今日は月に一度の精神科の受診日でした。
そこでショッキングな話を聞きました。
主治医が6月いっぱいで引退するというのです。
見たところ50代後半くらいで、引退には早いような気もしますが、お金がたまったのか、精神病患者が発する負のオーラに耐えられなくなったのか、理由は分かりません。
ただし、クリニックを閉じるわけではなく、主治医が信頼している若い医者に譲るそうです。
精神科は他の診療科に比べて、医師と患者の相性が極めて重要です。
主治医が信頼しているからと言って、私に合うかどうかは分かりません。
思えば15年以上、お世話になりました。
私が順調に回復したのは、じっくり話を聞いてくれる誠実な診察と、適切な薬の処方があったおかげだと感謝しています。
主治医の第2の人生が実り多いものであることを願ってやみません。
土曜日の晩酌はつい過ぎてしまうようで、今朝は10時まで眠ってしまいました。
平日には絶対にあり得ない、日曜日の贅沢です。
さすがにそれだけ寝るとしゃっきりして、洗濯や掃除、買い物と、家事に励みました。
義母が施設に入所してから、同居人は日曜日、必ず義母を見舞うため、私が家事をやることになります。
20代の頃、独り暮らしを3年間していたので、大抵のことはできます。
面倒くさいことこの上ないですが。
そうやって午前中を過ごし、昼は近所の蕎麦屋で鴨せいろを食しました。
私はこれが好物で、休日の昼などよく食います。
しかも私が通う蕎麦屋の鴨せいろはしっかりとした歯ごたえと野趣あふれる鴨肉が楽しめ、しかもたくさん入っているうえ、鴨のつみれまで入っています。
値段は1,500円と少々お高いですが、その価値はあると思います。
午後はスバルに行きました。
私は半年に一度定期点検を受けられるコースに入っており、車購入の際にその分の金を払っているので、無料感覚です。
私は18歳で免許を取り、すぐに実家の車を運転し始めたので、もう35年のベテランドライバーですが、車のことはよく分からないので、バッテリーの交換さえ出来ず、雪の日なんかにチェーンを巻くこともできません。
そんな私にとって、定期点検は強い味方です。
そんな風にして、私の日曜日は慌ただしく過ぎてしまいます。
これから風呂に入って晩酌ですが、明日は仕事なので飲みすぎないようにしないといけません。
アルコール依存症の患者はみりんまで呑んじゃう人や、それどころかアルコール依存症のために入院しているのに、医療用のアルコールまで呑む人がいると聞いたことがあります。
私も酒飲みですが、みりんを呑むなんて絶対に嫌です。
それでも、日本酒や焼酎、ワイン、ウィスキー、アルコールが入っているものは大抵好みます。
酒飲みなんて愚かなものです。
もちろん、私もそんな愚か者の一人です。
依存症にはアルコール、薬物、ギャンブル、性、買い物など多くの種類があります。
私は博打は一切やらないので、ギャンブル依存症の気持ちは分かりませんが、勝つと大量の脳内麻薬が放出されるものと思います。
躁状態になると金遣いが荒くなります。
依存症のなかで最も金を遣うのはギャンブルであろうと思います。
ギャンブルを好まないのは本当に良かったと思います。
私は躁状態の時、酒や合法ドラッグにはまり、躁から醒めた後、同居人から離婚されるのではないかと恐れましたが、同居人は病気を憎んで人を憎まず、という態度で、私を許してくれました。
うつから躁に転じると、自分はうつを克服したと思い込みます。
そしてまるで神様にでもなったかのような錯覚に陥り、多弁になり、攻撃的になり、金を浪費するようになります。
さらにはろくに眠らなくても平気で、活動的になります。
私は徹夜で小説を書いたりしましたが、頭がおかしくなっているので、まともな物は書けません。
躁状態で借金までしてギャンブルや風俗にはまり、破滅していく人もいます。
生活を壊す恐れがあると言う意味で、うつよりも怖ろしい状態です。
主治医は私が躁転したことをすぐに見抜き、躁を抑える薬を処方しました。
薬のおかげで躁状態は半年も続かず、冷静さを取り戻しました。
以来15年くらい再発していません。
現代医学に感謝です。
ただ、時折もう一度躁状態になってみたいという欲望に駆られます。
あの万能感はとてつもない快感ですから。
でも薬を自己判断で止めることは出来ません。
そのくらいの冷静さは保っていられるようになりました。
世の依存症の皆さんが冷静さを取り戻してもらいたいと、切に願います。
今日はよく眠りました。
朝は8時まで眠り、予約していた理髪店に9時15分に行き、散髪の間、11時までうつらうつらしていました。
帰宅して、近所の中華料理屋でランチのコースをいただき、買い物をして帰ってきたのが14時。
ソファに座ってテレビを眺めていたらまたもや眠ってしまい、起きたら16時。
うつ病の人の多くは不眠に悩まされるそうですが、私は過眠になります。
こんなに眠るなんて妙です。
うつのサインでなければ良いのですが。
目を覚ました時、同居人も隣で眠っていました。
