「バラ色の未来」が収録されているのは「LOVE OR NOTHING」というアルバムです。この中では「風にならないか」と「ひまわり“SUNWARD”」という楽曲をかつて紹介しました。このアルバムには11曲が収録されています。そのうち「流星」という楽曲もかつて紹介したのですが,これはなかなか面白い歌なので,改めてその全貌を示していきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/6c/94f416d4eeb804b6fc4e801038ee2575.jpg)
バスがとまった気配に気づき そっとまぶたをあけてみると
ここは山頂のサービスエリア 次の町まであと何百キロ
歌い手はバスに乗っていて,眠っていました。するとバスが停車したので目を開けます。バスが停車していたのは山頂のサービスエリアでした。しかしここは目的地まではまだまだ遠いところです。
バスと歌われていますが,このバスというのは,歌い手の一行だけが乗っているバスだと僕は解しています。このことは後の歌詞からの連想です。歌い手一行は日本全国を飛び回って興行を行っているのであり,このときは前回の興行の地から次回の興行の地への移動の最中であったのです。
埃まみれの長距離トラックが鼻先並べる闇の中
自販機のコーヒーは甘ったるいけど 暖まるならそれでいい
サービスエリアの駐車場に一行を乗せたバスは停車しました。そこには何台かの長距離トラックも並んで停車していました。闇の中,というのですから夜のことです。歌い手がバスの中で眠っていたのも,夜だったからだと分かります。歌い手はバスを降りて自動販売機でホットコーヒーを買いました。暖まらなければならなかったのですから,これはおそらく冬の夜の出来事だったのでしょう。
異なるということと広くわたるということの違いで僕が何をいいたいかといえば,人間の精神mens humanaが有する神Deusの十全な観念idea adaequataは,神が有する神自身の十全な観念に含まれているということです。つまり,人間の精神が有する神の十全な観念は,神が有する神自身の観念の一部であるとみなせると僕は考えているのです。そしてそのように解するのであれば,人間の精神のうちにある神の十全な観念と,神のうちにある神の十全な観念を,異なった観念であるというのはあまり適切ではないと思うのです。そして第二部定理一一系にあるように,人間の精神は神の無限知性intellectus infinitusの一部であるのですから,人間の精神が有する神の観念idea Deiが,神が有する神の観念の一部であるとみることは,十分に可能であるように僕は考えます。そして同時に,このように解釈すれば,僕がいう主体の排除と,畠中の区分とが,同時に意味あるものとして成立する,つまり主体の排除と畠中の区分は両立すると思うのです。
このような形式で畠中の区分と主体の排除とを両立させると,今度は僕自身が考察している事柄,すなわち神の観念というときの観念対象ideatumが何かということにも影響が出てきます。もし人間の精神のうちにある神の観念が,神のうちにある神自身の観念の一部であるとするなら,人間の精神というのは無限知性の一部であるのですから,神の観念も無限知性の一部であるとみなされる必要があります。ということは,この場合には神の観念と無限知性とを同一視することはできません。部分は全体の部分であるがゆえに全体とは区別されるのですから,全体であるものとその全体の一部であるものとを同じものと規定することはできないからです。
畠中の区分は第一部定理二一の論証Demonstratioで,神の観念が使われているときに付されていました。畠中が実際にそう考えているかは確実にはいえないのですが,この部分の訳注として畠中の区分が付されているということは,畠中が神の観念をこの定理Propositioの論証から考えている,つまり神の観念を無限知性とみているのではないかと僕は推測しましたが,そこに示されている区分自体は,主体の排除との関連で,そのことをむしろ否定しているといえるのです。
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バスがとまった気配に気づき そっとまぶたをあけてみると
ここは山頂のサービスエリア 次の町まであと何百キロ
歌い手はバスに乗っていて,眠っていました。するとバスが停車したので目を開けます。バスが停車していたのは山頂のサービスエリアでした。しかしここは目的地まではまだまだ遠いところです。
バスと歌われていますが,このバスというのは,歌い手の一行だけが乗っているバスだと僕は解しています。このことは後の歌詞からの連想です。歌い手一行は日本全国を飛び回って興行を行っているのであり,このときは前回の興行の地から次回の興行の地への移動の最中であったのです。
埃まみれの長距離トラックが鼻先並べる闇の中
自販機のコーヒーは甘ったるいけど 暖まるならそれでいい
サービスエリアの駐車場に一行を乗せたバスは停車しました。そこには何台かの長距離トラックも並んで停車していました。闇の中,というのですから夜のことです。歌い手がバスの中で眠っていたのも,夜だったからだと分かります。歌い手はバスを降りて自動販売機でホットコーヒーを買いました。暖まらなければならなかったのですから,これはおそらく冬の夜の出来事だったのでしょう。
異なるということと広くわたるということの違いで僕が何をいいたいかといえば,人間の精神mens humanaが有する神Deusの十全な観念idea adaequataは,神が有する神自身の十全な観念に含まれているということです。つまり,人間の精神が有する神の十全な観念は,神が有する神自身の観念の一部であるとみなせると僕は考えているのです。そしてそのように解するのであれば,人間の精神のうちにある神の十全な観念と,神のうちにある神の十全な観念を,異なった観念であるというのはあまり適切ではないと思うのです。そして第二部定理一一系にあるように,人間の精神は神の無限知性intellectus infinitusの一部であるのですから,人間の精神が有する神の観念idea Deiが,神が有する神の観念の一部であるとみることは,十分に可能であるように僕は考えます。そして同時に,このように解釈すれば,僕がいう主体の排除と,畠中の区分とが,同時に意味あるものとして成立する,つまり主体の排除と畠中の区分は両立すると思うのです。
このような形式で畠中の区分と主体の排除とを両立させると,今度は僕自身が考察している事柄,すなわち神の観念というときの観念対象ideatumが何かということにも影響が出てきます。もし人間の精神のうちにある神の観念が,神のうちにある神自身の観念の一部であるとするなら,人間の精神というのは無限知性の一部であるのですから,神の観念も無限知性の一部であるとみなされる必要があります。ということは,この場合には神の観念と無限知性とを同一視することはできません。部分は全体の部分であるがゆえに全体とは区別されるのですから,全体であるものとその全体の一部であるものとを同じものと規定することはできないからです。
畠中の区分は第一部定理二一の論証Demonstratioで,神の観念が使われているときに付されていました。畠中が実際にそう考えているかは確実にはいえないのですが,この部分の訳注として畠中の区分が付されているということは,畠中が神の観念をこの定理Propositioの論証から考えている,つまり神の観念を無限知性とみているのではないかと僕は推測しましたが,そこに示されている区分自体は,主体の排除との関連で,そのことをむしろ否定しているといえるのです。