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ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

言葉が出ない

2022年05月14日 | 精神障害

 土曜日を迎えました。
 千葉市は本降りの雨が降っています。
 夕方にはやむらしいですが、気分が晴れません。

 今朝は朝一番で内科に行きました。
 コレステロールを下げる薬をもらうためです。

 夕方には精神科に行かなければなりません。
 面倒くさいですが、大量の精神病薬を飲んでやっと正気を保っている身であれば、いたし方ない仕儀と言えましょう。

 そして最近、違和感を感じているのが、うまく言葉が出なくなったこと。
 吃音というわけではなく、すらすらと言葉が出ないのです。
 私は人前で話したりするのは得意だと思っていたのですが、どこか奇妙です。

 かつて久米宏がニュースステーションを降板する際、適格なタイミングで分かりやすく話すことが出来なくなったことを理由に挙げていました。
 久米宏のごとき話すプロにとっては致命的だと感じたのでしょうね。

 私は事務職ですから、仕事に支障があるということはありませんが、何か嫌ぁな感じがします。
 若年性認知症だと困ります。
 少し様子を見ますか。


不安

2022年04月30日 | 精神障害

 大型連休に入っていますが、私はカレンダーどおりなので、月曜日は出勤です。
 出勤、そして仕事というのは、誰にとっても大きなストレスだと思います。

 私は若いころ、サラリーマン生活も年を取ればどこかで頓悟し、気持ちが楽になるのだろうと思っていました。
 しかし30年を過ぎても、頓悟するどころか、ますます不安は増し、プレッシャーに押し潰されそうになることがよくあります。
 そんな時、過去の成功体験は何の役にも立ちません。
 経験による知恵も、無駄です。
 いつも明日のこと、明後日のことが不安でなりません。

 私はうつを抑える薬や、逆に躁を抑える薬など、多くの精神病薬を飲んで、やっと平静を保っている状態です。

 その中で、即効性があるのは、抗不安薬という種類の薬です。
 昔は精神安定剤と呼ばれていたと聞きました。

 これを飲むと、ゆるーく効いて、まったりとした気分になります。

 しかし不安の種を摘み取る薬ではありませんし、そもそもそんな薬は存在しません。
 目の前にある不安の種=困難な仕事をなし遂げなければ、平穏は訪れません。

 ただし、目の前にある不安の種を解決したところで、間を置かずに次の不安が押し寄せます。
 まるでイタチごっこです。

 もしかしたら不安こそ、人間精神の本質なのではないかと思います。
 不安は仕事を完璧にこなしたい、という欲望の裏側。

 楽しみと痛みは裏と表でついて回ります。

 仕事をして飯を得るということを何十年も続けて、やっと老後を迎えたら、体のあちこちに不具合を生じ、最後は冷たい石の下というわけですから、人生なんて素っ気ないものです。
 あるいはこの心境が頓悟でしょうか。
 不安はあって当たり前、人生は苦しくて当然、そう心の底から思えた時、という。

 しかしそれでも、人間というもの、楽を求めます。
 
 思えば今まで、異動により色んな職場を経験し、ある程度職階も上がりましたが、ただの一度も気楽な部署というのはありませんでした。 

 異動しなければしないで、職場が変われば変わったで、種類の違う地獄を味わうことになります。
 血の池だったり、賽の河原だったり、針の山だったり。

 これでは何のために生きているのだか分かりません。

 満男が寅さんに「人間何のために生きているんだろう?」と、根源的な問いを浴びせた時、寅さんは「人間何遍か、あぁ生まれてきて良かったと思うことがあるじゃない。そのために生きてんじゃないか」と応えます。
 
 一種の人生哲学ですね。

 これを頓悟と呼ぶのだとしたら、人生はまさに不安と苦しみの中で嘆き苦しみながら、時折感じる至高体験を求める、みたいな切ないことになってしまいますね。

 当分、私は不安、苦痛、恐怖から逃れることはできないようです。


散漫

2022年01月23日 | 精神障害

 昨日は疲れていたせいか、15時過ぎまで眠ってしまいまいました。
 こんなに眠れることはありません。
 起きて、時計を二度見してしまいました。

 それでもなお眠かったのですが、夕方、月に一度の精神科診察日だったので、やむなく起き上がりました。
 なんだか土曜日を失ってしまったような、損した気分です。

 理由は分かっています。
 来週の一週間、猛烈に忙しいからです。
 私はうつっぽくなると、過眠になります。
 不眠になる人が多いと聞きますが、過眠になる人も一定数いるそうです。

