スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

愛することと殺すこと&ふたつの神

2021-03-20 19:05:53 | 歌・小説
 『『罪と罰』を読まない』で,ドゥーニャスヴィドリガイロフのソーニャになれなかった理由として結論づけられているのは,単にソーニャがラスコーリニコフを愛したようにはドゥーニャがスヴィドリガイロフを愛さなかったということだけにあるのではなく,ドゥーニャがスヴィドリガイロフを愛さなかっただけでなく,憎むこともしなかった,つまりドゥーニャがスヴィドリガイロフに対して愛さず殺さずという態度をとったからだとされています。確かにスヴィドリガイロフはドゥーニャが自身のことを愛してくれないのなら,徹底的に憎んでほしいと思っていたかもしれず,そういう結論も有力だと思います。
                                        
 これにつけ加えるなら,ソーニャは確かにラスコーリニコフを愛したのですが,ある意味ではラスコーリニコフを殺したという側面もあります。ラスコーリニコフが殺人という罪を犯したのは,ナポレオン思想という自身の思想に起因していました。しかしナポレオン思想を有したラスコーリニコフは,ソーニャに愛されることによって死んでしまった,いい換えればラスコーリニコフはナポレオン思想の誤りを知った人間として生まれ変わったとみることができます。つまりこの意味では,ソーニャは単にラスコーリニコフを愛しただけではなく,殺したとみることも可能なわけで,愛することもしなかったけれど殺しもしなかったドゥーニャと対照的にみることができます。
 ただこのような観点から,ドゥーニャがスヴィドリガイロフを殺すことができたかは疑問です。スヴィドリガイロフに何らかの思想があったとして,ドゥーニャがスヴィドリガイロフを愛すれば,そのスヴィドリガイロフを殺し,スヴィドリガイロフが新しい人間として生まれ変わるということが可能だったとは僕にはあまり思えないからです。したがってもしもドゥーニャがスヴィドリガイロフを殺すとすれば,ピストルで撃ち殺すというように,物理的に殺すことしかできなかったと思えます。しかしそれをドゥーニャに望むのは酷な気がします。
 ラスコーリニコフが死んだようにスヴィドリガイロフが死ぬためには,スヴィドリガイロフ自身が手を下すしかなかったのかもしれません。スヴィドリガイロフの自殺は,必然的な結果だったという見方もできそうです。

 神の観念idea Deiが唯一であることがどのような意味でならないのかを示すために僕が用いた例というのは,極端なものです。ただ,たとえば人間の精神mens humanaのうちに,ふたつの神の観念があるということは,僕たちが数を表象imaginatioの上で区別するということを条件とすれば,成立しないというものでもありません。
 第二部定理四七の意味は,僕たちが延長の属性Extensionis attributumと,延長の属性を観念対象ideatumとする思惟の属性Cogitationis attributumについては,それらを十全に認識するcognoscereということでした。第一部定義四から,僕たちが何らかの属性を認識するということと,何らかの実体substantiaの本性essentiamを認識するということは同一です。第一部定義六から神は実体substantiamです。そして第二部定理一と第二部定理二により思惟は神の属性であり,延長もまた神の属性です。したがって僕たちは,思惟の属性によって本性を構成される神と,延長の属性によって本性を構成されている神という,ふたつの神を十全に認識しているということは,まったく成立しないというわけではありません。延長の属性と思惟の属性との間には共通点はなく,第一部公理五により,一方の認識cognitioが他方の認識に依存するということがありません。そのゆえに第一部定理一〇により,延長の属性は延長の属性によってのみ概念されるのですし,思惟の属性は思惟の属性によって概念されるのです。つまり延長の属性はそれ自身によって考えられる唯一の属性として僕たちは認識するのであり,同様に思惟の属性もそれ自身によって考えられる唯一の属性として僕たちは認識します。そしてこの両属性が神という単一の実体の本性を構成するので,僕たちは延長の属性によって説明される限りでの神と,思惟の属性によって説明される限りでの神という,ふたつの神の観念を認識しているということになるでしょう。
 実際のところは,これはふたつの神の観念が人間の精神のうちにあるということを意味しているわけではありません。というのは,もしもAとBとが数によって区別されるのであれば,この区別distinguereは様態的区別でなければならないのですが,延長の属性と思惟の属性との区別は実在的区別だからです。すなわち,延長の属性と思惟の属性をふたつの属性とはいえません。
コメント
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