スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&証明の強化

2020-02-07 19:17:39 | 将棋
 昨日の第5期叡王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は豊島将之竜王・名人が9勝,渡辺明三冠が15勝。
 振駒で豊島竜王・名人の先手。角換り相腰掛銀から後手の渡辺三冠が攻勢をとる将棋。その攻めが繋がるか否かが焦点でした。
                                        
 後手が3五の歩を伸ばした局面。ここで先手は☗6九王と寄って催促したのですが,この手は悪手でした。
 ここから☖6八角成☗同銀☖9七香成☗3六金☖8七成香と進展。先手はそこで☗8二歩☖7一飛☗9二香成という手順で飛車を取りにいったのですが☖3五歩☗4六金に☖4八金と打たれました。
                                        
 第2図以降,先手は☗8一歩成とする余裕を得ることができませんでした。つまりここは先手には後手の攻めを上回る手順がなく,すでに後手の勝勢と判断できそうです。ということは,第1図で先手がパスしても☖6八角成から同じ手順で後手の勝勢になったことになります。なので☗6九王はお手伝いの手。何か攻めを目指す手を指さなければいけなかったということになりそうです。
 渡辺三冠が先勝。第二局は13日です。

 第二種の認識cognitio secundi generisから第三種の認識cognitio tertii generisへ向かう欲望cupiditasが生じ得るとするとき,ものをより明瞭判然と認識するcognoscereことへ向かう欲望であると解するなら,第二種の認識の永遠の相species aeternitatisと第三種の認識の永遠の相の相違については考慮しなくてよいことになります。ものをより判然と認識しようとする欲望は,永遠の相の相違を問わずに発生し得るからです。したがって,永遠の相がひとつしかない,いい換えれば第二種の認識の永遠の相と第三種の認識の永遠の相が同一であったとしてもこのことは成立しますし,第二種の認識と第三種の認識の永遠の相は異なった永遠の相であった場合でも成立するのです。よって,ものをより明瞭判然と認識することへ向かう欲望という観点から第五部定理二八を証明するなら,永遠の相がどのような意味を有しているかは考慮の外に置くことができるのです。
 このような論証Demonstratioが可能であることは,次の点から強化できるように僕は思います。第二部定理四三によれば,僕たちは真の観念idea veraを有しているときは,真の観念を有しているということを知ることができます。したがって僕たちは,何らかの共通概念notiones communesを有したときは,自分が共通概念を有していることを知ることができるわけです。ところで第二部定理三七によれば,共通概念というのは一般性が高かろうと低かろうと,個物res singularisの本性essentiaを構成していないものの認識です。いい換えれば現実的に存在する個物の十全な観念idea adaequataではありません。もし共通概念を有しているときに,共通概念を有しているということを知ることができるのなら,僕たちはそのことも同時に知ることができるといわなければなりません。真の観念を有しているとき,自分が真の観念を有していることを知ることができるというのは,文字通りにそのことを知ることができるということを意味するというわけではなく,自分が有している真の観念がどのような観念であるかを知ることができるという意味でなければならないのですから,これはそれ自体で明白でしょう。よって僕たちは共通概念を有するときには,あるものを明瞭判然と認識しているということと同時に,もっと明瞭判然とした認識があるということも知ることができるのです。
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