その寝顔を見ていたら、この人が永遠の眠りについたなら、自分は耐えがたいほどの孤独感に襲われるのだろうなと思って、その若いとは言えない容姿もまた、年を経たなりの美しさを保っていることに気付き、ぼんやりとした不安を感じました。
SEKAI NO OWARIの「眠り姫」という曲のメロディが自然と私の頭に浮かびました。
近しい人や同僚が亡くなるというのは本当に深い喪失感を感じるものです。
それがパートナーならなおさらでしょう。
起きてもいない同居人の死という事態を思って感慨に浸るなど、ある意味残酷なことかもしれません。
先般、職場の同僚が56歳という若さでがんで亡くなったことはこのブログでも報告したところです。
多忙な毎日を送る私のまわりで起こる様々なことが、私を弱らせているような気がします。
昨日ほどではないですが、今朝もなんとなく落ち気味でした。
しかし出勤しなければずるずるいってしまうと思い、蛮勇を奮って車に乗り込み、職場に向かいました。
職場の玄関を見た時、恐怖に駆られるような気分でしたが、ぐっと堪えて顔を検温器に近づけました。
この時ほど、熱があって入館できないという結果が出ることを切望したことはありません。
しかし検温器は無情にも、「正常な温度です」と声を出しました。
私は絶望に近い気持ちを持って、自分の机に座り、パソコンを起動しました。
メールチェックをしたら、40通のメールが届いていました。
1件づつ確認し、返信すべきものには返信し、単なる連絡メールは連絡メール用のフォルダに保管しました。
それだけでも午前中いっぱいかかってしまいました。
職場のメールは家のパソコンからも見られるように設定してあります。
というか、リモートデスクトップを導入しているので、職場のパソコンの電源を付けたままにしておけば、家で職場のパソコンにアクセス出来るように設定してあります。
コロナの影響で家にパソコンやタブレットがある者にはその設定をするよう指示があり、パソコンを持っていない者にはノートパソコンもしくはタブレットが貸し出されました。
また、オンライン会議に家から参加できるよう、マイク付きUSBイヤホンとウェブカメラが支給されました。
これらが、どこまでも追いかけてきて心を急き立てるので、平日に休んだ時は決してリモートデスクトップに繋げることも、職場のメールをチェックすることもしません。
もしかしたらコロナ禍に伴う在宅勤務のための措置が、休暇を取った日にも気になってしまうことが、心の平安を乱し、朝起きた時よりも昼過ぎのほうが余計に不安感を強め、ODをしてしまったのかもしれません。
5月8日から政府の方針に合わせ、在宅勤務も時差出勤も無くなります。
私は在宅勤務も時差出勤もしませんでしたが、在宅勤務でほとんど出勤しない者もいました。
そういう人にとっては、厳しい措置でしょうね。
今日も出勤することが困難かと思われました。
しかし不思議なもので、少しづつ働くことで、出勤できた、仕事もやっている、ということが自信に繋がるのか、精神が落ち着いてきました。
出勤したこと自体が最大の良薬であったようです。
今朝はなぜだか激うつに襲われて朝起き上がることが出来ず、やむを得ず、職場に連絡して休暇を取りました。
時々訪れる、あれです。
原因を探しても無駄です。
精神のバイオリズムというか、時どき躁状態に陥ったり、うつ状態になったりするのです。
そんなことに耐えながら、精神病薬を頼りに、職場に完全復帰して、もう14年になろうとしています。
それでも、かつて精神病で長期の休暇を取ったことは、今も私の職場での立場を危うくしています。
同世代のなかでは出世が遅れに遅れ、万年係長を続けています。
多分定年まで、これ以上は立場が上がらないでしょう。
肉体の病気による病気休暇を取った人は、そんなに影響しません。
私の職場では、精神病差別は根強く残っています。
現代を生きる私は、差別のなかで生きていくしかありません。
誰でもある程度年を取れば、どこかにガタが来ます。
それが私の場合精神病だったというだけです。
今日はひどく落ちて、朝飯も食いませんでした。
あまりに不安が大きくて、抗不安薬をOD(overdose)してしまいました。
ODとは薬物の過剰摂取のことで、処方の3倍飲んでしまいました。
そのせいで頭が朦朧としています。
ただし、不安はきれいに消えました。
ODを繰り返すと薬に耐性ができて、効かなくなってしまうので、禁忌とされていますが、処方量では効かないほどの、強い不安と焦燥感に襲われたのです。
ぼうっとした頭で、一日中、Netflixで様々なゾンビ物を観て過ごしました。
村上春樹の新作を買ってあって、それを読もうかと思っていたのですが、そんな気力は湧きませんでした。
ゾンビ物なら馬鹿々々しくて気楽に観られるので、ほとんどコメディを観ているような気分でした。
今夜は睡眠導入剤を早目に飲んで、眠ってしまおうと思います。
睡眠は何よりも効く良薬ですから。
そして明日は空元気を出して出勤したいと思います。
今日は一日本降りの雨。
