「概要」
直木賞受賞作家・池井戸潤作品の短編6編を収録したミステリー小説。
「銀行に勤める男たちが、長いサラリーマン人生の中で出会う様々な困難と悲哀。六つの短編で綴る文庫オリジナル作品。(解説者記載文より)」
表題作は「池上信用金庫に勤める小倉太郎。その取引先・松田かばんの社長が急逝した。残された二人の兄弟。会社を手伝っていた次男に生前、相続を放棄しろと語り、遺言には会社の株すべてを大手銀行に勤めていた長男に譲ると書かれていた。乗り込んできた長男と対峙する小倉太郎。父の想いはどこに?(裏表紙より)」
「感想」
各々50ページ足らずの短編だが、いずれも中身は実に濃密。それなのに、途中で止められずに一気に読みたくなり、しかも、平易にスラスラ読める作品だった。その上、経済的知識(銀行業務)も与えてくれた。
[ 十年目のクリスマス ]
「登場人物」
永島慎司 主人公。
東京第一銀行長島支店融資課課員。
10年経った今は融資部調査役。
政岡秀次 東京第一銀行長島支店支店長。
神室彦一 準主人公。
精密機械の部品製造会社・神室電機の社長。倒産する。
10年経った今は新会社のオーナー。
「あらすじ」
妻のお伴をして、クリスマスを半月後に控えた新宿のデパートに来た銀行員の永島慎司は、10年前、銀行の取引先だった神室電機の社長、神室彦一を見かけた。
その当時、神室電機は不渡りを出し、その上、火災事故を起こし、倒産したのだ。
何やら極めて羽振りのよさそうな神室の姿を見て、永島は思った。あのとき一文無しで路頭に迷ったはずの神室に、この10年間で何が起こったのか、と。
そう思った永島の胸に、10年ほど前の出来事が甦った。
神室は、長島支店融資担当の永島に、仕入れ代金の決済に必要なので、3千万円の融資をしてくれといってきた。
2ヶ月前にも5千万円の融資をしたばかりで、それも銀行内で簡単に承認されたわけではなかった。そんなことから検討させてくれと持ち帰った。
当時、神室電機の売上は、ピーク時の3分の2の20億円に減収していた。減少の背景は、主要取引先が相次いで製造拠点をアジアへ移設したことと、バブル末期に導入した新設設備の殆どが過剰投資になっていることだ。
新設設備に要した金額5億円で、金利負担と毎月1千万円もの返済負担を追っていた。しかし、そこには神室一人の責任でない事情もあった。その後の運転資金融資も保証するからという支店長の無理強いもあったのだ。
その政岡支店長は、永島が持ち帰った神室の案件に、自分には何も責任が無かったように、厳しい表情で、まずいなーと呟いて、「これは貸すか貸さないかというより、債権回収に走るべきかどうかということを考えほうがよさそうな話じゃないか、永島君」と言った。永島は慌てて前向きの検討を主張したが、支店長から、担保評価の洗い直しをして、裸(倒産したときの損失として見込まれる金額)がいくらになるか提出してくれと言われた。
担保評価を専門とする子会社からの回答書を基に計算したところ、評価額が3割減で裸は3億円になり、永島のその報告に、政岡は、何とか支援して実損は避けたいとする自己保身の一時逃れの融資の稟議を書くことを命じた。
永島は、「これからオレが書く稟議で神室電機の人たちの人生が決まる。オレの稟議でーー。頭の芯が痺れるような重圧の中で、こめかみ辺りの血管がひくつくのを感じた。だが、やるしかない。もし神室を救えるとしたら、この稟議だけだ」と思って稟議書を書きながら、長島支店に赴任した2年前に土地勘の全くないところでの勤務に助けてもらった神室のことを思い出していた。
翌日、永島が提出した稟議書は、支店長を通じて本部へ発送された。そして、本部からの結果は、単なる問題先送りだとして、融資見送りとなった。
永島は、課長に伴って神室に出向き、本部からの見送り回答を伝えた。
神室はやむを得ないのかなと言いながら、彼がいま感じていることを話してくれた。
