T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「岩倉具視」を読み終えて!

2011-03-15 14:22:47 | 読書

 永井路子の当作品は、著者が直木賞受賞直後から40数年あたためていたもので、毎日芸術賞受賞作品です。

 徳川幕府は、譜代には権力を、外様には富を、御三家などの一門には血の優位性を、そして、天皇に権威をといった仕組みで二世紀半を持ちこたえた。しかし、黒船来航後、権力も弱まってきた。

 同時代は、有力藩主の絡みで公家社会の中も権力争いがひどくなり、その権力が幕府の権力にも口出しする方向に推移していった。

 そのような時代の中で、大変な野心家であったともいわれている小公家の岩倉具視は、公家社会の中で権力を求め、その考え方、行動も紆余曲折し、薩長に利用されたり、利用したりして、明治維新に貢献したが、主役的には、具視の野心の弊害でもあり、怨念でもあった摂関制度の廃止だけにとどまった様にも思える。

 以下、本文の中から、具視に直接関連する部分だけを抽出記述する。

貧弱な構図

 品川弥次郎は、洛北の具視隠棲の地に、大久保利通に案内されて、具視に会ったときの感想は、ふてぶてしい面構え、刺すような眼光、一癖も二癖もありげだが、いかにも貧相な小男で、人柄がせせこましく、お公家さまといった品格は無いと感じた。

 が、矮躯の男はよく喋り、国家改革案を語りだすと止まらず、理路整然、しかも計画実行のための具体案の綿密さに敬服したという。

 しかし、弁が立つが、家格の低さに不安が感じたようだ。この時代においても平安朝以来の家筋があり厳然たる家格がある公家の中で、具視は久我家の庶流の百五十石の下級の小公家にすぎない。公家社会をひっくり返すほどの力があるとも思われなかった。

虚妄の世界

 具視が首を擡げ始めたのは孝明天皇が即位してからで、狙ったのは、孝明天皇の後ろ盾として公家社会に睨みを利かせている摂政・鷹司政通である。

 政通の妹の仁孝天皇の正妃・藤原祺子に仕えていた具視の伯母・洗子のつてで、政通の歌道の弟子として入門した。具視はすでに29歳になっていた。

 1852年に具視の実妹が孝明天皇の側近に出仕し、54年、具視も天皇の侍従になった。直ぐ侍従兼任のまま秘書役の近習に任じられた。具視の侍従就任には、具視の実姉の夫・中御門経之の力もあった。

 同じように、大久保も国父と呼ばれた島津久光にすり寄った。大久保は、久光が薩摩の実権を握ることを早くから見越して、久光の囲碁仲間の住職・真海に弟子入りした。

 しかし、政通も久光も明治維新後に、大久保や具視による摂関制度廃止、廃藩置県で表舞台から引き下ろされている。

手入れの風景

 ここでいう「手入」は贈賄のことである。

 老中・堀田正睦は天皇の権威を将軍継嗣問題や外交問題に利用しようとして、関白・九条尚忠に手入の的を絞った。的の絞り方が間違っていたのだ。

 特旨で太閤となっていた前関白の鷹司政通の反対にあい、政通、久我建通一派は幕府の意向に反対した。その使い走りが具視と同僚公家の大原重徳で、88人の公家が九条案に反対した。具視の政界デビューである。

 この後で、具視は「神州萬歳堅策」を天皇に提出するために纏めている。内容は、開国も可、徳川家は長久に、公家政権も紙幣発行をといったものだ。

奔馬

 この奔馬とは慶喜の実父の徳川斉昭。そこへ癖馬の井伊直弼が行方を遮った。

 具視の政治感覚はこの時期、磨きがかけられていた。公家社会への直弼の強権弾圧の予兆を読み取り、伏見奉行・内藤正縄に接触し、所司代・酒井忠義に会って、我々は佐幕派、天皇は公武合体をお望みだと告げる。

 しかし、井伊の意を受けて、老中の間部は公家への弾圧を始めた。具視はこの時点での力のなさを思い知らされた。

皇女・皇女

 大老・井伊は弾圧と公武合体を同時進行で進めていた。皇女降嫁について所司代・酒井は井伊の意を受けて関白などに打診していた。

 具視も同じ時期に、天皇の意を受けて情報や意見を上奏していたようである。

 井伊が桜田門外で暗殺され、和宮の結婚問題は慌しく進められて纏まり、具視は副使として和宮に付添って江戸へ向った。天皇の勅旨は具視から伝えられたといわれ、具視は実質正使の行動であったようだ。具視は政治の表舞台に主役として登場したことになる。

