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ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

奇妙

2015年02月24日 | 思想・学問

 ドイツでは長いこと、ヒトラーの著書、「わが闘争」は発禁でした。
 あの暗い過去の記憶が、表現の自由よりも、禁書扱いにしたほうが楽だと思わせたのでしょう。

 しかし、わが国においても、他の自由民主主義国家においても、「わが闘争」は容易に手に入れられる書物であり続けています。

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
平野 一郎,将積 茂
角川書店

 

わが闘争(下)―国家社会主義運動(角川文庫)
平野 一郎,将積 茂
角川書店

 私も学生の頃読んだ記憶があります。

 これはミュンヘン一揆に失敗して監獄に入れらていた数年の間に獄中で書かれたもので、ナチズムの怖ろしさはまだそれほど伝わってきません。
 この本はドイツでベストセラーになり、ヒトラーの個人資産は、ほとんどがこの本の印税であったと伝えられます。

 このいわくつきの書物が、近々ドイツで再版されることになったそうです。

 私は結構なことだと思います。
 ナチズムの中核となる思想を一般のドイツ人が読めないのでは、ナチ統治下の反省をするにも、その理由が分らないでしょうから。 

 なぜナチズムはあれほどドイツ民族を熱狂させたのか、また、今なおナチズムに傾倒する者が存在するのか、それを考えるには最高のテキストであろうと思います。

 じつは私も、一時期、ナチ親衛隊の格好よさに憧れていたことがあります。
 黒づくめの制服に、髑髏をあしらった帽子。
 ほとんど漫画のような、おどろおどろしくもスタイリッシュな制服です。

 もちろん、彼らが行った戦争犯罪、人道に対する罪は許されるべきではないでしょう。
 しかし制服に罪はないはずです。

 また、ヒトラーの「我々は世界を焼き尽くす」という発言などは、未熟な少年の心をとらえるに十分な過激さを持っています。

 少年というもの、多かれ少なかれ暴力への志向性を持っているものですから。

 大人になるにつれ、普通は暴力への志向が消え失せ、やがて全てが面倒くさい、疲れたおじさんになってしまうのでしょう。
 今の私がまさしくそういう状態です。

 今更SSへの憧れなんて持ちようもありませんが、今も奇妙なものや不思議なもの、妖しい美を感じさせる芸術や文学は、私にとって最もシンパシーを感じさせる物であり続けています。

 その心性が、私をしてSSへの興味を持たせた原因であろうと思います。
 思想ではなく、パッと見ですね。

 思い起こしてみれば、6歳の時に初めて書いた物語が、「ドラキュラの歯は無い」というタイトルでした。
 年老いて牙を失った吸血鬼の悲しみを描いた作品です。

 三つ子の魂百まで、と言いますが、本当に私は奇妙なものが好きなのだなと、我ながら呆れるばかりです。

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2015年02月18日 | 思想・学問

 低気圧の関係でしょうか。
 なんとなくだるいですねぇ。
 困ったものです。

 精神障害者には、悪天候になると起き上がれないという人が多くいます。

 私の場合、起き上がれないというほどのことはありませんが、なんとなくだるく、眠いのを常とします。

 で、まさに今日がそういう日です。
 それでもとりあえず出勤は出来ているので、だましだまし一日をやり過ごすほかありません。

 それにしても精神の障害というのは難しいものです。
 内臓の病気のように、血液検査などで、どこがどれだけ悪いかといったことを調べることができません。

 精神科医に話をして、精神科医は話の内容、口調、表情などから、おそらくこんな病気で、これくらい重いだろう、と判断して薬を処方するわけです。

 なんとなくもやもやしますね。

 また、患者が正直に状態を話さなければ適切な治療ができませんから、落ち込みが激しかったり、逆に上がりすぎている場合、うまく状態を話すことが難しいでしょう。 

 病的な心の闇を抱えている場合、治療が必要ですが、健常者といえども、何らかの闇を心の奥深くに抱えているものです。

 その闇は、人間を人間たらしめている物ともいうべきで、闇がなければ人間じゃないとすれば、人というもの、よほど因業に生まれついているようです。

 これを根本的に解決する、しかも万人に有効な方法は存在し得ません。
 だからこそ闇なのでしょう。

 文学や芸術は、自然の美を人工的に写し取ることと、心の闇を抉り出すことが、大きな2つのテーマだと思います。
 もちろん、人工美を作り出しつつ、それによって心の闇をあぶりだすという手法も多くみられます。

