T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「蜩の記」を読み終えて!ー4/4ー

2012-05-05 18:09:02 | 読書

014


 

ー親友・源吉の死ー

 原市之進が、家老の使いで、お美代の方様の御由緒書を渡せと言ってきたが、秋谷は無いと言うと、百姓を煽動して一揆を企てていると申し立てがあるので、郡方目付に調べさせる、そうすれば村の者も引っくくれるし、戸田殿を恨むだろうと言う。

 源吉の父の万治が矢野啓四郎を殺めたとの噂からきつい取調べがあるだろうと、郁太郎が知らせに行く。源吉は万治を逃す。

 逃げた万治の代わりに、死を命じたのは秋谷だろうと源吉が取り調べられ、三日目の夜に凄惨な拷問を続いて受け殺された。

 

 郁太郎は、源吉の死に顔を見て、妹に悲しい思いをさせたくなく命の際まで笑い顔を見せてと、号泣する。

 

 

 郁太郎は父に源吉を死なせた咎は誰にあると問う。父・秋谷は家老がお美代の方様に関わる秘密を守り抜こうとすることにあると言う。

 その夜、郁太郎はしっかりした足取りで我が家を後にした。秋谷に許しを得た庄三郎がその後を追う。

 

ー源吉への仇討ー

 源吉が拷問を受けて死ななければならないのは納得できない。すべてを命じた御家老が源吉の死を知らないままでいるのは許されないので、御家老に一太刀浴びせたいと言う郁太郎。

 見届けるために道案内をするのだと言う庄三郎。

 

 家老の面前で、郁太郎は、親友の源吉は郡方目付の厳しい調べを受けて体中に鞭打たれた痣を無残に残し命を落とした。源吉は、私の父を巡る藩内の確執から死に至らされたものなのに、御家老がご存じないのは許せない。領民が酷い目に遭ったことを、領地の村を治める御家老として知らないとは許せないと、脇差の鯉口に指をかけた。庄三郎が助勢に入る。

 

 家老は若者と斬り合いをしたという不面目は避けたく、源吉の家族も磔に致すぞと卑怯な言葉を発した。

 庄三郎は、郁太郎殿、見事。御家老は武士にあるまじき言葉を吐かれた。これは生涯消せぬ恥辱となろう。源吉のため間違いなく一太刀浴びせることができましたと言った。そして、庄三郎に続いて郁太郎も刀を前に置いた。

 庄三郎と郁太郎は座敷牢に閉じ込められた。

 

 牢の中の庄三郎は、刃傷事件の直後はひたすら生きたいと願ったが、戸田殿に接して今は考えが変わったことを知り、

「人は心の目指すところに向かって生きているのだ、と思うようになった。心の向うところが志であり、それが果たされるのであれば、命を絶たれることも恐ろしくない。」

そう思いつつ、庄三郎は薫の顔を脳裏に浮かべた。

 戸田殿ならば、そんな情を抱く気持ちも分かってくれるだろう。

 戸田殿は人を大切に思う気持ちを持った武士だ。だからこそ、私はあの人を信じることができるのだと、満ち足りた思いでいると気付いて庄三郎は頬を緩め、笑って死ぬと言うのは、こういうことなのかもしれないと思った。

 

ー秋谷の鉄拳ー

 家老は信吾を呼び寄せ、秋谷に、法性院御由緒書を渡せば、息子と庄三郎を返し、家譜を纏め終えたならば、その功に免じて切腹の儀を取りやめと致すよう殿に願い出ようと申し渡せと命じた。

 秋谷は、家老は策略の多い人だから、息子らを取り戻し今後も手を出させぬ方策として他に手立てはないと、自分から出かけることにし、側で、幽閉を破り城下に参るのはと止める織江に向かって、そなたにとっても何物にも代えがたい大切な息子だろう、その息子を取り戻しに参るのだと、信吾の馬を借りて家老屋敷に出向く。