 精神科に出かけて、来週への予期不安というか予期恐怖というか、そういうものに襲われていると相談しました。
 精神科医、パソコンを検索して、ちょうど一年前のデータを見、去年も同じような不安を抱えながら切り抜けたじゃないですか、予想するのは仕方ないですが、予想しすぎないことです、と慰めてくれましたが、不安や恐怖がそれで去るわけではありません。

 帰って、いつもより一杯多く、焼酎のお湯割りをやってしまいました。

 で、今日。

 土曜日よりも憂鬱になるはずの日曜日、不思議なほど落ちていません。
 抗不安薬を処方の倍飲んだせいでしょうか。
 いつもよりは朝寝しましたが、9時には起きました。
 食欲が無くて、朝飯は抜き。
 昼は軽くざる蕎麦でも、と思って近所の蕎麦屋に出かけたのですが、シャッターが閉まっていて、「感染症対策のため、しばらく休業します」との張り紙が。

 ショックです。

 これまで一度もこういうことは無かったので、おそらくは家族の誰かが罹患したのではないでしょうか。
 お気に入りだったイタリア料理店は閉店するは、蕎麦屋は長期の休業に入るは。

 仕方なく、中華屋に行きました。
 熱いタンメンを食い、お隣のドトールで食後の珈琲。

 しばらくは蕎麦屋にも行けないんでしょうか。

 職場でパートとして働く女性は、小学生の子供が通う学校でコロナが発生し、休校になってしまったので、しばらくは出勤できない、とのことで、パートとはいえ貴重な戦力だったので、堪えます。

 身近にコロナが迫ってきていると、切実に感じます。

 むしろ、不謹慎ではありますが、私がコロナに罹ってしまいたい気分です。
 そうしたら大手を振って休めますから。
 それで死ぬのならそれも結構。
 あの世で安楽に惰眠を貪ることが出来ましょう。

 うつっぽくなると、死ぬということが、いとも容易いような気分になります。
 長く自宅でうつ病治療をしていた時は、常に死にたいと思っていました。

 寛解に至って12年。
 今でもそういう気分になるのだから怖ろしい病気です。

 明日の今頃どんな気分で働いているのかと思うと、恐怖に身が縮む思いです。
 多分来週の土日のどちらかは、自主的休日出勤必至でしょう。

 どんな仕事も楽ではないでしょうが、隣の芝は青く見えるという如く、転職したいという思いに駆られます。
 しかしこれと言った技術もない52歳のおっさんに、今の職場並みの給料をくれるところなどないでしょう。
 ていうか、そもそも雇ってくれる会社など存在しないでしょう。
 今の職場にしがみつくしかありません。

 なんだか散漫な記事になってしまいました。
 これも病ゆえ、でしょうか。
  


精神科病院×新型コロナ

2022年01月16日 | 精神障害

 昨夜、NHKで、「ドキュメント 精神科病院×新型コロナ」という番組を観ました。
 当たり前ですが、精神病院に入院している患者も、コロナに罹患します。
 精神病の治療を受けつつ、コロナの治療も行わなければならない、現場は悲惨なことになっていました。

 わが国の精神病治療には決定的な問題があります。
 一度入院すると、30年も40年も退院できない、という。

 しかしこれ、医療の問題ではありません。

 一般社会における精神病差別の問題です。

 家族は精神病患者を看病する気はさらさらなく、むしろ家族の恥として、精神病院に隔離しておくことを望んだりします。
 社会資源も、例え治っていても、受け皿を作ろうとしません。
 退院しても行き場の無い患者は、結局、入院し続けるしかありません。

 幸いにして、私は精神病患者ですが、入院にまで至ったことはありません。
 しかし自助グループには何人も入院経験者がいて、拘束されたことがある人もいました。
 口をそろえて、入院だけはしたくない、と言っていました。

