新潟市で指された昨日の第46期棋王戦五番勝負第三局。
渡辺明棋王の先手で糸谷哲郎八段の横歩取り。序盤で後手に見落としがあったものと思われます。
第1図から後手は☖7四歩と突きましたが,この手は軽率だったかもしれません。
先手は☗7六歩と打ちました。これを☖同飛と取ると☗4五桂と跳ねられ,後手の銀が4二に上がっていることがマイナスに作用します。よって☖8五飛と逃げましたがさらに☗8六歩。飛車を引くとやはり☗4五桂があるので後手は☖1五飛と回り☗1六歩に☖1四飛とぶつけました。
飛車交換になれば☖2九飛の打ち込みがあり,これは3八に先手の金が上がっているのがマイナスに作用します。よって☗2四歩と飛車交換を拒否しました。
これで☗4五桂と,角交換して☗1五歩と突く筋が残り,後手は収拾困難に陥っています。おそらく☗2四歩と飛車交換を拒否する手を後手は見落としていたのだと思います。
渡辺棋王が勝って2勝1敗。第四局は17日に指される予定です。
これで第二部定理四七が実質的に意味していることが何であるかは分かりました。すなわちそれは,人間の精神mens humanaのうちには,延長の属性Extensionis attributumの十全な観念idea adaequataと思惟の属性Cogitationis attributumの十全な観念,とくに延長の属性を観念対象ideatumとした思惟の属性を十全に認識するcognoscereということです。一方,神Deusのうちに神の十全な観念があるといわれる場合には,このことだけを意味しているわけではありません。神の属性は無限に多くあって,その無限に多くのinfinita属性のすべて,さらに加えるならそうした無限に多くの属性を対象とした思惟の属性の十全な観念があるのです。このことは第一部定義六から明らかなのですが,僕が神のうちには神自身の十全な観念があるということを論証したときに援用した,第一部定理一一からなお明らかだといえるでしょう。したがって,第二部定理四七を,人間の精神ではなく神自身に適用した場合にも,神は神の永遠aeterunusで無限な本性essentiaを十全に認識するということになり,事物の本性を十全に認識することとその事物を十全に認識することは同じと考えてよいのですから,人間の精神も神自身も神を十全に認識することになるのですが,人間の精神が十全に認識している神の本性と,神が十全に認識している神自身の本性は異なるのですから,人間の精神のうちにある神の十全な観念と,神のうちにある神自身の十全な観念は異なることになるのです。こういう見方をすることができるので,僕は畠中の区分は畠中の区分で意味があると僕は考えるのです。
ただし,上述のような事情があったとしても,人間の精神が認識する神の十全な観念と,神自身が認識する神の十全な観念が異なると断定してよいのかということについては,僕は躊躇します。というのも,人間の精神が十全に認識している神の観念,すなわち延長の属性と延長の属性を対象とした思惟の属性の十全な観念は,人間の精神のうちにだけあるあるわけではなく,神自身が有する神の十全な観念のうちにも含まれているからです。ですから正確を期するなら,人間の精神が認識する神の十全な観念と神が十全に認識する神の観念は,異なるのではなく,神が有する神の観念の方が広くわたるというべきではないかと思うからです。
渡辺明棋王の先手で糸谷哲郎八段の横歩取り。序盤で後手に見落としがあったものと思われます。
第1図から後手は☖7四歩と突きましたが,この手は軽率だったかもしれません。
先手は☗7六歩と打ちました。これを☖同飛と取ると☗4五桂と跳ねられ,後手の銀が4二に上がっていることがマイナスに作用します。よって☖8五飛と逃げましたがさらに☗8六歩。飛車を引くとやはり☗4五桂があるので後手は☖1五飛と回り☗1六歩に☖1四飛とぶつけました。
飛車交換になれば☖2九飛の打ち込みがあり,これは3八に先手の金が上がっているのがマイナスに作用します。よって☗2四歩と飛車交換を拒否しました。
これで☗4五桂と,角交換して☗1五歩と突く筋が残り,後手は収拾困難に陥っています。おそらく☗2四歩と飛車交換を拒否する手を後手は見落としていたのだと思います。
渡辺棋王が勝って2勝1敗。第四局は17日に指される予定です。
これで第二部定理四七が実質的に意味していることが何であるかは分かりました。すなわちそれは,人間の精神mens humanaのうちには,延長の属性Extensionis attributumの十全な観念idea adaequataと思惟の属性Cogitationis attributumの十全な観念,とくに延長の属性を観念対象ideatumとした思惟の属性を十全に認識するcognoscereということです。一方,神Deusのうちに神の十全な観念があるといわれる場合には,このことだけを意味しているわけではありません。神の属性は無限に多くあって,その無限に多くのinfinita属性のすべて,さらに加えるならそうした無限に多くの属性を対象とした思惟の属性の十全な観念があるのです。このことは第一部定義六から明らかなのですが,僕が神のうちには神自身の十全な観念があるということを論証したときに援用した,第一部定理一一からなお明らかだといえるでしょう。したがって,第二部定理四七を,人間の精神ではなく神自身に適用した場合にも,神は神の永遠aeterunusで無限な本性essentiaを十全に認識するということになり,事物の本性を十全に認識することとその事物を十全に認識することは同じと考えてよいのですから,人間の精神も神自身も神を十全に認識することになるのですが,人間の精神が十全に認識している神の本性と,神が十全に認識している神自身の本性は異なるのですから,人間の精神のうちにある神の十全な観念と,神のうちにある神自身の十全な観念は異なることになるのです。こういう見方をすることができるので,僕は畠中の区分は畠中の区分で意味があると僕は考えるのです。
ただし,上述のような事情があったとしても,人間の精神が認識する神の十全な観念と,神自身が認識する神の十全な観念が異なると断定してよいのかということについては,僕は躊躇します。というのも,人間の精神が十全に認識している神の観念,すなわち延長の属性と延長の属性を対象とした思惟の属性の十全な観念は,人間の精神のうちにだけあるあるわけではなく,神自身が有する神の十全な観念のうちにも含まれているからです。ですから正確を期するなら,人間の精神が認識する神の十全な観念と神が十全に認識する神の観念は,異なるのではなく,神が有する神の観念の方が広くわたるというべきではないかと思うからです。