 家老の前に出た秋谷は、側の郁太郎に友のためになさねばならぬと思い定めたことを遣ったことは武士として立派な振る舞いだ、私はそなたを誇りに思うぞと優しく言った。

 秋谷が、家老は信じられぬ方ゆえ、御由緒書を持って息子たちを引き取りに来たと言うと、家老は、とうとう儂の前に跪いたと思うと小気味よいと嗤った。

 秋谷は、それは只の紙切れ同然のものだ、御由緒書は慶仙和尚に寺の記録として記すよう頼んだ、家譜を抹消しても長久寺の記録には、家老といえども手をつけることは許されまいと言う。

 

 そして、私は我が命を伸ばすために、御由緒書という藩の大事を使うては武士の誇りが廃れると言い、御由緒書を渡したからには、それがしはもはや死人同然なので許せと、家老の顔を殴りつけ、

「源吉たち領民が受けた痛みを我が痛みとせねば家老は務まりますまい。」

と言って、三人で家老屋敷を後にした。

 

ー秋谷の最後ー

 秋谷が切腹する八月を前に五月に庄三郎と薫は祝言を挙げた。宴がたけなわな頃、戸を叩く音がして庄三郎が出ていくと、村民がお祝いの品を入れた竹籠を持って立っていた。

 七月には烏帽子親は庄三郎が務め郁太郎の元服の儀が行われた。

 郁太郎の元服を終えてほどなく三浦家譜の清書を仕上げた。お美代の方様の出自は、尾張徳川家に仕えた後、牢人となった秋戸龍斉の息女であるとのみ記された。

 十年前、お由の方様が江戸の下屋敷で襲われた一件は、「御側室ニ不意ノ教示アリ、江戸屋敷用人戸田順右衛門罰セラル」と簡略に記録した。

 秋谷は蜩の記に一行記し、それ以外の感慨は書かなかった。

 翌日、藩が家譜を改竄することを見越して、原本を長久寺に預けるつもりで持参した。

 秋谷が未練はないと言うと、慶仙和尚は、「未練がないとは、この世に残る者の心を気遣ってはおらぬと言っているのに等しい。この世をいとおしい、去りとうないと思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう」と言って、そなたの未練は他にもありそうじゃなと茶室に誘う。

 松吟尼が秋谷の膝前に茶碗を置いた手がわずかに震えた。「心が乱れ、お恥ずかしゅうございます」と言う。

 その後、二人の間に次のような言葉が交わされた。

 討手を逃れて一夜を過ごした折、秋谷殿は若かりし頃の自分のいとおしむ想いから、私をお助けくだされたとおっしゃいました。その後何も言わずに朝を迎えたことが悔やまれます。

 

 あの折、このまま秋谷殿とどこか遠くへ参ることができたらと思っていました。

 「もしも違う道を歩めば、かように悲しいお別れをせずにすんだのやしれませぬ。今生のお別れが辛ろうございます。」

 「かように松吟尼様とお会いいたしておりますと、それがしも、この世が名残惜しゅうなります。」

 

 八月八日、検分役が来る昼まで、夫婦だけの座敷の中で、「よき夫婦であった。よき縁をいただきました。」と最後の会話をして過ごした。

 

 不意に蜩が一斉に鳴き始めた。郁太郎は、父親が従容として最期を迎えるさまが脳裏に浮かび、この瞬間、命を絶ったのだと、胸にきりりと痛みを感じて空を見上げた。

 

 家譜編纂の功により、ともに相応の禄を戴いた庄三郎と郁太郎は、藩のため、家老を追い落とすことの協力を誓った。そして、郁太郎は力強くうなずいて「義兄上(あにうえ)」と呼びかけた。

 

                      以上

 

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「蜩の記」を読み終えて!ー3/4ー

2012-05-05 17:08:59 | 読書

006


ー松吟尼の願いー

 庄三郎が秋元のもとに行って一年。庄三郎は、特別な知らせが無いからと、家老から呼び出されて叱責を受けた。

 庄三郎が、秋谷は「蜩の記」を記していて、「松吟尼がお許しを受けたことを仄聞す」と書かれていたことを話した。

 庄三郎は、このことによって、もし松吟尼様と遇えれば秋谷を助ける方策が見つかるのではないかと考えたのだ。

 家老から、秋谷幽閉後の松吟尼様との繋がりを調べろとの命を受けて、庄三郎は光明院を訪ねる。

 松吟尼様が、順慶院様は、江戸下屋敷を出て共に過ごした一晩の事をありていに申すなら許すつもりだと仰せでございましたと言う。そして、4年前にこのことを長久寺で秋谷殿にお会いしして伝えましたとも言う。