 もともと劣悪な環境に、コロナが襲い掛かりました。
 ある精神病院では、コロナ患者たちを一つの和室に閉じ込めて鍵をかけ、感染の拡大を止めようとしました。

 しかし、そのやり方が残忍と言ってもよいようなものです。
 和室に布団を敷き詰めて患者を寝かせ、部屋の中央に簡易式のトイレを置いていた、というのです。
 しかもトイレはむき出し。
 用をたしているところが丸見えで、臭い。
 水が欲しいと泣き叫ぶ人、外から鍵がかかった部屋のドアをたたいて看護師を呼ぶ人、地獄図です。

 しかも保健所が来た時だけ、鍵を外し、簡易トイレも隠したのだそうです。

 怖ろしいことですが、もともと精神科は法律で一般の病院よりも、少ない医師、看護師で治療することが認められているそうです。
 少なかった医療スタッフ、しかも精神科医がコロナの治療にあたるわけですから、たまったものではありません。

 ある大規模精神病院の院長が、緑に囲まれた公園のような施設に閉じ込めて、我関せずと精神病院の存在を無視する人々の差別意識が、精神病患者はもちろん、医療スタッフをも苦しめている、と、淡々と、しかし静かな怒りを込めて、話していたのが印象的でした。

 そしてもう一つ驚いたことが。
 世界の精神病入院患者の2割を、わが国が占めているというのです。
 世界の2割。
 なぜそんなことがと思いますが、先にも記したとおり、退院しても行き場がないから、何十年も精神病院に入院し続けるのです。

 私は自身が精神病患者ですから、このような問題に敏感ですが、全く興味が無いひとが多いのだろうと思います。
 まずは一般社会での啓発が重要かと思いますが、難しいでしょうね。
 誰もが自分の生活に汲々としていて、他人のことなど興味がないのですから。
 あまりにも根深い問題だと思います。
 私には、どうしようもありません。
 私もまた、自分の生活に汲々としている、愚かな大衆に過ぎませんから。


迷妄の森

2022年01月14日 | 精神障害

 今日は休暇を取りました。
 役所に障害者自立支援の手帳更新に行くためです。
 この手帳が交付されると、精神科の診察代と薬の処方費が1割負担になるのです。
 通常、3割負担ですから、長く通うと馬鹿になりません。 

 私はうつが酷かった頃、希死念慮に悩まされていました。
 平たく言えば、死にたくて仕方ないのです。
 うつ病は自殺率が極めて高い病気ですから、私もまた、死と生の堺を、塀の上を歩くようにして彷徨っていたわけです。
 この塀の、生の側に落ちたから、今こうしてブログを更新できているのです。
 死の側に落ちれば私は安楽にあの世でまどろんでいたでしょう。

 生の側に落ちるのと、死の側に足を踏み外すことと、どちらが楽なんでしょうね。
 生きている私は、いっそ死の側に落ちれば良かったのに、と思うことがあります。
 生きるということはしんどいですから。
 
 「男はつらいよ」で、満男に、「人間何のために生きているんだろう」と問われた寅さんが、「あぁ、生きてて良かったと思うことがたまにあるだろう、そのために生きているんじゃないのか」と応える場面があり、鮮明に覚えています。 

 生きてて良かったと思うことは、今の私にはありません。
 好きなホラーやサスペンスなどの映画を観ても、優れた文学作品に接しても、どこか生きていることが苦痛です。
 
 長い病気休暇から復帰してもう12年くらいになりますが、今も、弱い希死念慮は常に私を苦しめます。
 全く因業な病に罹患したものです。

 一方、躁状態にあった時は、自分が神様にでもなったように錯覚し、高揚した気分のまま、無駄遣いをしたり、使い物にならない駄文を書き散らしたりしました。
 その時はうつ病から解放されたと思いましたが、精神科医にそれは双極性障害という病気だと諭され、躁を抑える薬を飲むことになり、今も飲んでいます。
 最初うつ病と診断され、その後躁状態が現れて、双極性障害に病名が変わることはよくあるそうです。