 ただしそれは、提示するだけで、解決策を探るものではありません。

 人は誰も、それぞれの方法で、心の闇を克服するか、それが無理なら共生していくための魂の漂流を、生涯、続けなければならないようで、それは大層面倒くさいことですが、それこそが生きるということの本質であるような気がします。 

 草食獣であれば肉食獣に捕食されるかもしれないという恐怖、肉食獣であれば獲物が得られないのではないかという不安を抱えていることでしょう。

 人間はもう少し複雑に出来ていると思いますが、恐怖や不安を抱えたまま生きるという意味で、動物と変わりません。 

 これを救おうと宗教や哲学が誕生したものと推測しますが、成功した宗教や哲学を私は知りません。 

 であるならば、人はみな、自分だけの宗教、自分だけの哲学を持ち、己は己独りの力で救うしか、方法は無いように思います。
 それが思想信条と呼ばれるものなのでしょう。

 人はこの困難な闇を克服するか、それが無理なら共存して生きていかなければなりません。

 きついことを言うようですが、私はそう思っています。 

 ではお前はどうやって闇に対処しているのかと問われれば、精神病薬と、わが国の伝統的な文化に拠っているとしか言いようがありません。 

 時の審判を経て生き残った古典などの伝統文化は、闇に対処するための示唆に富んでいるような気がします。

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福は内、鬼も内

2015年02月03日 | 思想・学問

   今日は節分。

 「鬼は外、福は内」と叫びながら豆をまき、年の数だけ豆を食い、これからの健康を願い、併せて幸多い年であることを祈る行事です。

 私は子供のころ、親と一緒に庭に向かって「鬼はー、そとー」と叫び、家内に向かっては「福はーうちー」と言いながら豆をまきました。

 今となっては楽しい思い出です。

 しかし、元来がひねくれ者の私。

 高校生になると、この地球に共存する存在としての鬼は、必ずしも追い払うべき存在ではないし、寒空に追い出すのはかわいそうだと思い、「福はー、うちー、鬼もー、うちー」という掛け声のもと、家の中だけに豆をまくことにしました。

 成田山新勝寺でも、「福は内」は唱えても「鬼は外」は唱えないと聞きます。
 新勝寺のご本尊のありがたい慈悲により、鬼はたちどころに回心してしまうため、「鬼は外」は必要ないとのことでした。

   私の流儀はそれとは異なります。
 鬼であれ妖怪であれ、異形の存在といえど、地球上の生き物ですから、人間とうまくやっていくことができるに違いない、という予感を持つに至ったからです。

 古来、鬼や妖怪は、大和朝廷にまつろわぬ人々の蔑称とする説が根強くあります。

 それならば、虐げられた鬼や妖怪を暖かく迎えることが、あるいはそのような精神を持つことが広い意味での世界平和につながるのではないかと思います。

    要は敵や邪悪な存在を設定しないことです。
 「話せばわかる」ということです。 

 邪悪なテロリストが横行する今だからこそ、被差別民であったと思われる鬼を、福といっしょに迎えたいと思っています。 

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宇宙意志

2015年01月28日 | 思想・学問

 今、イスラム国による人質事件が起きて、イスラム教というもの、ひいては宗教というものの在り様を考えざるを得ません。

 私たち日本人は、宗教に極めて寛容で、あなたは何教徒ですか、と問われれば、圧倒的多数が無宗教と答えるでしょう。
 私自身も、仏教や神道、儒教や西洋哲学が混然一体となった、私一人だけの宗教のようなものを信じているとしか言いようがありません。

 それはもはや宗教などというものではなく、個人的な思想信条と言うべきものなのでしょうね。

 これは世界では特異な現象なのではないかと思います。

 欧米では、インテリ層の多くがキリスト教を信じてはおらず、単なる慣習と捉えていると聞いたことがあります。
 それでもインテリ層以外では、今もキリスト教は心の支えになっている例が多いようです。

 ロシアでもソビエト崩壊後、ロシア正教が復活し、多くの信者を集めています。
 イスラム圏となると、イスラム教を信じる者でなければ真なる友情を育むことは難しいと聞き及びます。

