この将棋は僕が観戦を始めた時点で後手はあまり持ち時間が残っていなかったのですが,先手は時間を残していました。そして⑰-4の第2図(第1図となっていますが下図)で先手は時間を投入しました。結果的にこの局面が勝敗を分かちましたので,時間を投入したのは正しかったことになります。
今回は先手がどう指すべきだったのかを示しておきます。正着は☗7五桂。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/de/b7a5b0ade371a67f19ab0715b47a1799.png)
馬取りを放置して桂馬を打ったわけですから後手は普通は☖6四桂と取ります。これに対しては☗7三歩成とし☖同桂の王手に☗7四玉とします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/7e/b33ba7c6cb7a7e0953f7b7a06e4b1cbb.png)
この手順は局後の感想戦でも示され,変化はあるものの先手の勝ちと結論されました。
ただこの手順というのは,自玉を後手玉の攻めに使うというものですから,一歩間違えれば先手も危険になるわけで,選びにくい順であることも確かです。ということは,確かに1で示したように,この将棋は先手の方がよかったのですが,僕が思っていたほどは大きな差がついていなかったということになるでしょう。逆に僕はそのような勘違いをしていたために,この順を逃してもまだ少しの間は先手の方がよいものとして将棋を追っていくことになりました。
僕はスピノザの哲学に特徴的な考え方のひとつに,主体の排除というものがあると考えています。そこにはいくつかの意味があるのですが,そのうちのひとつに,十全な観念idea adaequataの主体subjectumを問うことは無意味であるという点があります。なぜなら,たとえば現実的にAという人間が存在するとして,このAの精神mensのうちにXの十全な観念があるとしましょう。このときこの観念は,第二部定理一一系により,Aの精神の本性essentiaを構成する限りでXの観念は神Deusのうちで十全である,と説明されます。つまりAの精神のうちにあるXの十全な観念の形相formaと,神のうちにあるXの十全な観念の形相は一致します。観念の形相が一致するというより,同一であるといっていいでしょう。そしてこのAというのは任意なのですから,このことはすべての人間の精神mens humanaに該当します。よってXの十全な観念は,どのような精神のうちにあるとしても同一です。このために,Xの十全な観念について考察する場合は,その観念がだれの精神のうちにあるかということを問う必要はありません。いい換えればある観念が十全な観念であるのなら,その十全な観念の主体がだれであるのかを問うことは無意味なのです。
このことから次のことが帰結しなければなりません。もしも神の観念idea Dei,つまり神を観念対象ideatumとした観念が十全な観念であるのなら,それはある人間の精神のうちにあろうと,神自身のうちにあろうと,同一の形相であるということです。ところが畠中の区分は,神のうちにある神の観念と,人間の精神のうちにある神の観念であるのですから,このふたつの観念は異なっているということになります。つまり畠中の区分は,主体の排除というスピノザの哲学を特徴づける考え方に反しているのではないかと思われます。しかしすでにいったように,僕はこの区分はこの区分で意義深いと考えています。いい換えれば,主体の排除に反するようにみえるのですが,無効な区分であるとは考えていません。そこでその理由を示していきます。
これを説明する前提として,神のうちには神自身の観念があり,また人間の精神のうちにも神の観念があるということを確定させておかなければなりません。
今回は先手がどう指すべきだったのかを示しておきます。正着は☗7五桂。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/de/b7a5b0ade371a67f19ab0715b47a1799.png)
馬取りを放置して桂馬を打ったわけですから後手は普通は☖6四桂と取ります。これに対しては☗7三歩成とし☖同桂の王手に☗7四玉とします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/7e/b33ba7c6cb7a7e0953f7b7a06e4b1cbb.png)
この手順は局後の感想戦でも示され,変化はあるものの先手の勝ちと結論されました。
ただこの手順というのは,自玉を後手玉の攻めに使うというものですから,一歩間違えれば先手も危険になるわけで,選びにくい順であることも確かです。ということは,確かに1で示したように,この将棋は先手の方がよかったのですが,僕が思っていたほどは大きな差がついていなかったということになるでしょう。逆に僕はそのような勘違いをしていたために,この順を逃してもまだ少しの間は先手の方がよいものとして将棋を追っていくことになりました。
僕はスピノザの哲学に特徴的な考え方のひとつに,主体の排除というものがあると考えています。そこにはいくつかの意味があるのですが,そのうちのひとつに,十全な観念idea adaequataの主体subjectumを問うことは無意味であるという点があります。なぜなら,たとえば現実的にAという人間が存在するとして,このAの精神mensのうちにXの十全な観念があるとしましょう。このときこの観念は,第二部定理一一系により,Aの精神の本性essentiaを構成する限りでXの観念は神Deusのうちで十全である,と説明されます。つまりAの精神のうちにあるXの十全な観念の形相formaと,神のうちにあるXの十全な観念の形相は一致します。観念の形相が一致するというより,同一であるといっていいでしょう。そしてこのAというのは任意なのですから,このことはすべての人間の精神mens humanaに該当します。よってXの十全な観念は,どのような精神のうちにあるとしても同一です。このために,Xの十全な観念について考察する場合は,その観念がだれの精神のうちにあるかということを問う必要はありません。いい換えればある観念が十全な観念であるのなら,その十全な観念の主体がだれであるのかを問うことは無意味なのです。
このことから次のことが帰結しなければなりません。もしも神の観念idea Dei,つまり神を観念対象ideatumとした観念が十全な観念であるのなら,それはある人間の精神のうちにあろうと,神自身のうちにあろうと,同一の形相であるということです。ところが畠中の区分は,神のうちにある神の観念と,人間の精神のうちにある神の観念であるのですから,このふたつの観念は異なっているということになります。つまり畠中の区分は,主体の排除というスピノザの哲学を特徴づける考え方に反しているのではないかと思われます。しかしすでにいったように,僕はこの区分はこの区分で意義深いと考えています。いい換えれば,主体の排除に反するようにみえるのですが,無効な区分であるとは考えていません。そこでその理由を示していきます。
これを説明する前提として,神のうちには神自身の観念があり,また人間の精神のうちにも神の観念があるということを確定させておかなければなりません。