千葉市の桜は満開だというのに、雨で家に閉じ込められました。
これでは的屋もあがったりでしょうね。
コロナ禍に見舞われて3年。
ようやく私の職場でもマスクの着用は個人の判断ということになりました。
オンラインでしか認められていなかった会議や打ち合わせも、5月8日以降は対面が認められる予定です。
この措置のせいでまたコロナが猛威を振るう可能性もありますが、少しづつ、正常な日常が取り戻されつつあります。
例年であれば目黒川や上野公園などで花見を楽しんでいましたが、3年もままならず、やっと認められるようになったと思ったら雨。
コロナの最後の悪あがきのような気配が漂っています。
感染症というものは古くはペスト、時代がくだってスペイン風邪など、何度も人類を襲ってきました。
しかしそれらすべてが、やがては終焉を迎えています。
コロナもやがて過去の物になり、そんなこともあったと思い出す日が来るでしょう。
そしてこれからも、新しい感染症が生まれては消えていくのでしょうね。
人の世は栄枯盛衰。
疾病もまた然りです。
今回の疾病流行で痛感させられたのは、マスクの着用や手の消毒、他人との接触を避けるといった対策が非常に有効だということ。
現にこの3年、風邪ひとつひきませんでした。
こんなことは生涯初めてです。
そうすると、コロナの流行が去った後も、それらの対策は風邪などにも効くということでしょう。
しかし私は、もうマスクを着用していません。
個人の判断ですから、誰にも文句は言われないはずで、職場のほとんどの人、というか私以外全員マスクを着用していますが、誰も私がマスクを外して働いていることを批判しません。
マスクは暑苦しいし、頬のあたりが擦れて非常に不快だったので、早々にマスクの着用は止めました。
そして、なんだか最近、健康状態の悪化に無頓着になりました。
今でこそ人生100年時代なんて言っていますが、縄文人の寿命は30年くらいだったと聞きますし、つい最近まで、50年くらいが普通だったと思います。
今でもアフリカには平均寿命が40歳くらいの国があるそうです。
50歳を過ぎて、今の心境に至ったものと思います。
私は精神科の薬、特に習慣性が強いと言われる抗不安薬や睡眠導入剤を飲み続けることに軽い恐怖を感じていましたが、今は医師の処方なのだし、薬なんかじゃんじゃん飲めば良いと思うようになりました。
私は幼い頃から副鼻腔炎を患い、今でも鼻づまりやくしゃみに悩まされますが、長期連用は禁忌とされる鼻炎カプセルを毎日のように飲んでいます。
それで良いと思います。
薬はより良く生きるためのもの。
副作用や依存性を恐れるよりも、今、楽になれれば十分だと思います。
あらゆる薬への抵抗感がなくなりました。
精神病患者のなかには、精神科に通院しながら、処方された薬を飲まない人が結構いると聞いたことがあります。
愚かなことです。
精神病患者自体が、精神病を差別しているとしか思えません。
私が精神病を発症した時も、薬なんて効かない、酒のほうが効くだとか、運動で良くなるという人が大勢いました。
また、良くなったら勝手に薬を止めてしまえ、とか。
再発街道まっしぐらみたいな馬鹿げた言説だと思いますが、そういう人は精神病も肉体の病気と同様、薬で良くなることを知らずに、差別的な発言をするのでしょうね。
嘆かわしいことではありますが、私の職場にも精神病を差別する意識が根強く残っています。
肝炎などで一か月程度休んでも昇任に響くことはありませんが、ひとたび精神疾患で病気休暇を取ると、何年も昇任が見送られます。
精神疾患だけがあらゆる病気のなかで、罹患したらおしまいみたいな空気が漂っています。
確かに再発を繰り返し、何度も長期の病気休職に追い込まれる人がいるのは事実です。
しかし私はもう14年くらい再発せず、出勤を続けています。
それでも同世代と比較すると、昇任が著しく遅れました。
キング牧師が言う肌の色による差別を無くすことが夢みたいなもので、医学の進歩による精神病差別が無くなることを願ってやみません。
昨日は元気だったのですが、今朝、くしゃみが止まらず、喉の痛みもあって、熱を測ったら37度2分の微熱がありました。
原因は分かりませんが、とにかく体がだるくて重く、今日は布団とお友達。
市販の鼻炎カプセルと解熱鎮痛剤と咳止めを一緒に飲んで、眠くなってしまいました。
うとうとしていると、なぜか私が大量殺人鬼になっている夢を見ました。
機関銃と手榴弾を持って警察庁を襲撃、警官や警察事務官を殺しまくり、ついには警察庁長官まで殺害。
死刑になろうかというところで、寝汗をびっしょりかいて目が覚めました。
自分が死ぬ夢はとても怖ろしいものですが、じつは吉夢だと聞いたことがあります。
死は再生の始まりであり、それまでの人生からより良い生活を新たに始める象徴なんだとか。
転職する気も退職する気も無い私が再生するのだとしたら、それは精神上のことに違いありません。
私は今まで、生活のために労働するのはとても卑しい行為だという感覚をずっと持ってきました。
