blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

考えるのは未来 PART2

2018-04-15 22:50:37 | 休日
一つ前のエントリーでは、過去を忘れ、一度自分を白紙にして、ひとつしかない体をどう使いどう世の役に立っていくか考えると書いた。
過ぎたことは変えようがなく、変えられるのは未来だけである。
私が男性の平均寿命あたりまで生きるとしても、とうに折り返しは過ぎ、残された時間はそう多くないと感じる。
ひとつしかない体、一度しかない人生、せめて悔いなく、やるだけやったと心から思って終わりを迎えたいと思うと、膨大な自由時間はついついそんなことを頭に描いてしまうことが多くなる。

今から人生の最期まででくくるとなると少し長いので、少し短く、例えば職業人としてはあとどれだけの時間があるだろう。
時代の流れで定年年齢も徐々に上がって、私の世代では65歳定年あたりが当たり前になっているかもしれない。
となると、今後どれだけ長くても職業人としてはあと20年足らずということになる。
中途入社の悲しさ、いくら株価が毎日新聞に載る会社でも月々の実入りはそう大きくない。
毎年一定額の昇給はあっても、手取りはたぶんそれほど変わらない。
がんばって出世すれば少しは変わるが、目立たない地味な仕事で標準を超える評価を得ることは正直難しい。
まして、明確な原因があるとはいっても同じ会社で長期離脱を2回もやってしまったから、この先自分が上の立場に行って応分の実入りを得ることは考えづらくなった。
あと20年近くを尽くして尽くして尽くしたところで、生活水準はほとんど変わらないまま職業人としての時間は終わるのだろう。

職業人としての時間が終われば、もとより蓄えと言えるほどのものもなく、我が国の社会保障制度の枠組みで支給される限られたお金でもってつつましく過ごし、たまの贅沢も半期か年に一度できればいい方か。
何かの拍子で手綱が緩めば、下流老人への転落も非現実の話ではなくなってくる。

あえて夢も希望もないようなことを記してはみたが、これとて勤務先が定年まで倒れないことを前提としている。
我が国を引っ張ってきた大企業であっても、一部門の大失敗により経営がおかしくなる時代にあって、職場が65歳まで存続している確率が100%かと問われるとそれは全く分からないとしか言えない。
もしもの時、もう50近くになった人間を拾ってくれるところはどれだけあるだろうなど、悪い方に考え出せば、際限のない底なし沼のような事態が頭に浮かんできてしまう。

もう年も年と余計なことはせず日々を無難にやり過ごして人生の最期を迎えるか、今からでも周囲の雑音を気にせず自分に正直になって未知の世界を覗いてみるか。
どちらが正解とは言えないし、他人から肯定否定を受けるものでもない。
行動しても行動しなくても同じだと決めつければ、人間は行動しない。
しかし、行動することでせめて「生きた足あと」のようなものを残せるのではないかと考えるならば、人間は動き出せる。
守りに入るのか、攻めを貫くのか、中年と呼ばれる年齢になってからでも変えられる未来などあるのか。
もう人生で数度目にもなる大きなアクシデントを機に、真剣に考える時間を今与えられているのだと思う。

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