは世界標準から外れたカウンター・カルチャーとしての扱いしか受けいていません。

 まぁ、一種の差別でしょうねぇ。

 しかしわが国は、伝統的な文化と舶来の文化を融合し、世界に例をみないHybrid Cultureを作り上げました。

 これは驚愕すべき事態です。

 私たちは、Hybrid Cultureを生み出した伝統文化と、素直に学んだ舶来の文化との融合を、より一層、称揚せしめねばなりません。

Hybrid Cultures: Strategies For Entering And Leaving Modernity
Renato Rosaldo,Nestor Garcia Canclini,Christopher L. Chiappari,Silvia L. Lopez
Univ of Minnesota Pr


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終末

2012年12月19日 | 思想・学問

 数年前から、古代マヤ文明にみられる2012年12月21日頃に世界は終末を迎える、という風説が流布され、世界を混乱と狂騒に導いていますね。

 「2012」なる映画まで製作され、ヒットしたとか。

 古代マヤ文明が栄えたメキシコでは、その日に何が起こるかを見届けようと世界中から観光客が押し寄せるそうです。

 また、フランスのピレネー山脈にある小村では、ピレネー山脈の神秘的な力によって終末から逃れられるとされ、こちらにも多くの人々が集まるようです。
 中国では蝋燭や非常食が飛ぶように売れ、絶望した中国人男性が23人に刃物で切りつけるという無差別殺人を敢行したとか。

 困っちゃいますねぇ。

 一方わが国では、最後の審判を説くユダヤ・キリスト・イスラムのアブラハムの三宗教がまったく根付いていないことから、世界の終わりという概念にさしたる興味を示しません。

 私が思い出すのは、1999年の7月ですかねぇ。
 当時大流行したノストラダムスの大予言によると、この時期に世界が滅ぶとされ、わが国でも安いオカルト番組で面白おかしく取り上げていました。

 しかし件の予言には、「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる。その前後、マルス(米国という説が有力)は正義の名の下に世界を支配する」としか書かれておらず、必ずしも終末を指してはいないのですよねぇ。

 恐怖の大王を核兵器だとする説や巨大隕石だとする説が唱えられました。

 しかし今から思えば、2000年の9.11テロのことだったのではないか、という意見が有力になっています。
 飛行機など存在しない時代のフランス人が、幻視によって9.11を見たとしたら、高層ビルに突っ込んでいく飛行機は恐怖の大王に見えたことでしょう。

 世界の終わりという観念には、どこか人を浮かれさせる作用があるようです。
 終末願望とでも言うんでしょうか。

 わが国でも平安時代に末法思想というのが流行りましたね。

 ただしこれは、お釈迦様の入滅後、1,000年間は正しい仏法が残り、次の1,000年間は像法と呼ばれる形ばかりの仏教に堕し、その次の1,000年間で仏教は衰退する、というもので、終末思想とは大分趣を異にします。

 醜い争いに明け暮れた戦争の歴史でしかない人類史を一度リセットし、新たな世界を切り開きたい、という極端な願望は、私自身の中にも厳然として存在します。

 しかし、リセットしたところで、また同じような殺し合いをするのだろうという絶望にも似た気持ちもあります。

 1999年7月に何も起こらなかったように、今週に迫った2012年12月21日前後にも、何も起こらないでしょう。

 人々はその日、淡々と飯を食い、糞をひねり、仕事をして、風呂に入って一杯やって眠るのです。
 それが人間の生活というものです。

 しかしもし、巨大隕石が衝突して、終末を迎えるのだとしたら、私はそれを切望してやみません。

 私にも、終末を心待ちにする愚かな心性が備わっているのです。

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ノーベル賞受賞式

2012年12月11日 | 思想・学問

 昨日、スウェーデンのストックホルムでノーベル賞授賞式と晩さん会が行われたそうですね。
 わが国からは山中伸弥先生が医学・生理学賞を受賞。
 50歳と異例の若さです。
 ノーベル賞というともう第一線を退いたおじいちゃんが過去の業績でもらう、というイメージがありましたが、山中先生は現役ばりばり。
 これからも多くの業績を挙げるでしょう。



 晩さん会では奥様と二人の娘の着物姿が地元で話題になっていたとか。
 山中先生も紋付きで登場すればより注目を浴びたでしょう。
 ノーベル文学賞を取った川端康成がそうしたように。