豊かな生活は働いていたら送れないような気がしていたし、今もそうです。
そんな風に労働を忌避してきた私ですが、死と再生の夢を見て、労働に対する価値観が逆転し、労働を貴いものだと実感するようになるということでしょうか。
そうだとしたら私の生き方というか精神の在り様は大きく変わることになります。
卑しいと思い続けてきた行為が貴いものだと実感できれば、きっと人生が楽しくなると思います。
その時私は無駄な時間だと思ってきた31年間の仕事生活が、有意義なものだと思えるようになるはずです。
それなら私は、明日からの仕事を楽しめるのでしょうか。
そうでありたいと願ってやみません。
今日は金曜日。
嬉しいはずですが、近ごろ休日と言うと同居人が義母の世話に行くので、面白くありません。
施設で他人の洗濯物と一緒に洗濯されるのは気落ちが悪いと、土曜日に大量の洗濯物を渡され、日曜日には終った物を届けに行かなければなりません。
もちろん、我が家の洗濯も週末に済まさなければなりません。
共働きでは、平日の夜に洗濯なんて面倒くさくてできません。
洗濯だけで毎週必ず土日の両日、施設に通うことになります。
さらには隔週の土曜日には整形外科にリハビリに、月に一度は掛かりつけの内科に連れて行かなければなりません。
内科は平日行くので、それだけで月に一度は必ず年休を取らなければなりません。
笑わざるを得ないのが、施設で良くしてくれる職員に配りたいからと、じゃがりこを100個買ってこいだの、高級梅干しを取り寄せろだの、千葉名産、与三郎の豆を大量に買ってこいだのと買い物をねだること。
いくら駅前のマンションに住んでいるからと言って、何もかもが簡単に買えるわけではありません。
しかもそれらは自分で食べるのではなく、義母のお気に入りの職員に配るためです。
そこが切ないところです。
職員さんも貰えばありがとうと笑顔を浮かべるでしょうが、正直そんな物貰ったところで嬉しくないでしょう。
一つ一つは大したことが無くても、塵も積もればで、同居人は疲弊しきっています。
最近、私が通院している精神科のクリニックに、同居人も同行するようになりました。
精神病患者の家族が一緒に診察を受けるのは良くあることです。
しかし同居人は、私の付き添いではなく、自ら精神科医に診てもらいたいと言い出し、私と一緒に月に1度、土曜日の夕方16時半に通院することになりました。
あまり聞いたことが無い病名ですが、気分変調症という軽い精神病だそうで、抗うつ薬と抗不安薬が最低量処方されました。
抗うつ薬は何が効いているのか分からない、と言っていましたが、頓服で出された抗不安薬はよく効くそうで、飲まないまでも、お守りのように持ち歩いています。
精神科への通院という仕事が、また一つ増えてしまいました。
これで夫婦とも精神病患者ということです。
ただし、私は自立支援(重度)を受けているため診察費も薬代も1割負担ですが、同居人は重くないので、3割負担です。
娘が精神科に掛かっているとは露知らず、義母の我儘は増すばかり。
それでも義母の世話については手を抜かないのが娘の娘たる所以でしょうか。
精神科に限らず、年をとると病院通いばかりが増えると言いますが本当ですね。
今まで共済短期が毎月かなりの金額引かれて損した気分でしたが、最近元をとっているような気になります。
疲れた同居人にはなるべく楽をしてほしいと、食事は外食やデリバリーがほとんど。
料理や食器洗いは疲れるでしょうから。
掃除や買い物、自分たちの汚れ物の洗濯、洗濯物干しは私がやっています。
義母の洗濯物は、下洗いと称して洗濯機にかける前に1枚づつ手洗いしているので、同居人がやっています。
これは大変な労力です。
これをやらないと義母にばれて、ひどく叱られるのだそうです。
せめて洗濯だけでも施設に任せてもらえれば、ずいぶん楽になるのに。
私たちは今、少しでも楽をするように心掛けなければなりません。
そうでないと、心も体も壊れてしまいます。
問題は仕事。
こればっかりは楽ではないし、一日の大半を仕事に費やします。
手を抜けばクビになるかもしれません。
仕事をしながら楽をするというのは言語矛盾に近いような気もしますが、しかしこれを求めなければなりません。
そうでなければ、生きていくことが困難になってしまうでしょう。
昨夜は金曜日の夜でしたが、なぜか眠れず、頓服でもらっている睡眠導入剤を飲みました。
これ、劇的に効くんですよねぇ。
眠くなるまで布団に入らず、少しソファで眠くなるのを待とうなんて座っていたら、寝落ちしてしまい、気付いたら朝の6時でした。
その間暖房はつけっぱなし。
睡眠導入剤を飲んだらすぐに床につかなければならないと痛感しました。
眠りが深かったのか、深夜1時に寝落ちして、朝6時にはばっちり目が覚めてしまいました。
よく、年を取ってくると、夜起きてられない、朝寝ていられないという話を聞きます。
要するに早寝早起きになるということで、それは結構なことですが、私の場合夜起きていられないということはなく、ただ朝寝ていられない、という感じになってきました。
