スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ウィナーズカップ&第一部定理一六の意味

2021-03-30 19:02:38 | 競輪
 28日に松阪競輪場で争われた第5回ウィナーズカップの決勝。並びは高橋-守沢の北日本,深谷-郡司の南関東,古性-稲川の大阪,松浦-清水の中国で山田は単騎。
 郡司がスタートを取って深谷の前受け。3番手に松浦,5番手に山田,6番手に高橋,8番手に古性で周回。残り3周のバックから古性が上昇開始。稲川の後ろに高橋がスイッチ。深谷と古性が並び,内に5人,外に4人の併走に。ホームに入り誘導が退避するタイミングで深谷が引いたので古性が前に。すぐに高橋が動き,バックには高橋が先頭で入りました。打鐘の直前から松浦が発進。高橋が突っ張ると,松浦はうまく守沢をどかして高橋の後ろに。引いた深谷は発進したものの,バックから松浦が発進したために不発。松浦の後ろのまま直線に向いた清水が松浦を差し切って優勝。清水に続いた山田を弾いて直線では松浦と清水の間に進路を取った古性がよく伸びて1車身差の2着。松浦が半車輪差で3着。
 優勝した山口の清水裕友選手は昨年11月の防府記念以来の優勝。ビッグは昨年7月のサマーナイトフェスティバル以来の3勝目。ウィナーズカップは初優勝。このレースは南関東勢と中国勢の争い。深谷はこの開催はいい動きをしていましたが,ここはおそらく天候の影響もあって不発。松浦は流れの中で番手に入ったのであり,当初からの作戦ではなかったと思いますが,うまく立ち回りました。この時点で中国勢が優位になりました。深谷は前受けして引いて捲るというのがほとんどの作戦となっていて,その点では多様性のある中国勢の方が有利に運べるという面もあるのではないかと思います。

 柏葉の論文ではまったく触れられていないのですが,神Deusの属性attributumの中に含まれているとされるもののすべてが,現実的に存在するようになるかどうかを考える際には,注意しておかなければならない観点がほかにもあると僕は考えています。そのことをここで説明しておきます。
                                   
 第一部定理一六では,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じるといわれ,それらのものは無限知性intellectus infinitusによって把握されるすべてのものと等置されています。ただしここでは無限に多くの仕方ということは考慮の外において構いません。つまり,神の本性の必然性からは無限に多くのものが生じ,かつ生じた無限の多くのものは無限知性によって把握されるという点だけに注目します。
 このことは,どのようなものであっても生じるし,どのようなものも無限知性のうちに客観的有esse objectivumすなわち観念ideaとしてあるということを意味するわけではありません。なぜなら,これら無限に多くのものは,神の本性の必然性から生じるのですから,神の本性の必然性に則しているのであれば生じかつ観念としてもあるということになりますが,神の本性の必然性から外れているのであれば,生じることもないし観念として存在することもない,つまりあることも考えるconcipereこともできないといわなければならないからです。
 このような意味において,スピノザの哲学では必然と不可能が反対概念を構成することになります。つまり,神の本性の必然性に則しているならそのことは必然的にnecessario生じますが,神の本性の必然性から外れているなら,そうしたことが生じるということは不可能です。そしてこのことは,当然ながらあるものが現実的に存在しまた作用するという場合に成立するというわけではなく,ものが神の属性に包容されている限りで存在するといわれる場合にも成立しなければなりません。ですから,たとえば現実的に存在することが不可能であるといわれ得るもの,他面からいえば僕たちの精神mensによってそれが現実的に存在することが不可能であると十全に認識できるような事物については,それが神の属性に包容される限りで存在するということもないと確定することができるのです。
コメント
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