スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&区分の意義

2021-03-05 18:53:00 | 将棋
 1日と2日に吉野ケ里温泉で指された第70期王将戦七番勝負第五局。
 渡辺明王将の先手で角換り。先手は銀をとどめたまま桂馬で攻め,後手が早繰り銀で対抗するという戦型。感想戦でもありましたし,本人のブログにもありますが,先手は78手目の後手が桂馬を打った手を軽視していたようです。実戦はそこから先手が攻め合いに出ていいところなく負けましたので,受ける手はないか模索してみました。
 先手は壁銀が祟っていますので,☗7六飛~☗7七銀としたいところです。ただこの局面ですぐに☗7六飛では☖4七成香から攻められてすぐに負けそうなので,先に☗7九王としておくのが,受けるのなら最善だと思います。
                                        
 これに対しても☖4七成香でしょうが☗6八金右と逃げることができます。後手は馬を使いたいのでおそらく☖4六馬。☗7六飛とするならこの局面しかなさそう。これに対して☖5七成香なら☗4六飛で先手もやれそうです。なので☖5七馬と突っ込む方が後手はよさそうです。
                                        
 ここで☗同金☖同成香はやはり後手が攻めきれそう。しかし駒を使って受けるのでは先手に勝ち目はなさそうです。よって受ける手でも先手はうまくいかず,桂馬を打たれた時点で先手は大きなリードを許してしまったということになりそうです。
 永瀬王座が勝って2勝3敗。第六局は13日と14日に指される予定です。

 第一部定義六でいわれている神Deum,無限に多くの属性infinitis attributisによって本性essentiamを構成されている神を観念対象ideatumとした十全な観念idea adaequataが,神のうちにあります。これと同じ観念が,人間の精神mens humanaのうちにあるかといえば,そうともいいきれない面が残ります。僕が現実的に存在する人間の精神のうちに神の十全な観念があるといわれるとき,このことの意味は限定的ではないかという理由がそこにあります。
 概要としていえば,第二部公理五の意味から,人間の精神が認識するcognoscereことができる属性は,無限に多くの属性のうち,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumのふたつだけです。これらふたつの属性は,属性である限り,第一部定義四によって,絶対に無限な実体substantiaである神の本性を構成します。そしてある事物の本性を十全に認識することと,その事物を十全に認識することは,同じであるとみなしてよいのですから,確かに延長の属性なり思惟の属性なりを人間の精神が十全に認識するとき,その人間は神の本性を十全に認識しているのであって,同じことですが神を十全に認識しているといっていいでしょう。しかし神のうちにある神の十全な観念は,延長の属性と思惟の属性だけによって本性を構成されている神の観念idea Deiであるいうわけではなく,それ以外にも無限に多くの属性によってその本性を構成されている神の観念であると考えられます。ですから,人間の精神のうちに神の十全な観念があるといわれる場合の神の観念と,神のうちに神自身の十全な観念があるといわれる場合とでは,観念対象である神を同一であるとはみることができないという面があるのです。そしてこのゆえに,畠中の区分,つまり神のうちにある神の観念と,人間の精神のうちにある神の観念という区分は,意味がある区分ではないかと僕には思えるのです。
 このことは,人間が神の永遠aeterunusで無限な本性を十全に認識することを示した第二部定理四七が,どのように論証されているのかということからもいえるのではないかと僕は考えます。この定理Propositioは,直前の第二部定理四五第二部定理四六を援用することで証明されます。詳しい論証Demonstratioは別の機会に示すことにして,ここではこのふたつの定理が必要とされる点に着目します。
コメント
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