 そして、ノーベル賞の話題になると、平和賞しか取ったことがないお隣、韓国が珍しくわが国を褒めまくるのが気持ち悪いですねぇ。

 自然科学系のノーベル賞が欲しくて仕方ないようです。

 しかし韓国ではパクリ論文や、実験結果の改竄がたびたび問題になっていますね。

 日本人のように失敗を繰り返してもしつこく研究を続けるという根気がなく、地道な努力が苦手なようです。
 それでいて、早急に結果を求めたがるのだから手に負えません。

 わが国では、考古遺物を様々な分析機器を使って自然科学的手法で調べるのが考古学の常識になっています。

 私が知っている韓国から留学してきた若い考古学者は、古代の豚の骨からコラーゲンを抽出し、豚が何を食っていたかを調べ、豚の家畜化がいつから始まったかを解明して博士号をとりました。

 ところがこの先生、ポスト・ドクターとして浪人中です。

 韓国に帰れば最も先進的な考古学者と呼ばれるはずが、韓国の考古学界では自然科学的手法はほとんど導入されておらず、帰っても職がないため、帰るに帰れないそうです。

 逆に日本で職を得ようとしても、日本ではその程度の手法を取る若手研究者はごまんといるため、やっぱり職につけないそうです。

 うまくいかないものですね。

 ノーベル賞受賞式の華やかさに憧れて日本を賞賛したり嫉妬したりしているだけでは、永遠に韓国人のノーベル賞受賞はならないでしょう。
 平和賞以外。

 平和賞は今年の受賞者はEUだとか。
 オバマが取ったり金大中がとったり、なんだか基準がわかりません。
 いっそ平和賞なんてお止しになったら如何でしょう?


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コスプレ

2012年12月10日 | 思想・学問

 コスプレと言えば、わが国のポップ・カルチャーであるヲタク文化の柱の一つ。
 ヲタクの人々がアニメやゲームのキャラクターの衣装を身につけて、思い思いにキャラクターに成りきるという誠に気色悪い文化です。

 私は一度、千葉市中心部を散歩中、千葉城に立ち寄ったところ、コスプレ大会が開かれていてぶったまげたことがあります。

 今月2日、ロシアで大規模なコスプレ大会が開かれたそうです。
 ヲタク文化は欧米やアジアでも大人気で、ヲタ芸を練習するサークルやコスプレを楽しむグループが世界各地に存在するとか。
 ヲタク文化はもはやポップ・カルチャーと言うより日本を代表する王道の文化になったかのごとくです。

 ロシアのコスプレ大会、日本人審査員が大挙して出かけていき、ロシアのコスプレのレベルは群を抜いて高い、と太鼓判を押し、コスプレイヤー達は本場日本の審査員から褒められて大はしゃぎだったようです。

 私もヲタク文化というものが持つわが国古来の文化との連続性に関心を持ち、秋葉原を散策してヲタクの人々を観察したことがあります。

 彼らの生態は、私の想像を超えたものでした。
 喫茶店でしかないはずのメイド・カフェはチャージを取るとか。
 ホテルのバーじゃあるまいし。
 それを聞いた瞬間、メイド・カフェというのは喫茶店ではなく、ソフト風俗なのだと理解しました。

 また、ヲタクの人々は立ち食いを好むようです。
 多くのレストランやそば屋などが立ち並んでいるにもかかわらず、おでん缶だとかサンドウィッチだとかを購入し、路上で食している人が大勢いましたね。

 一時期は大きなリュックや紙袋を提げて歩く人が多かったように思いますが、近頃はキャスターのついた大きなキャリーバッグを持ち歩く人が増えたようです。
 進化しているんですねぇ。

 わが国の文化というのは、軽味に到達することを良しとするように思います。
 面倒な理屈や論理を経て、枯れた味わいの軽味を身につけるわけですね。
 それを粋と呼ぶのでしょう。

 一見、ヲタク文化は粋の対極にあるようにも感じますが、しかし彼らもまた、軽味への志向を持っていることを感じます。
 あの一見馬鹿馬鹿しいヲタ芸を真剣に打つ姿は、粋に通じるのではないでしょうか。

 世界を席捲する日本発のヲタク文化が、世界に驚きと新鮮な興味を呼び起こしている事態は、わが国にとって誇らしいことです。
 ヲタク文化が新たな日本の古典となる日まで、ヲタクの皆さまには文化の発展に意を尽くしてもらいたいものです。 


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異教の祭り

2012年12月02日 | 思想・学問

 買い物のため車で移動中、FM放送を聞いていたら、早くもクリスマスの話題ばかりでした。

 クリスマスのお祝いは、元来、キリスト教徒がイエスの降誕を祝うもので、必ずしもイエスの誕生日ではないんだとか。
 敬虔なキリスト教徒はクリスマス・イブを静かにお祈りをして過ごすそうですね。