要するに短時間睡眠でも平気になったということで、躁のサインの一つでもあるのですが、実は理由は別にあります。
喘息の発作以来、酒も煙草もやる気が起きず、健康的な生活になってしまい、長年ニコチンとアルコールに毒されてきた体が、急に毒が入ってこなくなって、びっくりしてこうなったのではないかと思います。
喘息の発作は結果的に私を毒から遠ざけることになったわけですが、それはそれで寂しくもあります。
体が少しづつ老化している証拠のような気がします。
また、最近人の名前が出てこなくなりました。
これも誰にでも起こる現象かと思います。
中学生くらいの頃、年配の方たちが、「ほら、あの人。何とかいうテレビで出てた人」なんてほとんどノーヒントで語っているのを聞いていた同じ年配のが、「ああ、あの人じゃない、名前が出てこないけど」なんて、ほとんどお笑いのようなトークを繰り広げているのを聞いて、わざとやっているのかと思った記憶があります。
しかし、今になって、その気持ちが分かるようになりました。
顔は鮮明に思い浮かぶのに、名前が出てこない。
これ、自覚した時はショックでした。
若年性認知症かと思って、時計の絵を書いたりしました。
認知症になると、円形の時計の数字が入り乱れたりすると聞いたことがありましたので。
幸い時計の絵はきちんと書けました。
もっとも、それだけのことをもって自己判断するのは控えるべきなのかもしれません。
これが酷くなるようだと、いよいよ認知症外来を受診しなければならないのでしょうね。
しかし、職場の同世代以上の人は、同じような愚痴をこぼします。
単なる経年劣化だと良いのですが。
退院してから、少し上がっているようです。
退院がよほど嬉しかったと見えます。
しかし躁転というほどのことは無く、日曜日の夕方にしては調子が良いくらいでしょうか。
思えばもう15年ほど前、私は長いうつ状態から醒めたのは良いのですが、その後激躁に見舞われるという悪夢に囚われました。
躁状態の時は病識がなく、元気になった程度に思っていたのですが、大酒を喰らったり、徹夜で駄文を書き散らかしたして、今思えば異常でした。
しかもその時の記憶がほとんどありません。
激躁の激躁たる所以です。
抗躁剤の投与で夢から醒め、深い後悔の念に襲われました。
周辺の人々にずいぶん迷惑をかけたと思います。
その反省にたって、抗躁剤は一生飲み続けたいと思っています。
いつまた躁状態に陥って、愚行を繰り返すか分からないからです。
私は高血圧で降圧剤を飲んでいます。
これは当然一生飲み続けなければならい、基礎疾患の薬です。
それと同様、抗躁剤、気持ちを落ち着かせる薬、抗不安薬などを飲み続けなけれならないのは、降圧剤を飲み続けるのと同じことです。
しかし私は、もう一度、あの、神様にでなったような天然のアッパー系の麻薬をやったような躁状態を経験してみたい、という欲求もあります。
それは覚せい剤に手を染めた人が、犯罪と知っていていて何度も続け、ついには身を亡ぼすのと似たような欲求かもしれません。
医師は軽い躁状態よりも、軽いうつ状態のほうが健康的だと言います。
その言葉は私を落胆させるに十分なものですが、私は病を得、それを克服して10年以上再発していないことを思えば、至極真っ当なことなのかもしれません。
とにかく、処方された薬をきちんと飲み続けるより他ありません。
難儀なことです。
今朝は朝4時に起き、早起きは躁のサインでもあるのですが、これが続かなければどうということも無いと思っています。
躁とうつを2週間くらいで繰り返す症状をラピッド型と呼ぶそうで、こうなってしまっては、まともに社会生活を送ることができません。
ラピッド型でなくて本当に良かったと思います。
要経過観察といったところでしょうか。
咳が一週間以上続いています。
これまでは明け方から午前にかけてだけだったのですが、昨日は一日中咳が続き、息苦しさを感じました。
今日はやむなく内科を受診したのですが、風邪ということで、咳止めやら痰を切る薬やら鎮痛剤やら気管支を広げる薬やら、色々と出ました。
土曜日の午後も診療している内科とあって、14時に行ったらひどく混んでいて、1時間以上待たされて、聴診器をあてて喉を診て、血中酸素濃度を測ったら終わり。
3分も経っていませんでした。
薬はいずれも食後に服用ということで、まだ飲んでいません。
夕飯後に飲むつもりです。
気になったのは、ひどくなるようだったら救急車を呼んでください、という一言。
咳の発作でもひどい場合には気道が塞がり、死に至ることもあるんだとか。
何年か前、やはり長引く咳で内科を受診した時はすぐに点滴ということになり、発作を鎮めました。
点滴は劇的に効いて、現代医学の素晴らしさを実感したことを思いだします。
もう10年以上前のことですが、うつ病に伴い、社会不安障害の症状が出たことがあります。
当時は神経症と呼んでいました。
対人恐怖症とか強迫神経症、不安神経症などに分類されている疾患です。