 沈黙が流れ、庄三郎は、松吟尼様は昔戸田様の実家におられたと耳にしましたがと言うと、その後を受けて、桜が咲き誇っていた川の土手でお話をしたことがあるが何故と聞かれ、慶仙和尚が戸田様は一人の女子のために死ぬつもりかもしれぬと言われたのが気にかかったものでと答えた。

 松吟尼は目を閉じて下屋敷を出て呉服屋で一夜を過ごしたことを思い出した。

 

 秋谷様が若かった頃の自分をいとおしむ思いでやっていることであればと言われて、私も、あの頃の私をいとおしく思いますと、かろうじて言葉を返したことを。

 

 別れに際して、秋谷殿をお助けくださいませと松吟尼は頭を下げた。

 

ー主君の疑心ー

 庄三郎が、何故、戸田様は弁明されなかったのだと問うと、藩主からあらためて直接私にご下問はなかったし、それよりも、自分を信じてくれているはずと思っている相手から疑われた場合でも弁明するかと言われ、庄三郎は自分も確かに弁明しないかもと思った。

 

 「忠義とは、主君が家臣を信じればこそ尽くせるものだ。主君が疑心を持っておられれば家臣は忠節の尽くしようがない。疑いは疑う心があって生じるものだ。弁明しても心を変えることはできない。心を変えることができるのは心を持ってだけだ。」

と秋谷は言う。

 

 その後、秋谷から、お由の方様が襲われた一件を話しておこうと、次の事を聞かされた。

 馬廻役の赤座与兵衛は賄賂を取る事で有名だったが、自分のままにならぬ私に嫌がらせをするつもりで、実家の女中であったお由の方様と私の間柄を邪推して、お由の方様を自分の養女にして藩主の側室とし、自分の勢力を広めようとしたが、家老たちのお美代の方派に勝てず、お由の方様暗殺を手土産にお美代の方派に寝返るつもりが失敗した。そして、藩主が逝去されると、その後を追ったようにして切腹したが、藩から特別の扱いも一切されず、なぜ腹を切ったかは不明であり、哀れな人だと。

 

 

ー法性院御由緒書ー

 庄三郎は松吟尼様から長久寺で待つとの手紙を受け取り出かけた。

 松吟尼様から、理由は分からないが、法性院様御由緒書を赤座与兵衛から預かってくれと送られてきていたと差し出された。

 庄三郎は、松吟尼様に預けたということは、正室になられたお美代の方様にとって都合の悪いものであったということかとも思われたので、開いて読むと、法性院は尾張徳川家に茶頭として仕えた後、牢人となった秋戸龍斉の息女と記載されていた。

 松吟尼様は、この御由緒書には御家の秘密が隠されているのではないかと思え始め、切腹の沙汰を許されていない秋谷殿をお助けする役に立たないかと思っていると言う。

 秋谷は庄三郎と共に書斎の文書等から秋戸龍斉の名を記した文書を調べ始めた。

 三浦氏の支族に秋戸姓を名乗った者もいたが、時代が合わない。三浦秀治の子孫の西光院様は号を龍斉といっていたが、実家との書状等の記録が何もなく不審な点が残る。これらとは別に、お美代の方様との関わりの中に福岡藩の住田五郎兵衛との記録あり弔問の使いを出していることが分かった。

 この後、父・秋谷と庄三郎の言動に注意していて、父を助けたいと思っている様子が何時もうかがえる薫に、庄三郎は、必ず戸田様をお救いできる道を探し当てますと口にした。そして、薫さまを生涯お守りしたいと思っているとも告げた。