「今まで25年間、がむしゃらに会社を経営してきたが、失敗してきたことがある。それは"出口"を考えていなかったことだ。いま私がこの会社を畳もうとして、資産の全てを売りつくしても、なお借金の半分も消えない。止めるに止められず、かといって継続することもできない。出口のない迷路を永遠に彷徨っている気分だよ。こんな風になってしまう前に、もっと早く気付くべきだった」
融資課長は永島に、業績や資金繰りにこれ以上の進展はないだろう。俺たちがすべきことは債権回収だといった。
不幸というものは重なるものか、その数日後、神室電機の倉庫を全焼、工場の一部も焼失した。この火事による神室電機の被害は、約4億円で、そのうちの半分は、まだ仕入れの代金も未払いの商品だったという。
神室電機は主要取引先からの発注求められ、もはや操業不可能な状態になり、裁判所に破産申し立てを行い、約8億円の負債を追って倒産した。
神室個人も破産宣告を受けたことは、後日、代理人となった弁護士からの通知で知った。
その過去と、いま高級ブランドの店から意気揚々と引き揚げてくる男の姿とはどうしても一致しない。しかし、間違いなく神室本人だ。
永島は妻に待っているように伝えて、駐車場に向かう神室の後を追った。
神室はある一台の車の近くで遠隔キーを操作した。黒のジャガーのハザードランプが光って応えた。永島はその車のナンバーをメモフォルダーに記録した。
永島も今は本店融資部の調査役として、債権回収のプロとして一目置かれる存在となっていた。
翌日、永島は外出したついでに足を伸ばし、大井の陸運局へ出向いて、神室が乗ったジャガーのナンバーを検索した。京浜エレクトロンという会社名義になっていた。
銀行に戻った永島は、信用照会システムで検索すると、資本金1億円、無借金の優良IT企業、社長は横山孝弘とあり、株式の所有割合90%の筆頭株主は神室彦一となっていた。
破産したはずの神室には、到底出せるはずのない金である。
永島は書庫に出向き、10年前の神室電機のクレジットファイルを引っ張り出してきた。
気になってくるのは、「在庫」だった。在庫は、中小零細企業の粉飾の温床ともいえる勘定科目である。在庫を多目に計上すると利益計算上はプラスになるため、赤字になりそうなときに、架空在庫を計上して黒字にするのだ。だが、最後2年の神室電機は、架空在庫で利益が嵩上げされていたとしてもなお、大赤字だった。
別のスキーム(陰謀)があるのではないかと、費用明細を見ると、「コンサルティング料、(株)スクランブル」へ計上された金額は高額で10年ほど前から継続されていることがわかり、当該会社を検索すると保険代理業となっていた。
数日後、永島はタクシーで京阪エレクトロンの本社ビルに行くと、神室はジャガーに乗り込んで外出するところだった。
永島は神室と対峙したらなんと話を切り出すべきか、ずっと考えていた。結論が出ないまま、いまというときを迎えている。
バンカーとして言うべきことがあるはずだ。「あなたは、架空在庫に巨額の火災保険をかけて保険を受け取った。あれはあなたの放火だったんじゃないんですか。そうやって、あなたは、すでに"出口"を作っていたのだ。痛んだ中小企業という袋小路から、再生への非常口を。違いますか、神室さん」
だが、その言葉は、結局、永島の口から出ることがないまま飲みこまれた。
幼稚園の前で停まったジャガーから出てきた神室は、走ってきた幼児を高々と抱き上げていたのだ。
二人の笑顔の前に、バンカーとして言うべきと思っていた言葉は色褪せていき、この10年来、腹の底でわだかまってきたものを温かく溶かし始めるのがわかった。そして、代わりに出てきた言葉は、「よかった」という心の奥底からの言葉だった。
永島の心温まる行動に感激。支店長の保身だけの生き方、神室の悪賢いが、力強い生き方、これらの人は確かにいるよねと再確認した。
(次章に続く)