 わが国では大正時代頃から取り入れられたようですが、爆発的に広まったのは、敗戦後、戦勝国の真似をしたからかと思います。

 私が子どもの頃は、サラリーマンのおじさんが大挙して大酒をかっ喰らう日でした。

 その後バブル前後には、なぜか恋人と豪華なデートをする日とされ、クリスマス・イブにデートをしない若い男女は人にあらず、という悪習まで生まれ、中には相手もいないのに1年も前からクリスマス・イブの晩に豪華レストランやホテルを予約する強者まで現われました。

 当時大学生だった私はそのような世間の風潮を冷笑し、絶対に独りで過ごすと決めていました。
 デートはもちろん、男同士で飲みに行くことも自らに厳しく禁じましたね。
 まぁ、天邪鬼だったのでしょうねぇ。
 今でもそうですが。

 バブルが崩壊し、長い不況の時代を迎えると、クリスマスだからと言って特別なことはせず、せいぜい家族でケーキを食うくらいの、大人しめの日に変貌を遂げました。

 わが国ではクリスマスは祝祭日ではありませんし、単なる平日なので、基本的には仕事に行って帰ってきて、風呂、酒、寝る、という平凡な日常を繰り返すしかありません。
 曜日の並びによっては土日に重なることもありますが、それはまれなこと。

 キリスト教圏ではクリスマス前後は10日以上もの長い休暇となりますから、それは特別な日だと思いますが、わが国でそれにあたるのは正月休みでしょうねぇ。

 異教の祭りに熱狂し、しかも全く本来の主旨と異なった祝い方をするというのは、考えてみれば奇妙奇天烈なことですが、わが国には八百万もの神々が住み給うているわけですから、ちょっと毛色の変わった神様が1柱くらい紛れ込んだってどうってことない、ということなんでしょうね。

 奇妙ではありますが、もしかしたらわが国の宗教に対する寛容さというか節操の無さは、世界平和に大きく貢献するかもしれませんね。
 わが国のような態度をあらゆる国々、宗教が採用すれば、少なくとも宗教を原因とする紛争は無くなるでしょう。

 それなら我々は堂々と、節操の無い宗教観と、それに伴う寛容さを世界に喧伝する義務があるのかもしれません。

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中年の猿

2012年11月20日 | 思想・学問

 京都大学霊長類研究所は、チンパンジーの幸福度は中年にあたる30歳前後が最も低い、という研究成果を発表しました。
 社交性や運動の活発さなどから類推したようです。

 人間は40代が最も幸福度が低いとされています。
 これまでは、40代は仕事では責任ある地位に就きながら現場仕事もこなさなければならないしんどい世代で、さらに住宅ローンや子どもの教育費などで経済的にも苦しく、さらには老いた親の介護なども重なるために幸福度が下がると考えられてきました。

 しかしそういった社会的重圧が無いはずのチンパンジーも中年期に幸福度が下がると言うことになると、霊長類というものは中年期に幸福度が下がるようにプログラミングされているのではないか、という仮説が成り立ちます。

 そうすると、言わば更年期障害みたいなもので、避けがたい幸福感の低下ということになるんでしょうか。

 中年の私にはなんだか絶望的な研究結果ですねぇ。

 でも逆に考えれば、40代を底にして、また幸福感が上がってくるということですから、長生きすることへの希望が湧いてきますね。

 しんどい時は静かに、じっと堪えて嵐が過ぎ去るのを待つしかありません。

 もっとも私は、精神障害をほぼ克服し、底は脱出できたつもりでいます。 

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死期

2012年11月14日 | 思想・学問

 猫や象は死期を悟るといずこへともなく消えていく、という話を耳にします。
 最期はおのれ一匹または一頭となってあの世へと去っていきたいのでしょうか。

 なんだか羨ましいような気がします。

 スパゲティ症候群などと言って、体中に管を通され、無理矢理死期を延ばされる病人がわが国には多すぎるような気がします。

 人間には未来を予知する能力は無いとされ、死期を正確に悟ることは不可能だということになっていますね。
 それは本当なのでしょうか。

 人間は文明化の過程で失った能力がたくさんあるように思います。
 今では超能力とか超自然現象とされていることも、太古においては単なる能力、単なる自然現象でしかなかったのではないかと直感します。

 そうでなければ、占いや霊感商法にはまる人が現代でも数多く存在する理由がわかりません。

 現代人もまた、太古の昔持っていた未来を予知する能力や、死者や精霊との交流が、じつは私たちが今ここに存在するのと同じ程度の確からしさをもって、確かな物だと本能的に感じているのではないかと思わずにはいられません。

