スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

玉藻杯争覇戦&証明の成立条件

2020-02-02 18:55:31 | 競輪
 高松記念の決勝。並びは菊地‐斎藤の北日本,野口‐和田の千葉,松浦に村上,松本‐久米の四国で中川は単騎。
 斎藤がスタートを取って菊地の前受け。3番手に松浦,5番手に中川,6番手に野口,8番手に松本で周回。残り3周のバックを出ると松本がゆっくりと上昇開始。前までは上がらず,野口の横に並ぶと,ホームで野口は引き,6番手と8番手が入れ替わっての一列棒状に。バックに入ると6番手から松本が発進。打鐘で菊地を叩きました。ただあまりペースを上げなかったため,8番手になっていた野口が外から松本を叩いてホームから先行。うまく続いた松浦が3番手,このラインに続いた中川も5番手となり,松本は6番手に。バックから松浦が発進。村上がマークを離して単騎での捲りになりましたが,あっさりと野口の前に出るとあとは後ろを離していくばかりとなり圧勝。村上の後ろから自力で捲り追い込んだ中川が4車身差で2着。野口マークの和田が2車身差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は前回出走の和歌山記念に続いての優勝で記念競輪5勝目。高松記念は初優勝。ここは明らかに脚力上位。その選手が3番手を回り,番手が離れてしまいましたから圧勝になったのは当然。松本の動きは3番手を取りにいったものだと思いますが,ペースを落とし過ぎたためにかえって松浦を利することになってしまいました。このあたりはまだ経験値が不足しているということでしょう。中川は一発があるかもしれないと思っていて,松浦ラインを追走したのはよかったのですが,村上が離れてしまったのは誤算だったでしょう。3人で捲り切る形になれば,もっと差は詰まっていましたし,あるいは差し切るというところまでいけていたかもしれません。

 補足から分かるように,第五部定理二八証明の根幹は,ある観念ideaが十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかという点に集中しています。スピノザはこのことを根拠とし,十全な認識cognitioである第三種の認識cognitio tertii generisへ向かう欲望cupiditasは,十全な認識である第二種の認識cognitio secundi generisすなわち理性ratioによる認識からは発生し得るけれど,混乱した認識である第一種の認識cognitio primi generisからは発生し得ないとしているからです。
                                   
 この証明Demonstratioが成立するのであれば,第三種の認識の本性naturaに属するであろうものを永遠の相species aeternitatisの下に認識するcognoscereことという場合の永遠の相と,第二種の認識の本性に属するとされているものを永遠の相の下に認識することという場合の永遠の相は,同一の永遠の相でなければなりません。というのは証明の主旨から,それが同一であるから第二種の認識から第三種の認識へと向かう欲望が発生し得ることになるからです。逆の面からいえば,それらの永遠の相が異なった永遠の相と仮定するなら,第一種の認識から第三種への認識へ向かう欲望は発生し得ないと結論するのと同じ論拠によって,第二種の認識から第三種の認識へと向かう欲望は発生し得ないといわなければならないからです。第二部定理四〇4つの意味のうち第三の意味は,十全な観念が結果effectusとして発生するのであれば原因causaは十全な観念でなければならないということをいっているのであって,その十全な観念がどのような意味において永遠の相の下に認識されているかは含んでいません。しかし含んでいないのは永遠の相がいくつもあるわけではなくひとつしかないからだということになるわけで,証明そのものだけでなく,証明の前提の時点でスピノザは第二種の認識の本性に属する永遠の相と,第三種の認識の本性に属するであろう永遠の相を,同一の永遠の相とみなしているということもできるでしょう。
 これをまとめれば,スピノザはものが十全に認識されるのであれば,それは第三種の認識によって現実的に存在する自分の身体corpusの本性や,自分の身体以外の現実的に存在する物体corpusの本性が認識されるのであろうと,共通概念notiones communesを通して認識されるのであろうと,同じ意味でものは永遠の相の下に認識されていると解していることになります。
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