大抵のことはやり直せる。
でも例外的に、世の中には取り返しがつかなくなることがいくつかある。
これは定義として覚えること、くらいのことだと思うけど、俺が考えている、取り返しがつかなくなることは、たった2つで、「麻薬」と「(自分への、も含む)殺人」だ。
この2つさえしなければ、大抵のことはやり直せる。いつからでも、いつでも。
じゃぁ、そんなことと一切関わってきていない人達が、どうして、いつからでも変われる!、って思って状況を打破しようとしないかというと、今までの自分自身の一部を否定したり捨てたりすることが怖いからだと思う。
自分が今までやってきたことを焦点から少しだけ外すことさえ怖くて、分野が違って理解できないことは、受け入れない。くだらない教科書通りの答えを言っていれば、下の人からオフェンスされることはないし、上の人にはへーこらしてればイイし。
自分が選び続けた言葉や関係性を、そのまま信じたい。もう物理的にも精神的にもダメなのに、長い時間の中で信用していた自分を否定するのが怖かったりして。
まるで、一生懸命育てている途中でカッコウの托卵に気がついてしまったオオヨシキリみたいで、そこから真実を受け入れられるかどうかが大事だ。
どんなに無難が好きでも、大義名分や美辞麗句が好きでも、今までの努力が無駄だって思いたくないのだとしても、自分の子供を殺した子供を育て続けてはいけないだろ。たとえ、途中まで、その最悪の事実を自分自身の手で育て続けてしまったとしてもね。
しかもカッコウの子は、その巣にそのまま居座るだろう。カッコウに騙されたオオヨシキリは巣も捨てなきゃいけないのだ。
巣をせっかく創ったのに、せっかくここまで大きく育てたし、育成本能までくすぐられているのに。ホンモノだと想ってきたのに。
人間なんて、これよりも好条件なのに、移動できない。カワレナイ。
オオヨシキリのがよっぽど賢いぞ。最近のオオヨシキリは、ちゃんと気がついて、捨てるんだぞ。
ダメなものはダメなのだ。それが、どんなに自分が育てたのだとしても、自分が築きあげてきたんだとしても、どんなに本能を燻られても、切り捨てるときは冷酷にきちんと切り捨てなきゃいけないし、守れるモノは守らないと。
その辺にいる子に対して、やんちゃ過ぎて、乱暴で、他人に迷惑をかけているのにも関わらず、小さな子供だからという理由で、ペットのように、カワイイ!、っと大げさに感想を述べている女性を観ると、呆れると同時に、ちょっとだけ羨ましくもなる。子供のことを、子供をカワイイって言ってる自分がカワイイ!、の材料としか観ていないのに、表面的には俺より幸せでいれそうだから。
俺も子供のことをそこまでよく知ってるわけじゃないけど、少なくとも、そんなに単純じゃねーよ、子供だって。
それよりも、たとえ今その場でいなくても、実空間で観えなかったとしても、その子によって影で泣いていそうな子供のことを心配したり、もっと優しさを守ろうとするようなことを、せめて思考しなきゃいけないなー、っと難しいことを求めている。
だってそんなの何の役にも立たないじゃん?、っというくだらないオフェンスにお答えするが、そこで、カワイイとつけ上がらせるようなことを実際に言うよりも、よっぽどイイと思うぜ?そういうことを、頭で考えておくことのほうが。
持ってく方向をよりよくするためには、クラスチェンジは必須だし、ダメなものはダメ、より良いものは良い、という事実を、本能と一端切り分け、心に飲み込んで行動しなきゃいけない。
優しさを優しさで補強することはできるはずだし、何度だって、大抵のことはやり直せるんだから、恐れずに行きたいな、っと思う。
でも例外的に、世の中には取り返しがつかなくなることがいくつかある。
これは定義として覚えること、くらいのことだと思うけど、俺が考えている、取り返しがつかなくなることは、たった2つで、「麻薬」と「(自分への、も含む)殺人」だ。
この2つさえしなければ、大抵のことはやり直せる。いつからでも、いつでも。
じゃぁ、そんなことと一切関わってきていない人達が、どうして、いつからでも変われる!、って思って状況を打破しようとしないかというと、今までの自分自身の一部を否定したり捨てたりすることが怖いからだと思う。
自分が今までやってきたことを焦点から少しだけ外すことさえ怖くて、分野が違って理解できないことは、受け入れない。くだらない教科書通りの答えを言っていれば、下の人からオフェンスされることはないし、上の人にはへーこらしてればイイし。
自分が選び続けた言葉や関係性を、そのまま信じたい。もう物理的にも精神的にもダメなのに、長い時間の中で信用していた自分を否定するのが怖かったりして。
まるで、一生懸命育てている途中でカッコウの托卵に気がついてしまったオオヨシキリみたいで、そこから真実を受け入れられるかどうかが大事だ。
どんなに無難が好きでも、大義名分や美辞麗句が好きでも、今までの努力が無駄だって思いたくないのだとしても、自分の子供を殺した子供を育て続けてはいけないだろ。たとえ、途中まで、その最悪の事実を自分自身の手で育て続けてしまったとしてもね。
しかもカッコウの子は、その巣にそのまま居座るだろう。カッコウに騙されたオオヨシキリは巣も捨てなきゃいけないのだ。
巣をせっかく創ったのに、せっかくここまで大きく育てたし、育成本能までくすぐられているのに。ホンモノだと想ってきたのに。
人間なんて、これよりも好条件なのに、移動できない。カワレナイ。
オオヨシキリのがよっぽど賢いぞ。最近のオオヨシキリは、ちゃんと気がついて、捨てるんだぞ。
ダメなものはダメなのだ。それが、どんなに自分が育てたのだとしても、自分が築きあげてきたんだとしても、どんなに本能を燻られても、切り捨てるときは冷酷にきちんと切り捨てなきゃいけないし、守れるモノは守らないと。
その辺にいる子に対して、やんちゃ過ぎて、乱暴で、他人に迷惑をかけているのにも関わらず、小さな子供だからという理由で、ペットのように、カワイイ!、っと大げさに感想を述べている女性を観ると、呆れると同時に、ちょっとだけ羨ましくもなる。子供のことを、子供をカワイイって言ってる自分がカワイイ!、の材料としか観ていないのに、表面的には俺より幸せでいれそうだから。
俺も子供のことをそこまでよく知ってるわけじゃないけど、少なくとも、そんなに単純じゃねーよ、子供だって。
それよりも、たとえ今その場でいなくても、実空間で観えなかったとしても、その子によって影で泣いていそうな子供のことを心配したり、もっと優しさを守ろうとするようなことを、せめて思考しなきゃいけないなー、っと難しいことを求めている。
だってそんなの何の役にも立たないじゃん?、っというくだらないオフェンスにお答えするが、そこで、カワイイとつけ上がらせるようなことを実際に言うよりも、よっぽどイイと思うぜ?そういうことを、頭で考えておくことのほうが。
持ってく方向をよりよくするためには、クラスチェンジは必須だし、ダメなものはダメ、より良いものは良い、という事実を、本能と一端切り分け、心に飲み込んで行動しなきゃいけない。
優しさを優しさで補強することはできるはずだし、何度だって、大抵のことはやり直せるんだから、恐れずに行きたいな、っと思う。
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