 科学的に証明されていない物は存在しないとするならば、おそらくこの宇宙に存在する物質の大半は科学的に証明されておらず、すると宇宙そのものがほとんど存在しえないことになってしまい、そのような科学的実証を金科玉条に信じることは、迷信と言って良いと思います。

 私は実証よりも私の直感を信じています。
 科学の常識は何年かすると覆り、非常識になってしまうことしばしばだからです。

 では宗教的な感情、一途な信仰というのはどういうものなのでしょうね。

 おそらく深い信仰を持ったからと言って、幸せになれるわけでも生きるのが楽になるわけでもないでしょう。

 しかしそれでいて、人間はアニミズムの昔から人間を超えた存在を作りだし、それを崇め信じることで社会を構成し、道徳律を規律してきました。

 米国の大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓することはよく知られています。

 わが国のような厳密な政教分離を採る国家では有り得ないことですね。

 つまり米国では本音はともかくキリスト教の神様の存在を前提として、あらゆる社会規範が構成されているというわけですね。
 物質文明の権化のような米国にしてからがこの有様ですから、多くの国家、民族が科学的実証とは無縁のところで精神文化を発達させ、維持し、社会秩序を保っていることが想像されます。

 わが国は無宗教の国民だと言われますが、正月には寺社に初詣でに行き、お盆には墓参りに行き、地域の祭りでは神社が中心となって神輿や山車が練り歩きます。
 信仰心があるかどうかは別にして、わが国民は極めて宗教的儀式を大切にしていると言って良いでしょう。

 かつて共産主義の親分は宗教はアヘンだと言いました。
 しかし今となっては、共産主義こそ猛烈な害毒をまき散らすアヘンであったことが明らかになってしまいました。

 ここにいたって、私の最初の問いに戻った感があります。
 どこまで行っても科学的な態度だけでは生きていけない人間という集団。
 その個々人には、死期を悟って静かに身を引く能力がかつてはあったのではないか、ということ。

 私はそうであってほしいと思う反面、その能力を持つことに怖れを感じずにはいられません。


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持ち時間

2012年11月03日 | 思想・学問

 昨日・今日と続いた漢籍文化の国際シンポジムが終わりました。

 日本・中国・台湾などの漢籍の研究者が集まって、200名程度の聴衆の前で発表や討論を繰り広げ、私は映写室からそれをぼんやりと眺めていました。

 日本人研究者と中国人・台湾人研究者との顕著な違いは、持ち時間に関する感覚。
 日本人研究者はみな持ち時間を守りますが、中国・台湾の先生方は、10分や15分、超過して平気です。
 中には40分も超過した強者がいました。
 もともとの持ち時間は20分なのに、1時間も熱弁を奮うのだからかないません。

 しかも馬鹿でかい声で。
 高感度マイクがあるのだから、大声を張り上げる必要などありません。

 日本人は時間に精確だとよく言われますが、このシンポジウムを見ていて本当にそうだなぁ、と思いました。

 それと、日本人研究者はパワー・ポイントを使うのに対して、中国・台湾の研究者はワードを使うのが気になりました。

 言うまでもなく、ワードはいわゆるワープロ・ソフト。
 文章を書くためのソフトです。

  パワー・ポイントはプレゼンテーションを効果的に行うために開発されたソフト。
 見る側からはもちろん、発表する側からしてもパワー・ポイントのほうがやりやすいのは明らかです。

 私も何度かパワー・ポイントを使ってプレゼンテーションをしたことがありますが、パワー・ポイントで資料を作る段階で、いやでも重要なことは何か、強調したいことは何かを考えなければ作れないようなソフトになっています。

 プロジェクターで映し出された画像がワードで作られたものであることを見た瞬間、話を聞く気を失います。
 長々書かれた文章を、ただ読み上げているだけだからです。
  聞く者が退屈しないように工夫しようという意図がまるで感じられません。

 
 私の職場では大学院教育も行っていますが、院生が研究発表する基礎演習という講座があり、ここでは繰り返し、持ち時間を守ったうえでどれだけ聞く者を納得させられるかということが徹底して教え込まれます。
 中身が良くても持ち時間を超過すれば、容赦なく、厳しい講評が浴びせられます。
 見ていて気の毒なほどです。

 中国や台湾の人が時間にルーズだとは聞いていましたが、海外で発表するような大物学者にしてからがあれでは、他国からの信頼は得られますまい。

 時間を守るとか、約束を守るとか、聞かれたことにはすぐ答える、答えられなければ何日以内に回答すると言ってその期日内に必ず回答するなどの小さなことを積み重ねていかなければ他人から信頼されることはないと思います。

