たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

即物的なモノに内在する想いへの敬意

2012-09-17 02:39:41 | Weblog
 やっぱり、何かの物理現象ってのは、すべて、日常生活まで落とし込んだ時に、意味があるものなのかもしれない。
 それによって、誰かの気持ちや切ない現実に気がついたりして、喜んだりムカついたり泣いたり楽しんだりできるなら、それはそれでどれにしろ、楽しいよね。

 どんなモノにも、どんな道にも、どんなルートや、どんな手順にも、創った人間がこめた想いがある。
 それが、どんなに小さいモノでも、どんなにくだらない道でも、どんなにダメなルートで、どんなに面倒なプロトコルでも、その想いに敬意を表しないで使用すれば、人は罰を受ける。

 『その意志ってのが、生命にだけありそうなのは、非常に面白いことじゃない?』
 ≪じゃぁ、やっぱり、何か物質としては残らないって考えているんですか?≫
 『いやー、それが、もしかしたら、南部ゴールドストンボソンかもしれないし、暗黒物質かもしれないし、わかんないけど、なんらかの形としてはあるんじゃない?』
 ≪おー、じゃあ、自然科学の範疇として考えられるって思ってるんですね。≫
 『そりゃ、そうでしょ。でも、意志がいわゆる生命にだけ存在してるってのは面白いよね。』
 ≪うーん。違いますよ。意志ってのはレベルが低いだけで、例えば、そこの自転車にも、その椅子みたいなのにも、構造を持ってるってだけで、いわゆる意志ってのはあると思いますよ。≫
 『えーー、そりゃないでしょ。』

 モノや、もしくは、目に見えないモノでも、そういうことに対する敬意が、あまりにも無碍にされすぎていると思う。
 即物的に、表面的に、自分にとって、もしくは自分の周囲にとって、有益であるからといって、想いを無視して、それを選んで、成功したケースを観たことがないし、そういうことを普通にしていると、あなたにはプライドが無いのかな、って思う。

 すべての人間関係は気持ちで成り立つ。友情関係も、親子関係も、恋愛関係も、夫婦関係も、師弟関係も、すべて。
 その人を選ぶ理由、選び続ける理由が、有益な能力があるから、学歴があるから、素晴らしい装置が存在しているから、そのプロトコルが欲しいから、自分の言うことをよく聞くから、カワイイから、カッコイイから、ステータスが対等であるから、等の理由であったら、それがホンモノであるはずが無いのだ。それは、副産物としては成り立つが、先立ってはいけない。本来誰でもそれを望んでいないし、誰でも本当の想いからの関係性を本当は望んでいる。

 そして、気持ちを大事にし続けたときに、はじめて、その時間経過の副産物として、「結果」が得られるのだ。
 順序を間違えちゃいけないよね。

 即物的な結果を急ぎ過ぎて、成功している人を、俺は、いまだかつて、観たことがない。
 だから、ちゃんと、相手の想いや気持ちを考えて、心で感じとって、直観を働かせて、見つめようとしなきゃいけないのにね。

 その過程を経て、結果がきちんと出ればラッキーだし、たとえ最後まで結果が出なかったとしても、楽しい想い出になれればそれでイイじゃんという価値観に、どうして、みんな、なれないのかな。。
コメント
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