 よく聖書に隣人という言葉が出てきますが、ものの本によると、隣人というのは何も隣近所に住む人という意味ではなく、同じ宗教を信じる親類縁者という意味だそうです。
 したがって、敵を愛せという教えも、敵対する個人や国家というより、異教徒とか、親類縁者以外の者という意味になるようです。

 これは宗教を意識せずに生きている日本人にとって、驚愕すべき事態で、裏を返せば私たちが宗教に無頓着であるという事実は、イスラム教徒らにとって驚くべき状態ということになるでしょう。

 私たちはこの島国の小さな常識に従いつつ、多くの国々においては宗教が死活的に重要な意味を持っていることを思い知るべきでしょう。

 1986年にスペースシャトルが打ち上げ直後に爆発するという痛ましい事故が起きました。
 この時大江健三郎は、宇宙意志からの警告という挑発的な言葉を使いました。

 下品な物言いだと思います。

 しかし私は、宇宙意志だか主だかアッラーだか知りませんが、何かしら人智を超えた存在が確かに在るという予感を持ち続けています。
 もしかしたらそれぞれの宗教が最高神と呼ぶものはすべて同じなのではないか、と。
 それをそれぞれの文化に合った形の宗教にしているだけで、本質は変わらないような気がしてなりません。

 SFでよく描かれるような、人間よりほんの少しだけ知能が高い生命体が太古の昔に地球にやってきて、それを人々は神様だと信じたのだとかいう与太話も、あながちウソではないような気がします。
 単なる知能の高い生命体であればこそ、神様は完全では無く、争いの種を生んだのかもしれません。

 唯一絶対神を設定してしまえば、それ以外の神様はすべて偽物だということになるのは理の当然で、神様は唯一だとする教義を持てば、争いが絶えるはずはありません。

 わが国では仏教の受容に際し、神仏習合とか本地垂迹とかいう理屈をひねり出し、神も仏も姿かたちや成り立ちが異なるだけで、本質的には同じものなのだという一種の方便を作り出し、それがゆえ、たとえ他宗派と激しく議論したり、時には罵り合いのようなことをしながらも、宗教戦争というのはついに起きませんでした(但し、権力者に弾圧された場合の抵抗は除く)。

 ここに、宗教的対立を解決する糸口を見出すのは、私がこの国に生まれ育ったことだけに拠るものでしょうか。
 もしそうなら、宗教対立について、私は語る言葉を持ちません。
 そうでないなら、わが国以外にも神仏習合や本地垂迹に相当するような思想を生み出す余地があると言え、私はそれこそが宗教に起因する争いを防止する策であろうと考えています。

 もし宇宙意志が平和を望まない邪悪な存在でないなら、それは達成可能な目標のような気がします。 

 平和な国のマイナーな意見かもしれませんが、私はまじめにそう考えているのです。

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暗黙知

2015年01月17日 | 思想・学問

 なんだか軽い風邪がずうっと続いている感じで、今日も朝から微熱があります。
 こうなると、ひと冬続いちゃうんですよねぇ。
 困ったものです。

 今日、新聞で暗黙知、という概念を知りました。

 経験や勘などに基づく知識で、言葉では説明できないもの、だそうです。

 例として、知人の顔を覚えるとか、自転車の運転を覚えることが挙げられていました。
 たしかにどうして覚えたのか、なぜ忘れないのか、明確な言葉で説明することはできませんね。

 さらに敷衍して、暗黙知を軽視するところに現代社会の病理があり、共産主義や国家社会主義などの非人間的なシステムを生み出すもとになるのも、言葉に出来る思想や科学などを重視するあまり、暗黙知の無視または軽視にその原因があるのではないか、と推論していました。

 慧眼と言うべきでしょう。

 なんでも科学的に言葉で説明できなければならない、とする考え方は、人間として、いやむしろ生物としての在り方に反しているような気がします。

 人間はもっと摩訶不思議な力で動いており、暗黙知という概念を設定することは、それをよく表しているように思います。

 気が合うとか、惚れるとかいうのも、考えてみれば言葉では説明できないし、いけ好かない野郎だと思うのもまた然り。

 お釈迦様は悟りを開いたとき、あまりに深遠な教えなので、言葉で人に説くことはできないと考え、説法しようとしなかったと伝えられます。
 しかし三度説法を請われ、たとえ話など、比較的言葉にしやすい方法で説法を始めました。