 しかも面白いことに、うつ病の人の脳波と、双極性障害のうつ状態にある人の脳波は全く異なるのだそうで、近いように見えて違う病気なのだと実感します。

 リワークプログラムに通っていた頃、私と同じ双極性障害の人が何人かいて、明らかに華やかな印象を受けました。
 きっと私もそうだったのでしょうね。

 この病気を発症したのが36歳の時。
 今、52歳になりましたが、完治ということはありません。

 ほぼ症状が抑えられている寛解という状態になってずいぶん経ちますが、いつ再発してもおかしくない病気だそうで、完治するということはあり得ないのだそうです。
 一生、付き合っていかなければなりません。
 そのために障害者自立支援の手帳が交付されているわけです。

 双極性障害、じつはわりと多く、田中角栄や北杜夫などがそうだったとか。
 他にもきっとたくさんいるのでしょうね。

 患者としては、軽い躁状態にあるのが気持ちが良いのですが、医師は軽いうつ状態にあるほうが健康だと言います。
 躁状態になると、喧嘩っ早くなったり、無駄遣いをしたりするので、生活が破綻することが多いそうです。

 幸い、躁エピソードは一回しか経験していません。
 しかし一回でも躁エピソードが現れれば、それはうつ病ではなくて、双極性障害なのだとか。

 私としては、弱いながらも希死念慮に悩まされ続ける軽いうつ状態よりも、万能感にあふれる躁状態にあるほうが気持ちが良いのですが、根が真面目な私は、医師の処方どおり、躁を抑える薬とともに、うつを抑える薬をきちんと飲んでいます。
 ただし、この病気、抗うつ薬が使えません。
 躁転の危険があるからです。
 そのため、抗うつ薬の代わりに、主に統合失調症に処方される、気分を安定させる薬を飲んでいます。

 そのおかげで、一見健康に見えるかもしれません。

 しかし私は今も、迷妄の森を彷徨っています。
 この森から抜け出す日が来るのでしょうか。   


衰え

2022年01月09日 | 精神障害

 昨日は出勤しました。
 週明け火曜日、午前に一本、午後に一本、私が担当の会議があり、その資料作りが間に合わなかったので。
 それでも今週はマシです。
 今日、明日とお休みですから。

 疲れていたのか、午前11時まで寝てしまいました。
 その後軽い朝昼兼用の飯を食って、内科に行きました。
 コレステロールを下げる薬をもらうためです。
 この内科、日曜日も午前だけ診察を行っています。
 ありがたいかぎりです。

 近頃、言葉がうまく発せられなくなってきました。
 若いころは弁舌さわやかで、私とは絶対に差しで話をしない上司がいました。
 変に説得力があって、言いくるめられてしまうからだそうです。

 久米宏が、かつてニュース・ステーションを降板する際、「思うように言葉が出てこなくなった」と言っていたのを思い出します。
 
 相手を説得する能力に長けていた私が、まさか言葉に詰まるようになるとは思っていませんでした。

 これも加齢による衰えでしょうか。

 加齢による衰えをカバーするのは経験だと思います。
 30年も働いていれば、嫌でも知恵がついてきます。
 しかし私は、その経験すら生かせずにいます。

 昔は好きだった車の運転が怖くなりました。
 部下が陰で悪口を言っているのではないかと、部下も怖くなりました。
 炭酸リチウムという躁を抑える薬の副作用で手が震えるようになり、それを指摘されるのが怖くなりました。
 
 色々と怖いことが増えてきて、これも加齢による衰えでしょうか。

 私は予定日より二か月早く生まれた未熟児でした。
 何事もせっかちなのは、生まれてきた瞬間から運命づつけられていたのかもしれません。 
 加齢による衰えまでせっかちになるなんて、滑稽なものです。

 まだ定年まで8年あります。
 そのうえおそらく、65歳まで定年延長になることは必定で、そうすると13年もあることになります。
 そんなに働けるのか不安です。

 そうかと思うと、同世代で、テニスをやったり水泳をやったり、はたまた詩吟で大声を出したり、元気に遊んで回っている人も多く見かけます。

 そういうことは36歳で精神障害を発症してから、強制引退となりました。

 衰えていくしかない肉体と精神。
 私はこれを拒否するのではなく、観察していきたいと思っています。
 人はどうやって衰えていくのか、見届けたいと思っています。


胃が掴まれる

2021年12月26日 | 精神障害

 昨日は土曜日ながら忙しい一日となりました。
 同居人がウォーキング用の靴がだいぶくたびれたため、買いに行きたいというので、昼前にそごう千葉店に向かいました。
 11時半頃着いて、まずは腹ごしらえ。
 このブログで何度も紹介した椿屋茶房でカレーライス、スープ、サラダを食しました。
 食後の珈琲も飲んで大満足。
 90分くらいかけてゆっくりと食事を楽しみました。

