「あらすじ・注目した文章」
第二章 ―(普請役の仕事に励む信郎)ー
(あらすじ)
智恵の借家へ多喜が来たその日、笹森信郎は、旗本格の勘定の青木昌康の命を受け、4日3晩の予定で、御用旅に出て、目的地の成澤郡の上本条村まで、あと半日の途上にあった。
信郎の目は、街道でなく河原にあった。普請役(川底をさらい、堤防を堅固にし、河川の氾濫を防ぐ工事などが役目)である信郎自身の点数を稼ぐために、河原の内の流作場(田畑にできそうなのに放置されている場処)を探しているのだ。
(注目した文章) ー(仕事への信奉)ー
勘定所は、幕府の御役所の中で、数少ない励み場である。つまり、励めば報われる仕事場である。
また、信郎の普請役のように、武家以外の身分が、武家となる階段も用意されている。
だから、励む。点数を稼いで、上のお役目に駆け上がろうとする。
この最も分かり易い点数稼ぎの場が流作場の開発である。(大名領の流作場を見つければ幕府御領地に組み替えられる)成果が全て数字で明らかになる。誰の目にも公平だ。ために、信郎も、御役目で地方へ出張るときは、かならず、その往復に川沿いを歩くことにしている。
それに、信郎が信奉している格言は"一事が万事"だ。ひとつは駄目だが、残りの全ては完璧ということありえない。ひとつの駄目は必ず、残りの全てにも顕(あら)われる。だから信郎は、どんな御用にも真正面から取り組む。
それは、行き帰りで点数を補う流作場の開発にも同様で、こつこつと点数を積み上げる。
(あらすじ)
信郎が江戸に出てきて、もう3年になる。
なのに、まだ幕府勘定所の普請役のままで、励み場の出発点である支配勘定にすらなっていない。つまり、武家になっていない。
これでは何のために江戸に出てきたか分らぬし、それに、妻の智恵にだって、いつまでも下谷稲荷裏の借家暮らしを続けさせるわけにはいかない。
あのまま、在所で再縁を得れば、何の苦労もなかったであろう智恵を、自分の我がままで土地から切り離し、20俵2人扶持の暮らしに引き摺りこんだのは、遅くとも2年で支配勘定になる目算だったからだ。
(注目した文章) ―(信郎の智恵への想い)ー
義父の理兵衛に、初めから江戸へ出るつもりがあったのなら、智恵を嫁に選ぶべきでなかった、と言われたとき、信郎はその通りだと思った。
自分の道連れにすべきでないのは、もとより承知していた。だから幾度なく、智恵をあきらめようとしたが、できなかった。
離縁で戻っていた智恵を何回か遠目に見かけるうちに惹かれていって、智恵と会うたびに、その話す声を、ずっとそばで聞いていたいという気持ちを抑えきれずに、夫婦になってほしいと申し出た。
なのに、姑息にも、その後になって急に智恵を巻き込む不安に耐えられなくなり、名子であることを明かした。
「自分は名子だから、縁組の申し出をなかったことにしてくれても構わない」と言ったのだ。
あの時の智恵の目の色は決して忘れない。智恵の不可思議な眼差しに撫でられているかのようで、心地よくさえあった。その智恵に、再縁を後悔させることなんぞできはしない。
(あらすじ)
幕府勘定所では、勘定奉行のお声がかりの案件で、宝暦飢饉からの復興に尽力した功労者を、一郡につき一人を選出して顕彰することになり、成澤郡については、繰綿(種を取り去っただけの精製してない綿)の仲買を営む伝次郎を「儲けのあらかたを注ぎこんで、お救い小屋を作り、空腹者に食い物を供したということ」で選出したが、その人選に、上本条村の久松加平という大昔からの名主が異議を唱えて自薦してきた。
幕府は、幕府方針の"耕作専一"(商売より米作りに励む)の政策に沿った名主の加平を「私財を投げ打って、村人に食料を無償で分け与え、百姓の姿が消えた手余り地(耕作を放置した田)が一枚も出なかった」として、加平へ顕彰者することに決定した。
しかし、現地にも行かず、いきなり替えるというわけにいかないので、特別に、支配勘定を飛び越えて旗本格の勘定の青木昌康から、信郎に、「現地に足を運び、その上で、加平の方が相応しいという結論になる報告書を提出するように、それに、余計なことをするなよ」との命令を出した。
信郎は、"耕作専一"のほかに何か理由があるのかと尋ねる。
勘定の青木は、幕府として、年貢の公平を期するため、成澤郡で「石代納(年貢を米でなく、貨幣で納める制度)」を推進したいとして、その手始めに、勘定所では上本条村で展開したい考えているのだと告げた。
功労者を名主に替えるほうが、石代納の制度を展開するのに都合がよいからだ。
青木は、そろそろ話を切り上げるかと思ったが、なおも言葉を継いだ。
おぬしには、いろいろと評判が立っているぞと言って、信郎が悪い評判から聞かせてくださいというと、「お前の話し方が目上と目下と同じなので、目上には礼を失している。いい噂は、話を鵜呑みにしないで、自分の頭で考えるということで、上司の手間が省けて楽ができるという評判だ」と教えてくれた。
信郎は、加平が話のとおりの人物であれば、人の考えつかぬ仕法を様々に実施に移しているに違いないし、村には学ぶべきものがきっとあり、御益(幕府の利益)のための献策のタネが多くあるはずだと喜び勇んで、上本条村に向かった。
信郎が久松加平の屋敷にたどり着いときには、もう陽が落ちかけていた。
加平と共に摂った夕餉は、燗徳利はなく、まさに、自給自足を旨とする"耕作専一"の村のもてなしだった。
信郎は、膳を前に失礼だがと、久松家の水田の広さを訊ねた。
今は、人手がなくなり村人に分けまして、22反ですと言われ、信郎は、小前4軒分になるかならないかの名主にしては少ない広さに不審に思い、
「その蓄えで、飢饉の際にお救いを施し、ましてや、沼の開拓事業を起こして、川除普請(公儀普請の河川の浚渫や堤防工事)までの半年間、村人全員に何とか食いつないでいけるだけの日当を支払うのは、いささか無理がありませんか」と尋ねると、加平は、
「開拓の資金は、村の郷倉に蓄えたものも当てました。その郷倉を富ませたものが、蔵屋敷にあるので、お見せします」と案内した。
蔵屋敷の全面の壁には床から天井まで農業書物が積まれていた。
信郎が読み込んだ「農業全書」全11巻だけでなく、上本条村の水田に適している稲の品種と、塩硝(火薬の原料)を使っての土壌を変える肥料を追求した「久松家農書」と、それに基づいた農事についての日々の記録で、文禄から160余年、一日も欠かさずに書かれた「久松家の農業日誌」に、天候や土壌、水の状況、作業の細目や、その結果等について細大漏らさず資料として残されておりますと、加平が説明した。
ここまで聞いたからには、「久松家農書」がどれほどの収量の増大につながるのかを知りたい。それが、村独自の干拓を可能にするほどの蓄えをもたらすものかも、はっきりさせたいと思い、信郎は、「書物に記述されている効き目はどうなのでしょう」と訊ねる。
加平は、「この先の話になりますと、検地の見直しということにもなりかねません。後は、村のどこを、どのように見られても結構です。あとは、笹森様ご自身でお調べください」と言った。
次の「第三章」に続く