たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自己肯定感至上主義

2012-09-26 01:22:09 | Weblog
 どんな人でも褒められたい。称賛されながら成長したいし育ちたい。
 どんなに言葉で否定したって、心の奥底ではみんなそう願っているはずだ。

 褒められるためには成果がいる。中高生のお勉強界で言えば、どれかの教科で、少なくともクラスで1番じゃなきゃ、満足のいく褒められ方はしないだろうし、スポーツ界で言えば、エースじゃなきゃ満足できないだろう。
 褒められるための結果を出すのはとにかく難しい。例えば、英語(リーディング)のテストで学年で1番であったとしても、試験範囲の英文と和訳を試験前にすべて丸暗記しているような勉強法で1位をとっていて、なおかつ、それが心のどこかでオカシイと思いながらやっていたとしたら、たとえ超褒められたとしても、本人は満足しないだろう。

 つまり、自分の心で納得のいくスタイルで→成果を出して→誰かに褒められる、という三拍子がそろわない限りは、自己実現にはならないし、自立もしないわけだ。
 すべての教育は、このラインにいかに乗せるか?を考えるべきで、そうじゃなきゃ教育と言ってはいけないほどだ。1年間くらいかけて、何かの分野で、1回でもこのラインに乗せることができれば、俺の強力な味方となりうるし、それによって、俺も助けられる。

 納得できるスタイルを幅広く持つだけの器が無いと、なかなか成果は出ない。だから、色々なタイプの友達がいる方が良いし、色んな考え方を納得できるか?って毎日自分の心へ飲み込もうとしてみることが大事だと思う。

 それらが繰り返されないと、一度も心が満足できずに、大人になる。すると、擂り潰すような新人教育や、自分たちの言うこときくヤツが使えるヤツみたいなバカな採用方法が横行してしまう。
 本人と相談をして、こちら自身も相手のスタイルが納得できるように努力しないといけないし、歩み寄りのはずなのに、押さえつけて成果出せたところで、それは言われたことやっただけで、何も満足にはならないよね。っま、言われたことコツコツやっていってるだけなのに、目に見える成果が全く出ないような、まったく出さないような、ダメダメな集団もあるわけだけど。

 自己実現したことがない、心が褒められた感で満たされたことの無い人の、スタイルの相場は決まっている。
 それは、相手のオフェンスできるところをとことんオフェンスする、ってことに帰着される。それこそが、平凡な人間が自らの能力向上を介さずに自らが称賛されているかのように錯覚できる麻薬である。

 研究室ゼミや小さいセミナーなんかだと特にだけど、オフェンスするには、それなりの義務をきちんとこなしていないといけない。てめーの成果のどこに他人をオフェンスできる権利があるんだよ?、って思われないためにね。
 これを、理系ってのは、また、ただのバカ真面目が多いから、正しいこと言ってりゃイイだろー、ってツラをする。何を言ったか?で正しさを既定しようとする。それじゃあ、実質的にも精神的にも、進捗しないし、ゼミの意味が無い。心に飲み込んでいる言葉で、誰が誰に対して、どんな有益な情報をいかにして与えようとしたか?が、本来の正しさなのだ。

 そして、それすらもできない、人は、どうするか?
 社会的に叩かれている人達を、みんなと一緒に叩いておくことによって、自己肯定感を生みだそうとする。

 そんな風にならないように、ホントにホントに注意しなきゃいけない。
 下を観てはいけなくて、常に上を観なきゃね。もっともっとすごく輝いている人は沢山いるし、下を叩いて自分は大丈夫だって安心しているようなバカになっちゃいけないよね、どのレベルでも。

 ただ、俺は、なるべくなら、心が満足できるラインへと誰かを引き上げることも、同時に、諦めないでいたい。
 確かに『出来ない!』って言うことも勇気だし、もしかしたら、そろそろその時期なのかもしれないけど、まだ、もうちょっと諦めたくないのだ。

 なぜなら、それが、今まで褒めてくれた人達へ返せる唯一のモノだからだと思う。
コメント (2)
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