 その足で靴売り場へ。
 同居人、気に入ったのがあって、即決。
 アシックスの靴で、一足3万円くらいしましたが、履き心地が悪いと履かなくなってしまうので、色違いの同じ靴を2足購入。
 まぁ良いでしょう。
 
 次に年賀の品を買いに酒売り場へ。
 赤白のワインを1本づつと、自分用に大好きな栗焼酎を買いました。

 結構な大荷物になってしまい、疲れたので喫茶店で珍しくオレンジジュースを飲みました。
 その場でオレンジをミキサーにかけ、何も加えないという作り方に興味を持ったので。
 で、これが実に旨い。
 オレンジジュース一杯で千円もしましたが、飲んでみて納得です。

 夕方から精神科の診察があったのですが、とりあえず購入したものを車に積んで、徒歩で精神科に向かいました。
    そごう千葉店からは歩いて10分ほどの距離です。

 このところ年度末の足音が聞こてきたせいか、あるいは日が短いせいか、胃がぎゅうっと掴まれるような、体がこわばるような不快感を感じると言ったら、ドグマチールという抗うつ薬が追加になりました。
 減薬どころではありませんね。

 今日は掃除、洗濯をし、年賀状をやっつける予定。
 パソコンのおかげで年賀状も楽になりました。


たまの幸福感

2021年11月27日 | 精神障害

 土曜日の朝。
 今朝は7時に目覚めました。
 白飯をたっぷり食いたいと思って、そのためにはおかずを減らすことだと、塩らっきょのみ。
 塩らっきょのみで白飯をたっぷりと食いました。
 腹がくちくなれば眠くなるのが人情というもので、朝食後、ソファで眠っしまい、起きたら11時。

 コロナの前はよく東京まで出かけて様々な町を歩き回りましたが、もう1年以上、そういうことはしていません。
 家でダラダラするばかりです。
 こういう生活に慣れてしまうと、出かけるのがひどく億劫になります。

 昼は徒歩10分弱のイタリア料理店で軽いコース料理を食う予定。
 自宅の目の前のイタリア料理店がコロナ禍で閉店してから、土曜日の昼はそういう仕儀となりました。

 夜は魚屋で魚を購入して一杯。
 土曜日のルーチンのようになっています。

 また都内散歩を楽しむ日が来るのでしょうか。
 仮にそんな僥倖が訪れたとして、出かける気力体力があるかどうか。
 このまま千葉市内で完結してしまいそうな気がします。

 夕方は月に一度の精神科。
 もう何も相談することとて無いのですが、薬が無くなるのが怖くて、真面目に通っています。

 精神障害を発症して良かったとは思いませんが、今まで見えなかった世界を見られるようになったこともまた事実。
 自助グループやリワークプログラムに参加して、じつに多くの精神病患者と知り合いになったお陰で、生きにくい世の中を薬の力を借りて必死で生きているその姿を見て、まばゆいばかりの生の力を感じます。

 生きるということは誠にしんどいですが、誰もがしんどさに耐えて生きています。
 なかにはしんどさに負けて自殺してしまう人もいますが。
 私の後輩に27歳で自殺してしまった者がいました。
 もう四半世紀も昔のことですが、今思い返しても胸が痛みます。
 私の後任者で、それだけにその席の辛さはよく分かります。
 特に年度末を越えるのは大変な労力で、完徹したことも一度や二度ではありません。

 私は別の機関に異動していたので、自殺前後の彼の様子は知りません。
 せめて私がその機関に留まっていたのなら、彼を少しはサポートできたかもしれないと思うと、やり切れません。

 その後、私は精神を病んで、自らも強い希死念慮に悩まされることになり、ますます彼の心中が察せられて、ついには悪夢に苦しむことになりました。

 今、私は服薬治療を続けながらとは言うものの、苦役でしかない労働に耐えられるまでに回復し、もう10年以上がたちます。
 あの時自殺しなくて良かったと、つくづく思います。