 和宮が最後まで拒否したときは、孝明天皇は、具視の妹に産ませた皇女・寿万宮では如何にやと言われたとも伝えられている。

奈落

 長州への対抗意識から、薩摩は久光を売り込むために、縁続きの近衛家は幕府から忌まれて慎み中でもあったので、大久保は具視に接触してきて、具視と久光の対面を果たし、京を過激派から警護したいとして久光は上京を果たした。

 具視は、幕府との仲が大事だとしても、幕府に対する天皇の発言力だけが増せばと思っていたので、同じ公武合体策をとる薩摩だが、全面的に協力しなかった。

 それで、幕府組織の改革についての薩摩の献策による勅諚を持って、久光が同行した勅使にも具視は同行を断った。

 この後、長州は藩内の過激派が勢力を盛り返し、公家政府を動かして幕府に攘夷を迫った。長州を後ろ盾にした三条実美ら13人の連署で、佐幕派の具視は蟄居させられた。

 公家社会は、近衛忠熙が関白に返り咲き、九条尚忠が退任し、九条に繋がる久我建通も職から外され、具視の妹の紀子も追放されていた。

 久光も公家社会の変転振りに唖然として薩摩に帰る。

姦物の時間

 公家社会の権力闘争はより複雑で、仁孝天皇の養子であった中川宮がクーデタ計画を起こし、会津・薩摩の藩兵を使って長州勢と三条実美らを京から追放した。

 具視は京を追われて五年間身を隠していたが、実美らが追放されても、中川宮は具視だけはその追放解除を許さなかった。

 しかし、具視は宮中の事務を扱う非蔵人の松尾相永などとのパイプを作り、松尾が薩摩の神官の藤井良節、井上石見兄弟を紹介し、そこから大久保や小松帯刀にすり寄っていった。

 この間、具視は沢山の意見書を書いていて、配布していたようだが、その中に、すでに、薩長連合や王政復古に似たことも述べられていたようだ。

情報の虚実

 具視は薩摩の藤井らに頻繁に書簡を送っているが、幕府の長州征伐ついて「今度の合戦で幕府が勝って付けあがっても困る。さりとて長州が勝って、またもや威張りだすのも困る。だから薩長が手を組んで公家側の味方になって欲しい」と、言っている。

 具視の政治的直感は鋭いものがあったようだが、情報の把握も優れていたようだ。

 薩摩は様々な情報を撒き散らすので、薩摩の言う事は解からないと多くの人が言っているが、これについて、具視は「薩摩は元来倒幕が心底にあるが、長州に提灯持ちをさせている」と明言している。

 また、具視は将軍・家茂の上京、異艦9隻の兵庫沖着船、条約が勅許されたこと、隠されていた家茂の死去などを薩摩や公家の仲間から知らされていた。

毒殺・そして「壁」の光景

 慶応2年12月、孝明天皇崩御。具視による毒殺の噂が流れたが、天皇あっての具視であり、それはありえないことだ。

 天皇を囲む「壁」の中川宮らは、天皇が亡くなったので、具視には天皇側近に返り咲く力は無くなったとして、翌年3月、彼の追放を解除した。

その日まで

 具視はその後の二三カ月の間に坂本龍馬と中慎太郎にも会っていて、世の中の変化、例えば、薩土が幕閣に割り込もうと謀っていたことから、幕政の枠組みを破壊しようとしている気配を感じていた。

 その頃、都落ちしていた三条実美は、幕府の命で長州から引き離されて太宰府にいた。

 中岡はその実美に密着していて、具視を追放した張本人の実美だが、実美と具視の仲を回復させた。

 具視の真の目標は、家格だけが重んじられる公家社会の改革にあったのだが、幕政の改革に隠れて無力化する公家社会を怖れていた。

 具視は、明治天皇の外祖父の中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之を仲間に入れて、摂政・二条斉敬の「壁」を打倒するため、「天皇の権威」をネタにこのグループと薩摩の大久保と結びついた。

 薩摩は倒幕の決意を固めており、具視は天皇の壁の爆破の秘策を練り始めていた。

 慶応3年10月13日、薩長は「倒幕の密勅」を手に入れたが、当日、慶喜は大政奉還をした。しかし、権力と富を持った上様は残っており、天皇の壁の公家と徳川家との連立政権に変わりは無かった。

 同年12月8日、具視の計画で、中川宮、二条摂政、慶喜のいない席で、幕府の廃止と具視が狙っていた摂関制度の廃止が決定された。

 権威の象徴である錦の御旗を考案したのは具視だといわれている。

 王政復古後の支配体制の中に公家が6名入っていたが、その後の主導権争いで、薩長が残り、夫々を代表する実美と具視の二人になった。

 

 

    

 

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