 法華経にみられる火宅など、その好例ですね。
 また、常不軽菩薩の話なども、いわば例え話のようなものです。

法華経〈上〉 (岩波文庫)
坂本 幸男,岩本 裕
岩波書店

 

法華経〈中〉 (岩波文庫)
坂本 幸男,岩本 裕
岩波書店

 

法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)
坂本 幸男,岩本 裕
岩波書店

 仏教に限らず、およそ宗教というものは、その概念が説かれる前から、暗黙知を当然のこととして考えていたように感じます。
 そうでなければ、そもそも宗教なんて成立し得ないでしょう。
 それは神秘主義哲学なんかでもそうですね。

 今日新聞で初めて知った概念で、たいへん興味深く感じました。
 早速アマゾンで下の本を購入し、勉強してみたいと思います。

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)
Michael Polanyi,高橋 勇夫
筑摩書房



マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学 (講談社選書メチエ)
佐藤 光
講談社




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品がない

2015年01月15日 | 思想・学問

 フランスの新聞がイスラムの預言者を風刺する絵を掲載し、これに怒ったイスラム過激派がテロ事件を引き起こしたことが、たいそう話題になっています。

 この新聞、通常は6万部程度の発行のところ、最新刊は500万部刷ったとか。
 事件が宣伝効果を引き起こし、巨大な利益を得るとは皮肉なものです。

 イスラム教では偶像崇拝を禁止しており、預言者やアッラーの神を絵に描いたり像を作ったりするのはきつい御法度なんだそうで、メディアに表現の自由があることは確かだし、暴力でこれを封殺しようなどとということは許されませんが、フランスの新聞ももう少し異教の人々の心情を慮るべきだったでしょう。

 かつてイスラムへの冒涜の烙印を押された「悪魔の詩」を日本語に翻訳した筑波大学だかの先生が暗殺されたことがありましたね。

悪魔の詩 上
サルマン・ラシュディ,五十嵐 一,Salman Rushdie
新泉社

 

悪魔の詩 下
サルマン・ラシュディ,五十嵐 一,Salman Rushdie
新泉社

 しかし最近、もっと過激な書籍が販売されていることを知りました。
 幸福の科学の大川隆法氏が著した「公開霊言ムハンマド」とかいう本です。

中東で何が起こっているのか―公開霊言ムハンマド/アリー/サラディン (OR books)
大川 隆法
幸福の科学出版

 この人、生きている人も含め、あらゆる有名人の霊言なる本を出版して、表紙だけで笑わせてくれますが、ムハンマドはまずいんじゃないでしょうかねぇ。
 ムハンマドは、ひと昔まえまではマホメットと表記されていたイスラム教の開祖にして、アッラーの神の啓示を受けた預言者とされている人です。

 絵に描くだけで命が狙われてしまうのに、霊言とは畏れ入りました。
 思い切ったことをするものです。
 まさに表現の自由の闘士ですねぇ。

 ただ、イスラム過激派もあまりに馬鹿馬鹿しくて相手にしないかもしれませんね。

 もしイスラム過激派が大川隆法に手を出したら、幸福の科学の信者も黙ってはいないでしょうねぇ。

 多くの宗教が混在するわが国では、お正月には神社で拍手を打ち、葬式では寺院でお焼香をし、結婚式ではアーメンと唱えるのが普通のことです。
 例え内心の信仰とは異なる宗教でも、その作法を尊重するのが当たり前。
 それは礼儀の問題であり、人としての品の話です。

 そういう意味ではフランスの新聞、少々品のないやり方をしてしまったのではないでしょうか。

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STAP細胞はありません

2014年12月19日 | 思想・学問

 理化学研究所、STAP細胞の再現実験の結果、作れなかったため、STAP細胞は現時点では存在し得ないという結論にいたりました。

 予想どおりですが、ずいぶん発表を急いだ感があります。
 年内に決着をつけたかったんでしょうか。

 来年度の予算は、ざっくり5億円程度減額されるそうで、小保方氏という人、大したものです。

 その小保方氏は理化学研究所を退職するそうです。

 この一連の経過を聞いて、明治時代に大きな話題をさらった千里眼事件を思い出します。

千里眼事件―科学とオカルトの明治日本 (平凡社新書)
長山 靖生
平凡社


透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件
寺沢 龍
草思社

 東京帝国大学の福来友吉博士が、超能力者と思われる女性を調査して、念写・千里眼などが存在すると主張。
 その主張に懐疑的な学者やマスコミが集まり、公開で実験を行いましたが、女性曰く、極めてナイーブな状況で行われ、その場に否定的な空気が流れると、精神上の力が発揮できなかったとのことで、実験は失敗。