 毎日が憂鬱ではありますが、それだからこそ、休日の嬉しさや、ちょっとした幸せに、強い幸福感を感じるようになりました。
 この、時折訪れる幸福感を大切にして生きていきたいを思います。

 人間、たまの休みや時折の幸福感だけでも生きていけると思うのです。

 


合法ドラッグ中毒

2021年11月16日 | 精神障害

 最近、酒を呑む回数が減りました。
 前は毎晩、休日には昼も夜も吞んでいたのですが、今は週末だけ。

   素面でも眠れるようになりました。
 
   起きている時は抗不安薬。
 抗不安薬、かつては精神安定剤と呼ばれていました。
 ラリった状態で日中を過ごしています。
 そうは言っても合法薬なので、どうってことはありません。
 ラリった状態でも、仕事に支障を来すことはありません。

 抗うつ薬は一種の興奮剤。
 こちらも手放せません。
 気持ちよいですから。
 抗うつ薬と抗不安薬の組み合わせ、ほとんど合法ドラッグです。

 症状がきつい時は水でも飲んでいるかのように効いている感じがしませんでしたが、寛解の状態に至って、薬の効き目を実感するようになりました。
 寛解状態であるからこそ、ラリった状態になっちゃうんでしょうね。

 元気になったから減薬しようという話になったことが何度もありますが、そのたびに失敗しています。

 おそらく、精神病薬の中毒みたいになっているのだと思います。
 中毒になっているからこそ、減薬に挑んでも、離脱症状みたいなものが起きて、苦しいだけだから減薬をしようとも思いません。

 精神障害発症前、薬を飲まずに元気に働いていたことが、今となっては信じられないような気がします。
 そして世間の多くの人が、薬も飲まずに元気でいられるということも。
 
 合法薬物患者一丁上がりです。

 でも、私は今の状態が幸せだし、医者が出す薬を飲んでいるだけなので、何の問題もないと思っています。
 よく、精神病薬や睡眠薬は癖になると言います。
 依存性が強いのですね。
 で、私はそれにどっぷりとはまり、抜け出せなくなっているというわけ。

 しかし、酒と違って肝臓をやられることはないし、正気を失うこともありませんし、二日酔いになることもありません。
 アルコール中毒みたいに生活が破綻することもありません。

 違法薬物ならともかく、合法ドラッグなら、自分が心地よいと感じる量を、じゃんじゃん飲んでやろうと思っています。
 それで精神の均衡が保てるなら、迷うことはありません。

 むしろ、精神を病んでいるのに精神科への通院を嫌がったり、通院して薬も処方されているのに飲まずに捨てちゃったりする人の気が知れません。
 精神病患者自らが精神病差別をしているようなものです。

 おそらく私は生涯精神病薬を飲み続けるものと思います。
 高血圧の人が一たび降圧剤を飲み始めたら止めることが出来ないのと同じようなものかと思っています。

 ただ違うのは、気持ちよいということ。
 でも気持ち悪いよりよほど良いと思うのです。


薬局閉店

2021年10月31日 | 精神障害

 昨日は精神科の診察がありました。

 調子が良くなってきた、ということで、ビブレッソ除放錠という薬が、250mgから150mgに減りました、
 6種類の精神病薬を飲んでいるのですが、少しでも減るとお財布にもやさしいし、嬉しいものです。

 減薬失敗とならなければよいのですが。

 一つ、衝撃的なことがありました。
 精神科のすぐ側にある薬局が来月いっぱいで閉店するというのです。
 処方薬局のなかでも、精神科の薬を常備している店は少なく、他の精神科クリニックの近くの薬局を探さなければなりません。

 ちなみに私が内科の薬をもらいに行っている薬局では、6種類のうち、3種類しか置いていない、とのことでした。
 できれば通い慣れた、しかも自宅から近い、その薬局で購入したかったのですが。

 それに、私は障害者自立支援で、「重度」の認定を受けており、精神科は診察も薬も1割負担で済んでいます。
 これには、クリニックと薬局を区の保健管理センターで申請しなければなりません。
 今回は、薬局の変更を申請することになります。
 そんなことで休暇を取らなければならないとは面倒くさいことです。
 それには、まずは薬局を決めなければなりません。