 十数日後、二年前に庄三郎と刃傷沙汰を起こした親友の水上信吾が訪ねてきて、福岡藩に行く途中だとのことだった。

 庄三郎は、秋谷の武士の生き方に感じ入っていて、どうしても戸田様を助けたいと思っていると法性院様御由緒書の件を話し、秋谷の許しを得て、調査を信吾に依頼した。

 

ー農民の苦情と役人の死亡ー

 秋谷は、生暖かい秋には大風が吹き雨が続くことがあるので、稲刈りを早めるように指示してはどうかと知合いの郡方の下役に手紙を書いた。

 数日後に、源兵衛たちが秋谷の家に来て、家老の声がかりの新任の郡方役人・矢野啓四郎が稲の早刈りを許してくれないと苦衷を伝えた。

 秋谷は啓四郎や農民が集まっている庄屋屋敷に行き、昔同様な事象があって、役人が年貢が集まらない責任を感じて自害したという世間話をしてその場をしのぎ、啓四郎の勝手にしろとの言葉で早目の稲刈りができた。

 その後、数か月後に村は風水害の被害を受けた。その被害調べに来た啓四郎は、庄屋屋敷を出た後、鎮守の森の林の中で鎖分銅が首に巻き付き木に吊るされていた。

 

ー御由緒書の解明ー

 信吾が福岡から帰ってきて、お美代の方様の出自の件を知らせてくれた。

 先代の御用商人・播磨屋作左衛門が資金を用立てる替わりに名字帯刀を許されて住田五郎衛門と名乗っていた。

 秋谷は、家老は播磨屋と組んで自分の勢力を伸ばすため、この五郎衛門の娘を側室に上げたいが、商人の娘では難しいので、一旦西光院様の養女にして、さらに御由緒書では、父の名を秋戸龍斉と血筋を偽ったのではないかと推測した。

 そして、秋谷は家譜を記すようなって気付いたことがあった。

 

 「今現れている出来事の根は昔にある。つまり、全校からは美しい花が咲き、悪行からは腐臭を放つ実が生ると感じた」

と、その悪行とは、弟が藩祖として家督相続したことで、秀治様や家老の先祖の中根様の恨みが残ったことであると言う。

 

 庄三郎は、この御由緒書と引き換えに戸田様の切腹を免じて頂いてはと言うと、自分の身のことで交換はできないと秋谷は言ったが、庄三郎は一家のためにも秋谷を説得せねばと思った。

 

 

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「蜩の記」を読み終えて!ー2/4ー

2012-05-05 10:44:34 | 読書

030


ー戸田秋谷と檀野庄三郎の対面ー

 庄三郎は親友・水上信吾との些細な喧嘩から城内で刃傷沙汰を起こし、喧嘩両成敗の切腹となるところを、信吾が家老・中根兵右衛門の甥であったこともあり、家老の側近で奥祐筆差配の原市之進の計らいで口論沙汰になり、隠居の身にさせられた。そして、家老から、家老の所領の向山村に追放されて、同村にいる幽閉中の秋谷の監視役を命ぜられた。

 家老の言葉によると、中老格用人の秋谷は七年前に江戸屋敷で順慶院様の側室・お由の方と密通し、そのことに気付いた小姓を斬り捨てたが、当時、学問に優れていた秋谷は当家の家譜編纂に取り組んでいたので、順慶院様の御仁慈で10年後に切腹と期限を切って、それまでに家譜編纂を仕上げるように命じられたとのこと。

 庄三郎は、家老から、家譜編纂を通して藩の秘事を知り尽くしている秋谷とその家族の逃亡監視と逃亡時の斬殺、もう一つ、秋谷の不義密通にまつわる一件がどのように編纂されている確かめることを命ぜられた。

 

 庄三郎に、この部屋の隣室で起居されよと言う秋谷には、日々、死に向かって近づいていくというのに、その怯えや不安の様子が微塵も感じられなかった。しかし、秋谷は自分も死を恐れ命が惜しくて眠れぬ夜を過ごすことがあるが、人間はいつか寿命が尽きるものでそれが決まっているだけで日々を大切に過ごすだけだと言う。その声には心から落ち着かせる温もりが感じられた。

 