 福来博士はアカデミズムの世界から追放され、手弁当で研究所を作り、生涯、孤独に研究を続けたそうです。

 心理実験のようなものは、安定した結果を得られないのが当たり前で、福来博士の主張が正しかったのか、今となってはわかりません。

 しかしSTAP細胞は心理実験とは違います。
 純粋に自然科学の問題です。
 そうであるなら、一定の条件下で一定の方法である物質が得られるのが真ならば、それを監視されようが、否定的な雰囲気のなかで行われようが、同じ結果を得られなければ、それは真実だと見なされません。

 そういう意味で、小保方氏本人が自分の妄執に捕われ、STAP細胞の存在を固く信じているおバカさんか、あるいは稀代の詐欺師か、どちらかでしょうねぇ。

 いずれにしろ後味の悪い事件でした。

 小保方氏はまだ若く、将来のある身です。
 このまま研究者として生き続けるのは難しいでしょうが、人間至る所青山あり、と申します。
 人間、どこにだって骨を埋める場所はある、ということです。

 新しい活躍の場所を求め、成功されることを祈ります。

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人間(じんかん)何年?

2014年12月01日 | 思想・学問

 今日から師走ですね。
 平成26年(2014年)も残すところ、ちょうど一カ月となりました。

 早いもので、とは言いますまい。
 一つ一つを思い起こしてみれば、とてつもなく長い年月で、そもそも一年前、私は別の部署に座っていたことを思えば、隔世の感があります。

 よく世間の人は、特に中高年は、年月の流れを、あっという間と表現しますね。
 私にはその心性が理解できません。
 私には、年月の流れは、常に牛歩の歩みのように思われ、もどかしくさえ感じます。

 私は今40代半ばを迎えましたが、かつて人間(じんかん)五十年という言葉があり、人の世にいられる期間は五十年くらいと考えられてきました。

 そうであるなら、40代半ばは老人ということになりましょうか。

 しかし栄養状態が良くなり、医学の進歩もあり、人間(じんかん)は80年にもなろうとしています。

 下手をするとそれは90年にも100年にもなる可能性があり、私はまだ半分も生きていないのかもしれません。

 実感としては、結構長く生きたような気がするのですがねぇ。

 行きつけの薬局では人生ゲームのようなポスターが貼ってあり、それによると60歳が総合的な判断力が最も優れているそうです。
 そういえば各国の首脳も60歳前後が多いようです。

 寿命がどれだけ延びたにしても、頭がしゃっきりして体が動くのには限界がありましょう。
 少子高齢化で年寄りばかりになるのも社会を停滞に導くでしょう。
 かといって姥捨てというわけにはいきませんから、それぞれの高齢者が、出来る限り健康に留意し、仕事でもボランティアでも趣味でも良いですから、社会と繋がりを持つようにすることが肝要かと思います。

 私は定年を迎えたら、再雇用など希望せず、小遣い稼ぎ程度の事務補助を探し、増えるであろう自由時間を使って、深く国風の耽美的世界に漬かって生きられたら、と願っています。

 人の世にいつまでいられるのか分かりませんが、それはあまり長すぎないほうが自分にも社会にも良いような気がしてなりません。

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他者実現

2014年11月25日 | 思想・学問

 今朝、新聞のコラムで他者実現という言葉を知りました。

 自己実現という言葉は、現代日本社会では人生の最終的な目標のように考えられ、これは留保なく良いこととされているようです。

至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫)
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦
河出書房新社

 しかしコラムでは、自己実現は戦後民主主義が作り出した偽の偶像ともいうべきで、おのれの欲望を満たそうとする営為に他ならない、と切り捨てられていました。

 欲望である以上際限が無いのは当たり前で、ある段階を実現できればさらに次の段階と、まるで過食症の患者が大飯を喰らっては嘔吐し、さらに大飯を食い続けるという、永遠に終わらない欲望の連鎖だと言うのです。