薬無しで治すという、怪しげな森田療法なる治療法を自助グループで勉強しながら治そうという団体に少し入っていたことがあります。
その名を生活の発見会と言いました。
服薬すれば完全には治らないまでも、ぐっと楽になるのに、服薬を潔しとせず、根性論で治癒せしめようという古臭い治療法です。
まるで宗教のように創始者の森田先生なる人物を尊崇し、自分はいかにして治ったかを自慢する高齢者がひしめく厭らしい団体です。
金儲けに走っているわけではないのが唯一の救いですが、胡散臭い団体であることには変わりありません。
私は数か月で脱会し、現代医学による服薬治療で良くなりました。
今社会不安障害に悩んでいる方には、お近づきにならないことをお勧めします。
今は良い治療薬がたくさんありますから。
秋も深まってきました。
これから昼よりも夜のほうが長くなるのですね。
正直、嫌な気分です。
過ごしやすい陽気ではあるんでしょうが、日差しが短いと、鬱々としてしまう日が増えます。
双極性障害という業病、寛解はあっても完治は無いそうですから、これからもきちんと薬を飲み続けることが重要です。
寛解にいたってもう10年以上経って、自覚的には再発なんてありえないと思っているのですが、自己判断で薬を止め、ひどく悪化させた人をたくさん見ているので、薬を飲まないなんて考えられません。
私は正常になったのではなく、大量の精神病薬により、かろうじて正気を保っているだけであって、生涯、正常になることなんて無いのだろうと思います。
しかし、一見正常に見えるゆえ、職場は復帰したばかりの頃のように甘やかしてはくれません。
当然です。
給料を貰っているのですから。
同居人は、私が躁状態の時の最大の被害者ですが、それは病ゆえと、私を許してくれています。
手こそあげませんでしたが、ひどい言葉を投げかけたこともあったし、性的逸脱行動が起きて、他の女性と遊び惚けるにいたって、たぶん離婚するんだろうなと思っていました。
しかし躁状態の真っ最中、離婚なんて怖くもなんともありませんでした。
何しろ万能感が強く、神様にでもなったような気分なのです。
その時はうつ病が治ったとしか思いませんでした。
しかし医師はすぐに私がうつ病ではなく、双極性障害であったと見抜き、躁を抑える薬が処方され、それは劇的に効きました。
夢から覚めたようで、反動か、ひどく落ち込みました。
激しい躁状態、もう二度と経験したくないという思いと、あの麻薬のような万能感をもう一度感じてみたい、という思いが交錯します。
もちろん、それでも薬は飲み続け、躁状態は今のところ人生で一度きりです。
秋、酒が旨くなって、つい飲みすぎてしまいがちです。
酔うと本性が現れると言いますが、饒舌になったり、わずかながら万能感を感じたりして、酒はキチガイ水と言いますが、本当にそうだなと思います。
そもそも私は本物のキチガイ。(差別用語ですから、この記事、gooが勝手に公表を止めるかもしれません。無粋ですね)
キチガイがキチガイ水を飲めば、2倍キチガイになるのも道理です。
名歌をたくさん残した大酒のみの歌人、若山牧水に、
朝酒は やめむ昼酒せんもなし 夕方ばかり 少し飲ましめ
という、愚かな短歌が残っています。
酒飲みというもの、まったく愚かな生き物です。
もちろん私もそこに含まれるのですが。
9月最初の土曜日。
コロナでお出かけしない休日をどれだけ過ごしてきたでしょうか。
お出かけと言ったら、買い物か病院通いくらい。
体重は測っていませんが、だいぶ増えたような気がします。
ベルトがきつくなってきましたから。
コロナ太りでしょうか。
今日は数少ないお出かけ。
精神科への通院です。
車で15分くらいでしょうか。
精神科医は職場復帰後12年間再発せず、仕事に通っていることをもって、稀に見るサクセスストーリーと褒めてくれます。
再発の多い病気ですから、主治医の患者も多くが復帰しても長くは持たないんでしょうね。
それは有難いことですが、大量の精神病薬のせいか、毎日霞がかかったような、ぼんやりとした頭で、必死のお仕事生活をおくっています。
精神科医は、どんな状態でも毎日出勤出来ていることをもって、奇跡的なことだと感嘆してくれます。
しかし、精神病患者はデイケアなど、プールのような場所では泳げても、荒波の海で泳ぐことは至難の業です。
よくも12年間も荒波にもまれて泳ぎ続けてきたものです。
先のことを考えると暗澹たる気持ちになりますが、今日一日だけは出勤する、という一日出勤の積み重ねの結果が、ここまで泳ぎ続けてこられた理由。
よく断酒会の人が言う1日断酒と同じですね。
明日は呑むかもしれないけど、今日は絶対呑まない、という。
私もまた、明日は休むかもしれないけど今日だけは出勤するという気持ちを強く持って、これからも日々を生き続けていきたいと思っています。
忙中閑あり。
今日はそんな一日でした。
と言うか、8月は大体そんな感じです。
そんな中にあって、損な性分の私は、襲い来る9月以降の忙しさに怖れをなして、戦々恐々としています。
30年も働いて、何を怖がっているのでしょうね。