ー「蜩の記」ー

 秋谷は藩命を受けた翌年には三浦家の由緒書と家老の家に伝わる覚書をもとに家譜の一応の草稿を書きあげた。

 家譜とは、それを裏付ける感状、沙汰書、他家からの書状、茶器の来歴などの証しを藩庁に願い出て書き写したものを添え示して記録したものである。

 秋谷が見せてくれた家譜は五代藩主義兼が逝去するまでの154年間の藩史が12巻にわたって書き記されていた。

 定められた死を覚悟しつつ、日々の努力を積み重ねていくのは、どのような思いだったろうか。自分には、思いも及ばないと言う庄三郎の前に、秋谷は、いかようにして家譜編纂にあたってきたかを記した日記だと「蜩の記」7冊を置き、見てもよいと言う。

 

 「この辺りでは、夏が来るとよく蜩が泣きます。秋の気配が近づくと夏の終わるのを哀しむかのような鳴き声に聞こえる。それがしも、来る日一日を懸命に生きる身の上でござれば、日暮らしの意味合いを込めて名付けました。」

 

 郁太郎は、父親と庄三郎の話を盗み聞きして初めて知った二人の立場に吃驚して外へ飛び出した。庄三郎は申し訳ないことをしたと後を追った。

 郁太郎は、父上は立派な人間だと信じていると言う。庄三郎は、自分も同感だが、自分の刃傷沙汰の実体験も交えて、人はどうしようもないことで罪に問われることがあるのだと話す。

 

ー家譜編纂の覚悟ー

 始めて夕食を共にした庄三郎は、秋谷の家族が懸命に普段と変わらぬ会話をし、父の死が迫っていることを互いに思いやり、しかも来たるべき時を忘れて過ごすしか術はない、そのような日々を送っているのに、自分が暮らしに加わることで、この一家の疫病神として、そのことを突き付けた日々をもたらすと思うと気が重くなるのだった。

 

 そして、秋谷の、妻・織江への心遣いから不義密通なんか全く信じられないと思え、秋谷の罪状は間違いではないか、そんな疑いが湧いてくるのを庄三郎は抑えられなかった。

 

 夕食を終え、庄三郎は、秋谷が差し出した家譜の草稿の一部を読み始めた。

 藩祖三浦兼安は次男だったが、大坂の陣で兄秀兼が戦死し、秀兼の嫡子・千代松の養育を秀忠から命ぜられた。

 元服して秀治と名乗った千代松は家督相続に意欲を燃やし、同調した家老の中根、江戸留守居役が騒動を起こしたことで遠島になり、家老の家禄は70石の軽格となった。秀治は信州松本に一万石の小大名となり、以後三浦家は兼安の子孫が相続している。

 今は逆らう者がいない勢力を持つ家老の祖先が起こした不祥事を記載する三浦家譜を目にすることの恐ろしさに庄三郎は唖然とし、秋谷に訊ねた。

 

 「家譜が作られるとは、そういうことで、都合の良きことも悪きことも遺され、子々孫々に伝えられてこそ指針となり得る。」

と秋谷の言葉は揺るぎない確信を感じさせた。

 

藩の秘事を知った者が他国へ逃げる時は妻子共々斬り捨てよと家老から命じられていた庄三郎は、自分への死刑を申し渡されたと同じで背筋に冷や汗を感じた。

 

ー家譜編纂の方針ー

 秋谷の日常は殆ど変わることはない。山積みとなった書状などを一つ一つ開いて読み調べ終えたところで家譜に記すが、いまだ草稿の段階で暫く時間をおいて本稿とする。庄三郎の役目は清書して綴じ合せていくことだ。

 豊後・羽根に入部して三年後に百姓一揆が起きていた。藩主が在府のため、家老は独断で百姓の願いを一旦認めて、後から首謀者たちを磔などの成敗をしたと記録されていた。

 庄三郎は藩が百姓を騙したやり方に憤りを感じた。

 