 これに対し、他者実現というのは、分かりやすく言えば他人の自己実現を第一に考えることで、愛の行為とされているとか。

 早くも昭和18年には、波多野精一という哲学者の「時と永遠」に提唱されているそうです。

時と永遠 他八篇 (岩波文庫)
波多野 精一
岩波書店

 これは個人主義から派生した自己実現とは対極にあるもので、東洋哲学を倫理のバック・ボーンに持つ私たち日本人には、素直に腹に落ちる考えのように思われ、なんとなく安心感を覚えます。

 コラムでは、朝日新聞の凋落に象徴される、戦後わが国に入ってきた考え方、戦後民主主義という言葉に象徴されるものどもの崩壊により、日本人が日本人たる所以のものが、表に現れてきたのではないか、と推論していました。

 個人主義及び自己実現という概念にどっぷり浸かり、ゆえに私たちはどこか居心地の悪い感じというか、不安感を持ち続けてきたように思います。

 ここはひとつ、異国の長所を採ることよりも、わが国の美点に立ち返る必要があるように思えてなりません。

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2014年11月02日 | 思想・学問

 昨日は小雨降る中、珍しく国立科学博物館に出かけました。

 私は博物館はお好みではありません。
 美術館はよく行きますが。

 博物館はなんだかお勉強させられているようで、なんとなく足が遠のくのです。

 さる方から国立科学博物館で開かれているヒカリ展の招待券をもらったので、無料ならばと出かけたしだいです。

 おそらくLEDによるノーベル賞受賞に乗っかろうという魂胆でしょう。   

 オーロラや宝石、星などの光る自然物から、蝋燭やランプから裸電球、蛍光灯、LEDへといたる照明など、あらゆる光る物をあつかっていて、文系人間の私には少々難しかったですねぇ。




 
 それでも、日頃接することがほとんどない理系の世界に、多少の感銘は受けました。

 雨の上野公園、いつもの土曜日ほどではないにせよ、結構な人出で、観光客と思しき白人が大勢いて、例によって着物姿の私は歩く観光資源と化したのでした。

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見果てぬ夢

2014年10月27日 | 思想・学問

 現在、天皇皇后両陛下の傘寿を寿ぎ、奈良国立博物館で正倉院展を開催中だそうですね。
 先般NHKでその特集番組を放送していました。

 はるか古代に、建築にしろ、絵画にしろ、また、楽器や衣装にしろ、非常に優れた文物を作り出し、それが今も鮮やかに保存されているとは、誠に喜ばしく、また驚くべきことです。

 人が人たる所以のものは、実際の用にたたずとも、美しい物を作らずにおられないことにあるのかもしれません。

 そうかと思えば、人は有史以来人間という同じ種同士で殺し合いを続けており、それは今も無くなっていません。
 それならば人の人たる所以のものは、殺し合いにあると言えるかもしれません。