我ながら不思議と言おうか、小心者と言おうか。
この小心ぶりは、生涯、変わらないのでしょうね。
8月11日(木)~8月16日(火)まで夏季休暇でしたので、今週の出勤は8月17日(水)から今日(8月19日(金))までの3日間のみでしたが、非常に長く感じました。
休み後の出勤は辛いもので、休みが長ければ長いほど、余計にしんどくなります。
来週の月曜日は設備点検のため、一斉休業となります。
今度は3連休。
8月は休んでばかりいるような気がします。
休めるのは嬉しいですが、仕事がたまるのが嫌ですねぇ。
かつて私はうつ状態で長期の休みを2回経験しました。
半年が1回、8か月が1回、通算すると1年2か月にも及ぶ長い年月です。
その間、職場復帰を目指して、精神科医の助言に従って毎日2時間も散歩したり、新聞を読んだりしました。
うつ状態になると普通のことが出来なくなるので、歩けるか、新聞を読めるか、といった何でもないようなことが出来るかどうかが職場復帰の可能性を占う意味で重要なことなのです。
どちらも非常に苦痛でしたが、時折サボりながらも、続けていました。
1回目の時はそのまま復帰しましたが、2年持たずにダウン。
直接のきっかけは、上司からパワハラを受けたことです。
当時、私の職場には、セクハラ防止規程は存在していましたが、広くハラスメント全体を防止するための規程はなく、私はやむを得ず、隠し録音をし、それをもとに千葉県の法律相談に出かけ、労務に強いとされる弁護士事務所を紹介されました。
いきなり弁護士に登場願うようなことはせず、まずは穏便に、パワハラを受けている旨の相談を産業医に行いました。
産業医からの提案で、私と産業医とパワハラ上司とで、話し合いが持たれました。
結果は平行線。
上司は叱咤激励であってハラスメントではない、の一点張り。
おまけに、職場の誰に聞いても自分がハラスメントなどを犯す人間ではないと証言してくれる、と頭にお花が咲いたような発言を繰り返します。
やむなく、上司に弁護士を立てて損害賠償を求める旨宣言し、その場を後にしました。
ほどなく、弁護士から、①公文書による謝罪、②損害賠償300万円の支払い、③ハラスメント防止規程の制定の3点を求める内容証明郵便がパワハラ上司の元に届きました。
パワハラ上司、慌てに慌てて、公文書による謝罪もハラスメント防止規程の制定も行うから、損害賠償300万円は勘弁してくれ、50万円でどうか、と、値切り交渉にでました。
この時ほど、弁護士の肩書が物を言うことを実感させられたことはありません。
私が一人で要求した時には、歯牙にもかけなかったのに。
その後パワハラ上司は職場の顧問弁護士に相談。
顧問弁護士と私が依頼した弁護士とで話し合いをし、損害賠償を100万円とすることで合意。
多分私が勝ったということになるんでしょうが、その頃には疲労困憊、出勤する元気は残っていませんでした。
ここから、悪夢、幻覚、妄想を伴うひどい状況に陥りました。
毎日食っては寝てを繰り返し、53キロだった体重は74キロまで増加。
糖尿病の治療を検討しなければならないほど血糖値があがってしまいました。
しかし不思議なことに、躁状態が現れました。
気分が上がって、自分が神様にでもなったような気がしてじっとしていられず、過度の飲酒、性的逸脱、賭け事、徹夜しての執筆、他人への攻撃など、今考えれば明らかに典型的な躁状態です。
でもその時はうつ病が治った、元気になった、としか思いませんでした。
精神科医はすぐに私が躁転したことを見抜き、炭酸リチウムという、躁状態を抑えるローマ時代から使われている古い薬を服用することになり、躁の夢から覚めることになりました。
その後正気を取り戻した私は、静養の後、リワーク・プログラムに参加。
3か月後、職場復帰しました。
職場復帰した当初は、通常あり得ないほど激烈な要求をしたことや、病気休職が2回目であったことなどから、ひどい待遇を受けました。
一日中、一人で倉庫に籠り、ファイルの整理を命じられたり、逆に何もせずにただ机に向かって座っているように命じられたり、しかもその時はパソコンすら支給されませんでした。
私は怒り心頭で、ハラスメント2次被害だとして、騒ぎました。
そうしたら理事長だとか事務局長だとか言う偉い人が、わざわざ都内の本部から私に詫びを入れに来ました。
しかし私は、「天皇が来ようが総理大臣が来ようが関係ない、今の自分の待遇を改善しろ」とだけ言って、席を立ちました。
で、普通の職員並みの待遇となり、今に至ります。
もう12年も前の話です。
きっととてつもなく面倒くさいやつだと、誰もが思ったことでしょう。
しかし、世の中を改善してきたのは、勇気ある、しかしひどく面倒くさい、少数の人々です。
圧倒的多数は世間の常識だか空気に抗えず、愚かにも羊のごとく大人しく、自分を殺して生き、私のような過激な行動を出る者を嘲笑います。
愚かなことです。
人間として生まれて、人間性を否定されるような暴挙にあっても我慢するなんて。
私の12年前の出来事を知る者は減りました。
