スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京中日スポーツ賞金盃&共通概念の一般性

2020-02-05 19:06:29 | 地方競馬
 第64回金盃
 すぐにシュテルングランツがハナへ。2番手にワークアンドラブ。3番手はストライクイーグル,サブノクロヒョウ,センチュリオン,ミキノトランペットの4頭。少し開いてスギノグローアップ。この後ろにカンムルとトーセンブルとなり,あとはハセノパイロ,サウンドトゥルー,サノサマー,フレアリングダイヤ,ウマノジョー,ピアシングステア,ディアドムスと続きました。最初の1000mは63秒1のハイペース。
 2周目の向正面に入るところでセンチュリオンが単独の3番手。ストライクイーグルは内を回っての4番手に。最初は縦長でしたが,最後尾のディアドムスを除く15頭は一団を形成しました。3コーナーでシュテルングランツにワークアンドラブが並び掛けていき,これをストライクイーグルとセンチュリオンが追っていく形。ですが外から楽にサウンドトゥルーが上昇してきて,前をいく2頭に並び掛けていきました。そのまま雁行状態で直線を迎えたものの,サウンドトゥルーの手応えだけが抜群。すぐに先頭に立つとあとは後続を離していく一方となっての圧勝。サウンドトゥルーが前を一掃するレースとなったため,後方から大外を追い上げたフレアリングダイヤが8馬身差で2着。中団からそのすぐ内から脚を伸ばしたトーセンブルが1馬身4分の3差で3着。
                                   
 優勝したサウンドトゥルーは昨年の金盃以来の勝利で南関東重賞2勝目。その後は大きな着順もありましたが,これは控えて差し脚を生かすというこの馬の持ち味を消すようなレースもあったため。昨年暮れに復帰してからの2戦は掲示板に載っていましたので,復調気配はありました。ここまでの圧勝は予想外でしたが,ほかの強い馬が能力を出せない展開となったためで,2着馬との力量差だけでいえば順当といえるでしょう。もう10歳馬ですから上積みは期待できませんが,騙馬は能力の減退が緩やかな傾向にはあるので,南関東重賞であればまた勝つというシーンがあるかもしれません。母の父はフジキセキ。2つ下の全弟に一昨年の佐賀記念を勝っている現役のルールソヴァールで,4つ下の半弟に昨年のアンタレスステークスを勝っている現役のアナザートゥルース
 騎乗した船橋の森泰斗騎手ニューイヤーカップ以来の南関東重賞35勝目。前の開催ではTCK女王盃を制しました。第62回以来2年ぶりの金盃2勝目。管理している船橋の佐藤裕太調教師は昨年の金盃以来の南関東重賞8勝目。金盃は連覇で2勝目。

 これはドゥルーズGille Deleuzeが『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』で指摘していることですが,スピノザは一般性の高い共通概念notiones communesと一般性の低い共通概念を比較したときに,一般性の低い共通概念の方が人間にとって重要であると考えているふしがうかがえます。第二部定理三八第二部定理三九は,すべてのものに共通しているかいくつかのものに共通しているかの相違だけで,その部分だけを相違させれば同じように証明することができます。ですがスピノザはわざわざこのふたつを別の定理Propositioとして分け,同じような内容の論証Demonstratioであるにも関わらず,各々を個別に論証しています。いい換えれば第二部定理三九の論証は,第二部定理三八の論証の方法に訴求し,それと同様の仕方で証明されるというだけでも成立すると僕には思えるのですが,スピノザはそうしていないのです。このあたりにも,スピノザが第二部定理三九の方を重視しているということがうかがえます。
 スピノザには,第二部定理三九の方を重視することに理由があると思えます。それは,一般性と特殊性についてのスピノザの考え方と関係します。スピノザによれば,ものは一般的に認識されるほどそれだけ混乱して認識され,特殊的に認識されるほどに明瞭判然と認識されるのです。すると,すべてのものに共通であるものが認識されるより,いくつかのものに共通であるものが認識される方が,より特殊的に認識されていることになります。したがって,それだけ明瞭判然と認識されていることになるのです。これが,一般性が低い共通概念の方をスピノザが重視する理由です。もう少しいえば,一般性が低くなっていけば低くなっていくほど,その共通概念をスピノザは重視することになります。
 一般性が低い共通概念を認識するcognoscereことへ向かう欲望cupiditasは,一般性が高い共通概念から生じることができます。一般性が高かろうと低かろうと,同じように共通概念なのですから,それはともに十全な認識であり第二種の認識cognitio secundi generisです。ですからこの欲望が第一種の認識cognitio primi generisからは生じ得ないということは,第五部定理二八証明と同様に論証できます。またともに第二種の認識ですから,永遠の相species aeternitatisのあり方は考慮しなくていいことになります。
コメント
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