 この相反する人間の性向が、同じ人間のなかに同時に存在することが、人間の不思議であり、人間たる所以なのでしょうか。

 物事には二面性があるようです。
 善と悪、戦争と平和、○○教の正義と××教の正義など。

 これらは物事の裏表で、どちらかが失われればもう片方の存在も危うくなります。

 悪が無くなれば善も消滅し、戦争がなくなれば平和の達成も不可能になりましょう。

 因果な世の中です。

 私たちは言葉では恒久平和を求め、善が普く世を覆うことを求めながら、相も変わらず悪事を働き、殺し合いを続けています。

 悲しいかな、これが世界の現実です。
 これを根本的に変革させることは、人が人であるかぎり不可能であるかのごとくです。

 私はただ、おのれ一人の平安を求めるしか、出来ることはありません。
 おのれ一人救えずに、他人を救おうなんておこがましいことは出来ません。

 自由民主主義のわが国にあっても、世の本質は混沌とした闘争状態であるようです。

 聖徳太子が和を以て貴しと為すと十七条憲法に記してから、いったいどれだけの時がながれ、日月の積み重ねの間、どれだけこの条文が踏みにじられてきたのでしょう。

 見果てぬ夢を見た聖徳太子には深く同情せざるをえません。

 冷酷な私はそんな無駄な夢を見ることなく、私一人を救う道を求めたいと思っています。

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存在し得ないことの証明

2014年08月28日 | 思想・学問

 ある物質なりが存在していることを証明するのは比較的容易だと思いますが、あると思われていた物が存在しないことを証明するのは、事実上不可能なのではないかと思います。

 例えば霊的存在。
 それが電気刺激なりに反応し、その存在を探る方法を発見することができれば存在を証明できるでしょう。

 しかし、それが柳なのやら幻覚なのやら、あるいは見間違いなのか、判然としない場合、存在しないと言い切ることは出来ないでしょう。

 なんとなれば、世の中には霊的存在を見た、あるいは見ることができる、と主張する人はごまんとおり、彼らが全員嘘つきだとも思えません。

 そんな嘘をついたって、何の利益にもならないばかりか、むしろ変な奴だと、不利益を被るでしょう。

 で、STAP細胞の再現実験のお話。

 先般、中間報告で、論文に書かれた方法では再現できない、と発表されました。

 しかし、小保方氏は、コツがあるとかで、STAP細胞が存在することを主張しつづけています。

 この騒ぎを見ていて思うのは、霊的存在は無い、という証明が出来ないのと同様、STAP細胞は存在しない、という証明もまた、不可能であろうということ。

 出来たとしても、せいぜい小保方氏が主張する方法ではSTAP細胞を再現することはできない、ということまででしょうね。
 
 STAP細胞が存在し得るのか、という点については、結論は出ないでしょう。

 それにしても理研の再現実験のスタッフ、大先生が雁首そろえて、まるで幽霊は存在し、それを捕獲できるか、みたいな実験を行っているようにも感じられ、なんとも空しいでしょうねぇ。

 存在しないらしいものが存在しないという証明が不可能なことは、理の当然ですから。

 ここは一つ、小保方氏にご登場願い、衆人監視のもと、仰るコツなるものを駆使して、見事再現させてほしいものです。

 そうでなければ自殺した師匠に申し訳が立ちますまい。

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民主的な民主主義封殺

2014年08月23日 | 思想・学問

 今日は雨が降ったりやんだりのすっきりしない天気で、一日、自宅に閉じこもっていました。

 テレビをつけたらフランス製のドキュメンタリーを放送していて、観るとも無く観てしまいました。
 ヒトラーが独裁体制を敷くまでの彼の半生と、当時のドイツが置かれた状況を分かりやすく解説したものです。

 驚いたのは、第一次大戦から、多くのカラー映像が残されていること。
 多分デジタル・リマスターなのでしょう、非常にきれいな映像でした。

 概ね知っていることばかりでしたが、映像の綺麗さに驚嘆しました。
 当時世界で最も民主的とされ、第一次大戦後にドイツが採用したワイマール憲法。
 主に社会民主党が政権を握っていたところ、ヒトラーの天才的な演説やゲッペルスによる巧みな宣伝で一般庶民の心をつかみ、選挙のたびに議席を増やし、ついには第一党となり、さらにヒトラーに全権を与える全権委任法を通過させ、大体において民主的な方法で民主主義を封殺していく手法は、まるでSF小説のようで、スリリングなものです。

 また、SSにしてもSAにしても、制服が極めてスタイリッシュで格好良く、鉤十字の旗も洒落ています。

 多分私が当時のドイツに生まれていたら、国家社会主義の思想というよりも、ナチの格好良さにころっといっていたでしょう。

 彼らが何をやったか知っている今の私から見ても、ファッション性は極めて高いと思います。
 ありていに言って、格好良いとしか思えません。

 しかし、当時の上流階級やインテリ層は、ナチが政権を握るはずなど無いと思っていたようです。
 要するに過激で奇妙で滑稽な連中、という見立てですね。
 わが国で言えば、オウム真理教が政権を取るような感じでしょうか。

 ところが現実にナチは政権を奪取し、独裁体制を敷き、ついには、無謀な戦いで世界を焼き尽くしました。

 これは示唆に富んだ歴史の教訓です。

 民主主義は民主的方法で破壊することができること、そして、勢いを得た天才的政治家が暴走を始めたら、それを止めることは極めて困難であること。

 今、わが国は自民党が最も多くの支持を得ていますが、野党もそれなりの支持を得ており、独裁の気配はありません。

 しかし、人気者だった小泉元総理の100倍もの魅力に満ちた政治家が現われた場合、私は冷静に見ることができるのか、自信がありません。

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無い

2014年07月22日 | 思想・学問

 三連休あけの出勤、だるいですねぇ。
 三度の飯を食うためとはいえ、つまらぬことに時間を費やしているものです。

 そう思うと、私は大乗仏教の唯識論を思います。

阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
横山 紘一
幻冬舎

 

