スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑰-4&神の存在

2021-02-04 18:56:06 | ポカと妙手etc
 ⑰-3の第2図のような局面では,焦点に合駒をするのが手筋です。なのでたぶん☗5七歩と打つだろうと予想していて,実際にその手が指されました。
                                        
 後手は取るほかありませんが,☖同角成と取ると☗7七玉のときに有効な手がないように思えました。なので☖同龍かなと思っていましたが,やはりそうでした。これに☗7五玉は☖5五龍で詰みですから☗6五玉はこの一手。
 この局面で後手がどう指すのかが分からなかったのですが,☖6四歩と王手をして☗同馬に☖7二桂と打ちました。
                                        
 局面は僕が思っていたように先手がよかったのですが,これがよい粘り方だったようです。

 アルノーAntoine Amauldは,神Deusに対して因果性の原理を適用することは不適切であるといっているのですが,だから神の存在existentiaについて,それをいかなる仕方でも説明することはできないとは考えていません。それについてのアルノーの主張は,平面上に作図された三角形の内角の和が二直角であるということが三角形の本性essentiaに属するのと同じように,無限infinitumであるものが存在することは,その無限である存在者の本性に属するというものです。
 第一部定義一は,その本性のうちにそれ自身の存在が含まれるものcujus essentia involvit existentiamについて,自己原因causam suiであるという定義Definitioを与えています。したがって,アルノーがいっていることは,無限な存在,実際にはアルノーはこういうことで神を念頭に置いていると考えられますから,神は自己原因であると主張しているのだと,スピノザの哲学に慣れている場合には解釈しそうです。よって,アルノーは,神には因果性の原理を適用することができないといいつつ神は自己原因であるといっているのだから,きわめて矛盾したことを主張しているように思えるでしょう。ですが実際にアルノーがここでいっていることは,そういうことではありません。少なくともアルノーがいわんとしていることの主旨については,誤って解釈しているといわなければならないでしょう。神に因果性の原理を適用することはできないということと,神の存在は神の本性に含まれているということは,アルノーの中では両立し得る事柄だったのです。そもそもアルノーは,神に因果性の論理を適用することは不可能だといっているだけではなく,カテルスJohannes Caterusと同じように,自己由来性を積極的に解してはならない,つまり自己原因は起成原因causa efficiensではあり得ないと考えていましたし,因果関係は別個性条件に制約されると考えていたのですから,自己原因という概念notio自体が不条理な概念であったからです。
 これまでの考察の中で,第四論駁のアルノーの主張を解するために最も有益なのは,『スピノザ 力の存在論と生の哲学』の考察の中で,スピノザが第一部定理一一第二の証明において,単に原因とはいわず,原因ないしは理由といういい方を何度も用いているのはなぜかということを探求した部分です。
コメント
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