スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新聞社の事情&証明の補足

2020-02-01 19:02:06 | 歌・小説
 夏目漱石は1906年11月に,読売新聞から入社の誘いを受けました。しかしこれはおそらく条件が折り合わなかったために破談に。そして翌年の2月に,今度は朝日新聞から入社の誘いを受け,今度は漱石が求めた条件を朝日新聞社側でも受け入れたため,入社の運びとなりました。
                                        
 このように漱石は2社から入社の誘いを受けたわけです。これは漱石が小説家として有能であると認められていたためではありますが,ただそれだけではありません。この時代に新聞社から入社の勧誘を受けた小説家というのは漱石だけだったわけではありません。また実際に漱石のように,新聞社に入社して文学作品を書いていた作家というのも現実に存在しました。つまりこれは漱石がとくに有能であったがために,漱石に特有に起こった,あるいは起こり得た現象であったというわけではなく,当時の流行作家に対してはそれがだれであれ生じ得る出来事だったわけです。
 しかし現代に生きる僕たちは,この点についてやや不思議に感じるのではないでしょうか。なぜ当時の新聞社はこぞって有名作家を自社に入社させ,いわば自社専属の作家として作品を書いてもらうことを求めたのでしょうか。そうしたことで新聞社の側にはどのようなメリットがあったのでしょうか。
 『漱石と朝日新聞』では,そうした新聞社側の事情といったものが,当時の新聞を取り巻く状況と合わせて,わりと詳しく解説されています。僕も新聞社には作家を入社させるメリットがあったということは漠然とながら分かっていたのですが,その当時の新聞というのが社会の中でどのようなものであったのかということを知ることにより,漠然としていたことがより明瞭判然と理解できるようになりました。なのでこのブログでもいずれ,その間の事情について説明しようと思っています。

 スピノザによる第五部定理二八証明を,現在の考察に見合った形で補足します。
 この証明Demonstratioはまず,第二部定理四〇4つの意味のうち,第三の意味を自明の前提としています。スピノザは『エチカ』の中でこのことを論証していないので,それを自明としていいのかについては疑問の余地はあります。ですがこの意味が成立することは,このブログの中では考察済みなので,これについては問題としません。したがって,もし人間の精神mens humanaのうちに何らかの十全な観念idea adaequataが生起するということがあるなら,それがそれ自体で生起するのでない限り,ほかの何らかの十全な観念から生起するということが前提できることになります。
 次にスピノザは,第三部諸感情の定義一を援用し,人間が個々の変状affectioによってあることをなすように決定される限りでの本性essentiaが欲望cupiditasであるということに訴えています。ですが僕はここでは第二部公理三に訴えます。ここから理解できるのは,人間が何かを欲望するなら,前もってその欲望するものの観念ideaを有していなければならないということです。
 これらのことから,人間が何らかの事柄を十全に認識しようとする欲望がいかに発生するかが分かります。もしある観念を十全に認識した場合は,それについて十全に認識しようとする欲望をもつというのは不条理です。いい換えればこの欲望は,まだそれについて十全な観念idea adaequataを有していないものに対してのみ生じる欲望です。しかるに,十全な観念がほかの観念を通して人間の精神のうちに発生する場合,そのほかの観念も十全な観念であるということは前提になっています。よってある事柄を十全に認識しようとする欲望もまた,そうした観念を通してしか人間のうちには発生し得ません。いい換えれば僕たちは,何らかの十全な観念を有する限りで,まだ十全に認識していないあるものを十全に認識することに向う欲望を有し得るのです。
 第三種の認識cognitio tertii generisは十全な認識なので,ものを第三種の認識で認識するcognoscereことを目指す欲望は,十全な認識からのみ生じます。よって混乱した認識である第一種の認識cognitio primi generisからはその欲望は生じ得ず,十全な認識である第二種の認識cognitio secundi generisからはそれが発生し得ることになります。
コメント
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