 大乗仏教では、この世に実態のある物は存在せず、ただ様々な関係性を心が認識しているだけだと説きます。
 そういう意味では、西洋の唯心論と似ています。

唯心論と唯物論 (岩波文庫)
船山 信一
岩波書店

 しかし唯心論と決定的に異なる点があります。

 唯心論では、少なくとも心の存在だけは確かだと認識しますが、唯識では、心もまた幻のような存在であり、最終的には心の存在すら実態の無いものとして否定されるからです。

 するとこの世に実態のある物は何一つ存在せず、ただ関係性によって成り立つ縁起とその結果が幻のように漂っているのが、私たちが認識している世界だということになります。

 このことを深く理解し、体得するならば、その人は何も存在しない無の一つとなり、アラヤ識と呼ばれる生命の奥底を激流のように流れる意識が変化を起こし、ついには悟りを開く、というわけです。

 唯識論は極めて難解かつ長大で、私が書いたことはごく表面的な理解に過ぎず、また独学ゆえの誤解もありましょう。
 しかしその核となる部分は概ねこんな感じじゃないかと思います。

 論理の遊びのような気もしますが、私は唯識論に惹かれ、そうであればこそ、飯を食うための仕事もまた幻であると感じ、身が入らないという悪循環に陥ることになります。

 その点、江戸時代に流行った心学は、正直であることを説き、勤勉に与えられた役割を果たすべしという易しい教えで、こっちのほうが現実で幸福になれるでしょうねぇ。

石門心学と近代―思想史学からの近接―
森田 健司
八千代出版

 浄土門が説く他力本願も、難しいことは言わずひたすら阿弥陀仏にすがれというのですから、話は簡単です。

他力本願のすすめ (朝日新書)
水月昭道
朝日新聞出版

 まぁ、難しい宗教の論理は話半分に聞いて、目の前の仕事に精を出すしか、凡夫に出来ることはないんでしょうねぇ。

 有るのか無いのか知りませんが、浮世を憂き世と歎じた先人の心は、たしかに有るような気がします。

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歴史

2014年07月17日 | 思想・学問

 わが国を貶めようとして、中だの韓だのが虚実取り交ぜてわが国の歴史を真っ黒に塗りつぶして世界に喧伝し、その浅ましい姿にかえって世界は中だの韓だのをあざ笑い、世界はますますわが国を信頼し、このたびわが国は好感度ランキングで見事世界一に輝きました。

 中だの韓だののおかげでしょう。
 深く感謝します。

 中だの韓だのが地団駄踏む姿が目に浮かぶようです。

 よしなしごとはさておき。

 はるか古代は知りませんが、少なくとも文献が残っている時代以降、現代にいたるまで、よくもここまでと思うほど、人は殺し合いを続けています。

 利益も求めて、あるいは宗教的正義を求めて。

 切ないのは、最高権力を握った者も、必ず亡くなり、死後の一族のことを心配していることですね。

 秀吉は秀頼の将来を心配し、おのれがしてきたことを思えばほとんど無意味と思えるような誓紙を五大老に書かせたりしています。

 何も最高権力者に限らなくても、功なり名を遂げた人も、路上で野垂れ死んだひとも、死の前に平等です。

 日本も中国も韓国も、その他の国々も、地球の命が永遠ではない以上、人類滅亡という必ず訪れる死の前に平等です。

 歴史を知るということは、人間がいかに愚かで、強欲かを知ることと言えるかもしれません。
 さらに言えば、常ならぬ世の法則を思えば、愚かな欲望を満たさんと権謀術数を巡らせ、果てには殺し合いに及ぶことが、いかにも空しいこかを知ることにもなりましょう。

 しかし歴史のなかには、世の無常を知り、おのれの精神と向き合った優れた思想家や、この世ならぬ美だけを追い求めた芸術家、さらにはおのれを捨てて世直しを目指し行動を起こした人など、立派な人も存在し、それこそが人類の希望と言えるでしょう。

 しかし私は、歴史の中に埋没していった善良な庶民がどんな思いを抱き、どんな生活をしていたのかに関心があります。

 サラリーマンと言えば、現代の水呑百姓みたいな、社会の最底辺を支える人々で、私もまたその一員ですから。

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