 秋谷は、

「先の世では年貢の仕組みも変るかもしれぬ。だから、昔の事績を記して、何が正しく何が間違っていたかを、後世の目で確かめるためだ」

と淡々と語った。

 その剛直な秋谷の背を見て、

「秋谷は、たんに家譜を記しているのではない。御家のためでなく、藩のため領民のために事実を書き残そうとしているのだ。」

と庄三郎は胸を突かれる思いがした。

 

 庄三郎は、秋谷が信頼している長久寺の慶仙和尚を訪ねた。

 慶仙は、秋谷は自ら望んで罪を背負ってたのだ、藩のためかもしれぬが、一人の女子のためであるかもしれぬと言うが、庄三郎には理解できなかった。

 この時期は、お美代の方が産んだ義之が嫡男になっていたが、藩主兼通はお由の方を寵愛し、もしお由の方に男子が産まれたら、義之は廃嫡される可能性もあり、お家騒動の勃発も考えられた。

 

ー妻が知る夫の不義密通事件ー

 秋谷の妻・織江は、お由の方の災いについて知っていることを話し出した。

 お由の方が朝餉の後、急に腹痛を訴えられたので、医師の検分で毒が汁に入っていたことが分かり、秋谷はすぐにお由の方を下屋敷に移した。

 当時、藩主兼通は帰国しており、江戸家老も国元の家老・中根もお美代の方派で、秋谷は三日の間、下屋敷で警護に当たっていたが、三日目の夜、数人の武士に襲われ、秋谷とお由の方は下屋敷を抜け出して一晩商家で過ごし、翌朝、どこも同じと元の上屋敷に入った。

 江戸家老は秋谷が一晩何処かで過ごし不義密通を犯したと座敷牢に押し込めた。秋谷は、藩主兼通の使者が江戸に着き、お由の方の身の安全が守られたことを知り、次の藩主の生母を貶めることにもなる恐れがあることから、釈明せずに黙して罪に服した。

 そして、お由の方は国元に送られ、松吟尼と称して寺に入り、秋谷は向山村に幽閉された。

 庄三郎は、江戸屋敷の者も戸田様が無実だということは分かっておられていた筈なのにと言うと、織江は秋谷が命がけで守ったことに、むしろ順慶院様は疑念を抱かれたのだろうと言う。

 

 後刻、秋谷は庄三郎に織江から事件の事を聞いたらしいが、

「武士は名こそ惜しけれと申すが、名を捨ててかからねばならぬのが、ご奉公というものであろう」

と言った。

 

 その後のお由の方との関わりごとが、蜩の記に「松吟尼様、お許しの事、仄聞す」とあり、ひと月後に「松吟尼様、還俗されぬと仰せになる」に書かれていたが、幽閉の身で、このような事を記述してよいのだろうかと、庄三郎には驚きと疑問が残った。

 

ー村人の一揆の抑え込みー

 庄三郎が土間に入った時に、数人の百姓が来ていて秋谷と話していた百姓の口から出た「辛丑義民」という言葉に秋谷は低い声で叱りつけた。

 秋谷を一揆に担ぎ出そうとしていると慶仙和尚が言ったことを思い出した。

 庄三郎は三浦家譜の草稿を開くと、天明元年に「義民上訴之事」と記されていた。

 複数の重臣が病弱な五代藩主義兼を別荘に押し込め御隠居を企んだが、家老の父の近習・中根大蔵が農民に藩主の窮状を幕府に訴えさせて、それが成功し、家督相続を遅らせた事件とあった。

 今は、秋谷が郡奉行時代と違って、七島莚にも税が掛り、田の年貢が検見法に改めたりと百姓たちには不満が溜まっていて、秋谷に相談していたのだろうが、秋谷は今は状況が違うと叱ったのだろうと庄三郎は推測した。

 数日後、一揆についての近隣三村の話し合いがあることを秋谷は知り、幽閉の身でありながら身の危険を顧みずに、会合の場所近くまで出向き、少し離れた場所から一揆を留めようと大声で熱心に命を大切にしろと諭した。

 庄三郎は、秋谷が己の命の期限を定められても、全く命を永らえたいなどを考えておらず、昔と同じように命を懸けて百姓とかかわっており、自分の生き方を変えていない己を律する厳しさに粛然とした思いだった。

 

 

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