おそらく今は、非常に大人しく、自己主張の少ない職員だと思われているんじゃないでしょうか。
私もやっと大人になったようですから。
しかし人間の本性なんて変わりません。
私を侮辱するような輩が現れたら、躊躇なく、攻撃的な行動に出るでしょう。
4月に今の部署に異動になってから、今までとは打って変わって組織内で注目されることになり、張り切っていました。
しかし、注目されるということは、それだけ仕事量も多く、仕事の質もより高度なものが求められるということでもあります。
これは精神疾患を抱える私にはしんどいことです。
すでに職場に完全復帰してから丸10年を超え、職場は私が精神病患者だと知ってはいても、もう治ったんでしょ、とでも言いたげな扱いです。
精神疾患は、重度のものでなければ、服薬・休養の後、普通の人扱いするとよく治る、と聞いたことがあります。
今、まさしく私は普通の人扱いされており、それが良い方に働いて、大量の精神病薬の服薬と併せ、功を奏しているのかもしれません。
しかし、今正気を保っているからと言って、明日も正気を維持しているとは断言できないのが精神疾患の怖ろしいところ。
今の私はたまたま10年以上正気でいられたというだけの話です。
病気休職の最後の3か月、私はうつ病や双極性障害の患者が職場復帰を目指して訓練するリワークプログラムに参加しました。
それによって今も普通に働けている者は数えるほどで、私の主治医は私のこれまでをサクセス・ストーリーと呼んで賞賛します。
過去のあれこれを考えると、よくも復職に成功し、通算30年も働いてしまったと、奇妙な感慨を覚えます。
そして、プルーストの長大な小説「失われた時を求めて」ではないですが、職場の建物を見るだけで、様々な思い出が胸を去来して、私を憂愁に誘います。
すべてはその時々の私が判断した行動の積み重ねのうえに成り立っているわけで、ああしてこうしてこうなったと、自身が一番よく知っています。
自身の判断の結果だから後悔などしない、と言いたいところですが、だからこそ私の後悔の念は根強いものです。
高校進学の際の受験校の選択、大学進学、就職。
辞めたい辞めたいといつも思いながら、安定した収入を求めて今まで辞められず、膨大な時間を無駄にしてしまったこと。
全ては失われた時であり、やり直すことなど出来ようはずもなく、ただ後悔ばかりが先に立ちます。
では今、辞めたら?
もうあらゆることに意欲を失ってしまった私は、生活の糧を得るだけで精一杯になってしまいました。
後悔する気力さえないというのが偽らざる心境です。
精神障害の発症に伴い、病気の克服が人生の目的のようになってしまい、それが成った今、私は目的を失ってしまったかのごとくです。
しかし、病気克服は手段であって、目的ではありません。
病気克服はより良い生活のための手段であり、人生の目的とはおのずと異なります。
それなのに、何をとち狂ったか、私は手段を目的化してしまったのです。
そのことに気づかぬまま、何年も、私は病気を克服したことに満足していました。
ここでもまた、私は貴重な時間を無駄にしてしまいました。
後悔ということ、時間を無駄にしたという実感と喪失感なのではないかと思います。
その喪失感が、私を発症前の、呑気だった時代へと向かわせます。
膨大な自由時間を無為に過ごした学生時代。
その無為が、今となってはかけがえのない時間であったと感じます。
20代、初めての一人暮らしに浮かれて、実家ではできなかったことを楽しみました。
小さなことでは、カップラーメンを食い比べること。
実家住まいの時はカップラーメンを食したことが無かったので。
バブルの残滓があった時代、飲みに行ったりカラオケに行ったり、若手職員が総勢10人も集まり、海水浴に出かけたり、花火を見たり。
アパートに招待した女性も何人か。
その中の一人と、今も一緒に暮らしています。
30代。
役がついて、まだまだ気力体力に満ち、私は天下を取ったような気分でした。
28歳ですでに結婚していましたが、30代が一番女性にモテました。
まさに輝かしい時代。
そして36歳。
小泉改革という名の役人イジメが苛烈を極め、私はうつ病を発症したのでした。
ここで、私の記憶は暗転します。
正直、症状がきつかった頃のことを、ほとんど思い出せません。
この空白の数年間を経て、私はすべてを諦めたただの大酒飲みに変貌したのでした。
肝硬変になった肝臓は、どんなに治療してももとに戻ることは無いと言います。
ぬか漬けのキュウリが生のキュウリに戻ることが無いように。
同じように、精神障害を発症したら、発症前に戻ることは無いように思います。
平凡な人生を平凡に生きていく術を身に着けるために服薬治療をするだけです。
医者はとにかく平凡であること、小さな幸福を感じられるようにすることを求めます。
その甲斐あって、すっかり洗脳された私は、医者の言う寛解に至ったのです。
退屈な寛解。
私はこの退屈を背負って、時折、猛烈な後悔と憂愁の念に襲われ続けるのでしょうね。
嗤うべし。
双極性障害患者の、成れの果てというわけです。