書簡三十四と書簡三十五に続き,スピノザがフッデJohann Huddeに送った手紙として遺稿集Opera Posthumaに収録された最後のものが書簡三十六です。これはスピノザが1666年4月10日付でフッデに送った書簡三十五に対し,フッデがなお疑問を有して5月19日付の返信を送り,それにスピノザが答えたものです。ただしスピノザは多忙だったようで,すぐ返事を送れなかったということはこの書簡の冒頭から分かります。日付は明記されていないようで,同年6月半ば頃ではないかと推測されています。
書簡三十五の内容についてはスピノザの哲学を知っていれば内容は理解できるかと思いますので,フッデの疑問そのものに対する返答内容はここでは割愛します。ただスピノザはこの書簡で,僕には興味深いいい方をしている部分があります。
書簡三十五でスピノザは,『エチカ』でいえば第一部定理一一第三の証明に類すること,完全性perfectioつまり実在性realitasが有限finitumであるとみられるものが存在するなら,それが無限なものも存在しなければならないという主旨のことを示しています。書簡三十六ではこれを受けて,絶対に無限absolute infinitumで最高に完全summe perfectumなものが存在することを認めなければならないという意味のことがいわれています。そしてスピノザはそれについて,私が神Deusと名付けるのはそういう存在のことだといっています。おそらくフッデは,神というのをそれとは違ったものと認識していたがために,書簡三十五の内容に疑問を抱いたのであり,ここではスピノザはその疑問に答えたのだと推測されます。
このいい方は,明らかにスピノザが神を唯名論として命名していることを匂わせます。私はそういう存在を神と名付けるというのは,それが神と名付けられる必然性necessitasを示しているわけではないからです。つまりこの書簡から,スピノザにとって神は,何について名付けられるべきかということが大きな問題であったことが分かるでしょう。
この書簡の最後で,スピノザはレンズを磨くための皿を新たに作製するにあたっての助言を求めています。フッデがそれを無視したとは思えないので,それに対する返信も必ずや存在しただろうと僕は考えています。
スピノザが現実的に存在している人間の精神mens humanaの永遠性aeternitasについて主張するとき,その根幹をなすのは第五部定理二二です。そこでいわれているのは,神Deusの中には現実的に存在する人間の身体corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが必然的にnecessario存在するということでした。
このことから第五部定理二三が出てきます。これらふたつの定理Propositioは一読するとあまり関係がないようにも見えるのですが,第五部定理二三を証明する際には,第五部定理二二で永遠の相の下に表現されている神の中にIn Deoある現実的に存在する人間の身体の本性の観念idea, quae Corporis humani essentiam exprimitとは,第二部定理一三によりその現実的に存在している人間の精神Mentis humanaeであるがゆえに,これはその人間の精神の本性Mentis essentiamに属さなければならないということを示すことが絶対的な条件です。なので第五部定理二二は,確かに現実的に存在する人間の精神が永遠aeternumであるということを論証するための根幹の定理となるのです。
このとき,第二部定理二三において,人間の精神のうちにある永遠なるあるものaliquidが残存するがゆえに,それは永遠であるといわれています。このあるものというのは,神の中で永遠の相の下に表現されている,現実的に存在する人間の身体の観念にほかならないといえます。このように解さないと,第五部定理二三の証明Demonstratioは成功してないからです。ではなぜそれが単にあるものというように,具体的なものを指示していないのかといえば,そのあるもの自体の十全な観念自体は,神の中で永遠の相の下に表現されているというだけであって,現実的に存在する人間の精神のうちに存在し得るような観念ではないからです。このことは,現実的に存在する人間は自分の身体については,その身体が受ける刺激状態の観念すなわち身体の変状corporis affectiones,affectiones corporisによってのみその観念を形成するということを示した第二部定理一九と,その観念は混乱した観念idea inadaequataであるということを示した第二部定理二七から明らかだといえます。
つまりスピノザは人間の精神の永遠性について主張する場合でも,人間が現実的に存在する自分の身体を十全に認識することはないということを前提しているのです。これは精神の場合にも同じといわなければならないでしょう。
書簡三十五の内容についてはスピノザの哲学を知っていれば内容は理解できるかと思いますので,フッデの疑問そのものに対する返答内容はここでは割愛します。ただスピノザはこの書簡で,僕には興味深いいい方をしている部分があります。
書簡三十五でスピノザは,『エチカ』でいえば第一部定理一一第三の証明に類すること,完全性perfectioつまり実在性realitasが有限finitumであるとみられるものが存在するなら,それが無限なものも存在しなければならないという主旨のことを示しています。書簡三十六ではこれを受けて,絶対に無限absolute infinitumで最高に完全summe perfectumなものが存在することを認めなければならないという意味のことがいわれています。そしてスピノザはそれについて,私が神Deusと名付けるのはそういう存在のことだといっています。おそらくフッデは,神というのをそれとは違ったものと認識していたがために,書簡三十五の内容に疑問を抱いたのであり,ここではスピノザはその疑問に答えたのだと推測されます。
このいい方は,明らかにスピノザが神を唯名論として命名していることを匂わせます。私はそういう存在を神と名付けるというのは,それが神と名付けられる必然性necessitasを示しているわけではないからです。つまりこの書簡から,スピノザにとって神は,何について名付けられるべきかということが大きな問題であったことが分かるでしょう。
この書簡の最後で,スピノザはレンズを磨くための皿を新たに作製するにあたっての助言を求めています。フッデがそれを無視したとは思えないので,それに対する返信も必ずや存在しただろうと僕は考えています。
スピノザが現実的に存在している人間の精神mens humanaの永遠性aeternitasについて主張するとき,その根幹をなすのは第五部定理二二です。そこでいわれているのは,神Deusの中には現実的に存在する人間の身体corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが必然的にnecessario存在するということでした。
このことから第五部定理二三が出てきます。これらふたつの定理Propositioは一読するとあまり関係がないようにも見えるのですが,第五部定理二三を証明する際には,第五部定理二二で永遠の相の下に表現されている神の中にIn Deoある現実的に存在する人間の身体の本性の観念idea, quae Corporis humani essentiam exprimitとは,第二部定理一三によりその現実的に存在している人間の精神Mentis humanaeであるがゆえに,これはその人間の精神の本性Mentis essentiamに属さなければならないということを示すことが絶対的な条件です。なので第五部定理二二は,確かに現実的に存在する人間の精神が永遠aeternumであるということを論証するための根幹の定理となるのです。
このとき,第二部定理二三において,人間の精神のうちにある永遠なるあるものaliquidが残存するがゆえに,それは永遠であるといわれています。このあるものというのは,神の中で永遠の相の下に表現されている,現実的に存在する人間の身体の観念にほかならないといえます。このように解さないと,第五部定理二三の証明Demonstratioは成功してないからです。ではなぜそれが単にあるものというように,具体的なものを指示していないのかといえば,そのあるもの自体の十全な観念自体は,神の中で永遠の相の下に表現されているというだけであって,現実的に存在する人間の精神のうちに存在し得るような観念ではないからです。このことは,現実的に存在する人間は自分の身体については,その身体が受ける刺激状態の観念すなわち身体の変状corporis affectiones,affectiones corporisによってのみその観念を形成するということを示した第二部定理一九と,その観念は混乱した観念idea inadaequataであるということを示した第二部定理二七から明らかだといえます。
つまりスピノザは人間の精神の永遠性について主張する場合でも,人間が現実的に存在する自分の身体を十全に認識することはないということを前提しているのです。これは精神の場合にも同じといわなければならないでしょう。