 薬局ですから、コロナの影響があったとは思えません。
 なんで閉店するのか、分かりません。
 もう16年くらい通ったのに、残念です。


はしご

2021年10月29日 | 精神障害

 土曜日。
 見事に晴れ渡っていますが、今日は病院のはしご。
 朝一番で内科に行きました。
 内科は三週間に一度。
 いつもの高脂血症及び高血圧の薬をもらうのに加え、今日はインフルエンザの予防接種を受けました。
 コロナと違い、結構痛いのですよねぇ。
 私は痛いのは嫌いです。

 夕方16時半から月に一度の精神科の診察があります。
 双極性障害は寛解にいたってもう15年も過ぎているので、診察は世間話程度。
 薬をもらいに行くだけのようなものです。
 そうは言っても相手は精神科医。
 私の言動を見て、躁転の予兆はないか、あるいはうつに落ち込む印はないか、判断していることでしょう。

 精神障害の場合、精神科医との相性が大切です。

 高圧的にしかりとばすような医者もいれば、患者が欲しがる薬を無条件に処方するような、職責を放棄したような医者もいます。

 今の精神科医にかかるようになって16年くらい経ちます。
 それまで、私はドクター・ショッピングみたいなことをして、多くの精神科医の診察を受けました。
 どの医者もしっくりいかず、今の医者に巡り合うまで、ずいぶん嫌な思いをしました。
 今の医者は、やたらと薬を処方するわけではなく、私との話し合いのなかで薬を決めていってくれます。
 診察は薬を決める作戦会議の様相を呈します。
 それでいて、私を責めるようなことは一切言わず、10年以上倒れずに出勤を続けていることを毎回褒めてくれます。
 良い医者です。

 私が怖れるのは、今の精神科医がクリニックを閉じること。
 私より年上と思われますので、必ず引退の時がくるでしょう。

 その時はきっと、信頼のおける精神科医を紹介してくれるものと思いますが、不安は残ります。
 いつ訪れるか分からない未来を嘆いても仕方ないですが。

 明日は休日出勤。
 億劫ですが、宮仕えの身であれば、断ることなど出来るはずもありません。
 宮仕えというのはしんどいものです。
 まして双極性障害を抱えながらとなると。


本当

2021年10月16日 | 精神障害

 昨夜、寝付けず、何をするというわけでもなく、徹夜してしまいました。

 白々と夜が明けて、仕方がない、顔を洗って髭を剃るかと鏡をみたら、そこには、世にも美しい、天使と見まごうばかりの美少年が映っていました。
 目を固くつぶって頭を振り、そっと目を開けると、そこには、世にも醜い怪物のような中年男が映っていました。

 深く、ため息をつきました。

 もちろん、後者が今の私。
 前者は、40年も前の私でしょうか。
 あるいはそうであってほしかった少年の私。

 天使のような美少年も怪物も、いずれもこの世には存在しない、あるいは存在してはいけない魔性の化け物なのかもしれません。

 私はこれまで、たとえ精神病を発症しても、社会規範から一歩もそれることなく、まっとうに生きてきたと思っています。
 
 それなのに、私は私が怖いのです。
 
 私はかつて、父親譲りの気高さとか誇りとかいったものを、誰よりも強く持っていると思っていました。
 
 しかしそれは妖かしに過ぎなかったようです。
 私は気高くもなければ誇り高くもなかったのです。

 まっとうに生きれば生きるほど、私は私のつま先から頭まで、すべてが怖ろしい、唾棄すべき、邪悪な存在であると感じるようになりました。

 それが私の真実。
 誰もが目をそむけたくなる真実という恐怖の核のごとき物に、私は気付いてしまいました。

 あるいはそれは中年から初老に向かう者が背負っている宿命なのかもしれません。

 それだけ生きれば、人間、いや、生物というのは本来邪悪なものだと予感を覚えるはずです。
 もし神様が作ったというのなら、それは失敗作か、あるいは神様はよほど意地悪か、どちらかでしょうね。

 夢とか希望とかいうものは失せて、面倒くさい責任を持たされて、世の中の在り様も分かってきて、そこにいたって初めて、自分は邪悪な存在でありながら、天使のような美しさをひっそりと隠し持っていると気付く、という。