 数にまかせて中国の常識だけで世界を渡っていこうとしているように見える中国。
 でもそんなことを続けていけば、紛争の種を蒔いて歩いているようなものですよ。

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霜降(そうこう)

2012年10月23日 | 思想・学問

 今日は暦の上では霜降(そうこう)ですね。

 露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也、と暦便覧にあります。

 霜降れば 霜を楯とす 法(のり)の城   高浜虚子

 法の城とは、仏法のこと。
 固く守るということで、城に喩えられるそうです。

 句意は、霜のようなはかないものでも、自らを恃みとして仏法を守るものだという、かなり抹香くさい句です。

 原始仏教では、法を恃み、己を恃みとして犀の角のようにただ一人歩め、とお釈迦様は説いています。
 漢語では自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)なんて言いますね。
 おのれと仏法だけを頼りにして、一人、修行せよということですが、これがなかなか難しい。

 人間はきわめて社会的な生き物で、坊主の世界にも組織があり、序列があります。

 そんな中、ただ一人歩めというのは、厳しい言葉だと思います。

 日本仏教では禅宗がわりとこの言葉に忠実かと思いますが、一方、自力での修行を諦め、ひたすら阿弥陀仏の衆生を救いたいという本願にすがり、他力=阿弥陀仏の力で救われようとする浄土教が庶民の広い支持を得、現在わが国の寺院では浄土真宗が最も多くの信徒を誇っています。

 私は若い頃禅門の厳しい姿勢に憧れましたが、中年に至って、浄土門の易しさに惹かれるようになりました。

 私の実家は日蓮宗の寺で、根本経典たる法華経にも親しみましたが、なんだか仏教説話の羅列のように感じられて、もう一つ心に響きません。
 しかし、宮沢賢治や北一輝、井上日召など、熱心な法華経信者も数多く存在します。
 それら法華者の生き方というのは時に激しく、そのために今も日蓮宗にはどこか過激なイメージがつきまといます。

 禅宗にしても浄土教にしても日蓮宗にしても、鎌倉時代という日本版ルネサスンスの時代に花開いた日本仏教の精華というべきでしょう。
 鎌倉仏教を持ちえたことは、わが国の精神文化に多大な影響をもたらしたことは間違いありません。

 もっと深く、日本仏教の精華を学び続けたいものです。

図説 法華経大全―「妙法蓮華経全二十八品」現代語訳総解説 (エソテリカ・セレクション)
大角 修
学習研究社



虚子五句集 (上) (岩波文庫)
高浜 虚子
岩波書店



虚子五句集 (下) (岩波文庫)
高浜 虚子
岩波書店
原始仏典 (ちくま学芸文庫)
中村 元
筑摩書房

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
中村 元
岩波書店


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韓国人のノーベル賞はいつ?

2012年10月16日 | 思想・学問

 日本人がノーベル賞をとるたびに、日頃日本叩きに忙しい韓国マスコミは突如豹変し、嫉妬混じりに日本人学者を、そしてわが国の学術行政を賞賛し、翻って韓国はだらしない、と反省一辺倒になりますね。

 韓国でノーベル賞を採ったのは平和賞の金大中だけ。
 平和賞は政治的な色合いが濃く、何かと批判されます。

 韓国ではこれといった文学者がいないのか、文学賞ははなから諦めているようで、科学関係の賞が欲しくて仕方ないようです。

 でも地道な努力と、失敗の連続にめげないしつこさを、彼らが持っているとは思えません。
 それどころか論文の盗作や、恣意的に実験結果を導いたりすることが日常茶飯事のかの国にあって、そんな馬鹿正直な学者は少ないのではないかと思います。

 予算だけを考えれば、わが国の学術行政はそんなに潤沢なわけではありません。
 しかし、競争的資金が多く、そのために結果として優秀な研究への選択と集中が行われていることはありうると思います。

 だいたいノーベル賞なんて、狙って取れるものではありません。
 むしろ気が付いたら貰っていた、という感じなのではないでしょうか。

 そこがオリンピックのメダルとは大きく違いますね。
 一発勝負で、狙ったから取れるわけではありませんが、そもそも狙わなければ取れないものでしょう。

 今回の山中先生の場合は論文発表からわずか6年で受賞というスピード受賞でしたが、過去の例を見ていると、何十年も前に発表した基礎研究の論文が、後に実用化されて社会に貢献し、晴れて受賞にいたるということが多いようです。

 ということは、韓国人学者が今画期的な論文を発表しても、受賞は20年も30年も後になる可能性が高いということになります。

 彼らが自国のノーベル賞受賞者を囲んで美酒に酔うのは、相当先になりそうです。


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