スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

たちあおい賞争奪戦&遺骨の管理

2020-02-24 19:00:34 | 競輪
 静岡記念の決勝。並びは小松崎‐佐藤の福島,渡辺‐郡司‐岡村‐松坂の南関東,浅井‐志智の中部で鈴木は単騎。
 佐藤と浅井がスタートを取りに行き,内の佐藤が取って小松崎の前受け。3番手に浅井,5番手に鈴木,6番手に渡辺で周回。残り3周の最終コーナーから渡辺が上昇を開始。ホームで小松崎を叩くとこのラインが出きり,渡辺があまりペースを緩めなかったために,5番手に小松崎,7番手に浅井,最後尾に鈴木の一列棒状で打鐘。打鐘後のコーナーから小松崎が発進,1コーナーから2コーナーにかけて郡司が牽制し,小松崎は失速。佐藤が岡村をどかして郡司の後ろに。バックから浅井が発進。郡司が対応しきれずにやや踏み遅れ,最終コーナーは浅井が僅かに前に出ながらふたりで併走する形に。直線では外の浅井が踏み勝って優勝。マークの志智が半車身差で2着に続き中部のワンツー。郡司は8分の1車輪差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は一昨年12月の四日市記念以来の優勝で記念競輪26勝目。静岡記念は初優勝。そのときは3場所連続優勝だったのですが,昨年は怪我などの影響もあってか優勝はできませんでした。昨年末からまた負傷で欠場し,今年はここが3回目の出走。前回出走の全日本選抜は二次予選で敗退したものの,3日目と4日目は連勝と復調の兆し。今回も初日から3連勝していましたので,どうやら力を出せる状態に戻ったとみてよさそうです。このレースは南関東が静岡と神奈川の混成ラインのような並びになったため,渡辺が早くから駆けて,郡司が番手から発進。郡司と岡村で優勝争いとみていたのですが,むしろ郡司は渡辺を大切にするような競走に。最終周回のバックの入口あたりからは発進してしまった方が,ラインにとってもよかったのではないかと思います。

 遺骨というのは多くの場合は四十九日法要のときに墓地に埋葬するものだと思われます。祖父が死んだのが1966年の1月11日ですから,3月初めには四十九日を迎えています。日野公園墓地の使用の権利が発効したのが9月で,発効してすぐに納骨したかどうかは分かりませんが,通常の納骨と比べると半年以上の期間はあったことになります。僕が最も知りたいのは,その半年強の間,祖父の遺骨をどのように管理していたのかということなのです。四十九日までは自宅で管理しておくのが普通でしょう。これは僕のの遺骨に関してもそうでしたし,の遺骨に関しても同様でした。父の遺骨は四十九日法要の日に日野公園墓地内の墓に納骨しましたし,母の遺骨はやはり四十九日法要のときにお寺にある共同の納骨堂に納骨したのです。そしてこの納骨までは,自宅に誂えた仮の祭壇に置いてありました。
 祖父の場合も,たぶん仮の祭壇というのはあったと思われ,そこで保管してあった,正確にいえば少なくともそのように保管していた時期があったことは間違いないと僕はみています。ただその祭壇を,実際に日野公園墓地内の墓に納骨するまで自宅に置き続けていたということにはあまり確信がもてません。むしろ半年以上の期間ということになると,そうしておくにはいささか長すぎるように僕には思えるのです。よって,日野公園墓地内の墓に納骨するということを前提として,どこかに仮の状態で納骨しておいたという可能性があることになります。この可能性を僕は排除することができません。そしてもしそうであるなら,そこに納骨の記録というのが残っているのかもしれませんが,実際にそうしたのかどうかが分からない上に,もしそういう処置をしていたのだとしても,それがどこなのかはまるで分らないため,これは調べることがきわめて困難なのです。
 ただ伯父の話としては,祖父の遺骨を日野公園墓地内の墓に納骨したということだけは確実ということでしたから,僕としては,記録上は父と祖母の納骨の記録しか残っていないのだとしても,3体が納骨されているという前提で行動するということは,石材店の店主には後に電話で伝えました。
コメント
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