 もう一度、鏡を凝視すると、そこには見慣れた、疲れた中年男が映っているだけで、天使も怪物も消え失せていました。
 徹夜で朦朧とした頭が、一瞬、私に、見てはいけない、あるいは見ることが出来ないはずの、本当を見せたのかもしれません。

 美しくありたいという小さな願望を持った、しかし邪悪でしかない私という怪物。
 その怪物が暴走を始めやしないかと、私自身が怖ろしくて仕方ないのです。
 


寝逃げ

2021年10月10日 | 精神障害

 昨日と同様、いや、それ以上に落ちています。
 うつ状態に陥ると不眠になる人が多いのですが、私は過眠になります。
 今日も10時に起きて朝昼兼用の飯を食ったら眠くなり、また眠ってしまいました。

 寝逃げ状態です。
 今、13時42分。
 今も眠いです。

 こんなことで明日以降の仕事が務まるのかどうか。

 明日のことは考えず、今日の寝逃げを楽しむ他ありません。 


落ちる

2021年10月09日 | 精神障害

 土曜日。
 疲れているんでしょうか。
 朝起きたのが9時。

 起きだしても、頭がぼうっとしてだるい感じです。
 こんな時はカフェインが効くと、珈琲を飲みました。
 一杯飲んでも効いた気がしません。
 もう一杯、さらにもう一杯と、立て続けに5杯も飲んで、やっとしゃっきりしました。

 一時間に9杯珈琲を飲むと急性カフェイン中毒になり、40杯飲むと死ぬ、という話を聞いたことがあります。
 カフェインの摂りすぎは気をつけなければなりません。

 一時的に頭はしゃっきりしましたが、どうも調子が悪いようで、しばらくするとまたぼうっとしてきました。
 これはおかしいと体温を測ったら、37度2分あります。
 微熱程度ですが、私は熱に弱く、37度を越したらまともに起きていられません。

 市販の解熱鎮痛剤を飲んでソファでうつらうつらしました。

 ひどい悪夢を見ました。

 コロナでかなんでか知りませんが、人類は死に絶え、私一人が生き残っているのです。
 静かな町を歩けば、あちこちに蠅がたかった遺体が転がっています。
 最初は気持ち悪くなりましたが、じきに死体を見るのに慣れて平気になってしまいました。

 生き残っている人を探し続けましたが、誰もいません。
 絶望した私は、自死を覚悟して、どうやって死のうかと考えている時に、汗をびっしょりかいて目覚めました。

 体も心も疲れているような気がします。
 5日間、フルタイムで働き、しかも毎日3時間も残業していますから、疲れるのも当然。
 若いころは3時間程度の残業、まるで平気でしたが、今はダメですね。

 せっかくの土曜日でしたが、ほぼ寝て過ごしました。

 こんな時は、気持ちが落ちていきます。
 悪い方へ悪い方へと。

 いっそ仕事を辞めて隠居できれば良いのですが、そんな金はどこにもありません。
 宮仕えというものは、ただ働いて死んでいくばかりなのでしょうか。 


二大精神病

2021年10月06日 | 精神障害

 今日は馬鹿に忙しい日でした。
 会議の準備、調書、冊子の校正、それも期限が明日。
 
 なぜか仕事が集中する日と、退屈するほど仕事が無い日があります。
 馴らせばどうということもない仕事が、集中するから嫌なんですよねぇ。

 それに加えて双極性障害による気分の上がり下がり。

 気分が安定して、上がったり下がったりすることを緩和する薬を飲んでいて、わりとよく効いているとは思いますが、統合失調症と並ぶ二大精神病と言われていますから、油断はできません。

 双極性障害はかつて躁鬱病と呼ばれ、統合失調症はかつて精神分裂病と呼ばれていました。

 どちらも刺激的な名前です。

 しかし、病気の特徴をよく表しているのは、昔の表現であるように感じます。
 人に説明するときも、躁鬱病と言えば一発で分かってくれますが、双極性障害では、「それは何ですか?」、と言われてしまいます。

 それは面倒です。

 躁鬱病と呼ばれたからといって、当事者の一人である私は、差別だとも何だとも思いません。 

 むしろ堂々と、私は躁鬱病です、と名乗りたいものです。