福井記念の決勝。並びは新山‐竹内の北日本,脇本勇希‐脇本雄太‐稲川‐東口‐藤井の近畿で根田と山田は単騎。
脇本勇希がスタートを取って前受け。6番手に新山,8番手に山田,最後尾に根田で周回。残り2周のホームの入口から新山が発進。誘導との車間を開けていた脇本勇希が突っ張ったのでてこずりましたが,脚力の違いで打鐘では新山が脇本勇希を叩きました。山田がこのラインに続き,脇本雄太は脇本勇希を捨てて山田の後ろにスイッチ。バックから山田が発進。ホームで山田との車間を開けていた脇本雄太は山田の発進をみてさらに外を捲る形。山田は新山はあっさり捲りましたが,外の脇本雄太が直線の入口では前に。そのまま抜け出して脇本雄太が優勝。山田が3車身差で2着。脇本から離れてしまった稲川は4分の3車身差の3着。
優勝した福井の脇本雄太選手は3月のウィナーズカップ以来の優勝。記念競輪は昨年4月の武雄記念以来の優勝で14勝目。福井記念は2014年,2015年,2017年,2018年,2020年と優勝していて4年ぶりの6勝目。このレースはラインの厚みが違いますので,どういう展開になっても脇本雄太の優勝は確実で,ラインを引き込めるかどうかが焦点とみていました。新山は脇本勇希には先行させないという競走。とくに脇本勇希にアシストをしなかったのは,先行争いがよい経験になるとみてのものでしょう。脚力通りに新山の先行にはなったものの,叩くのに脚を使いましたから,失速は止むを得ないところ。脇本勇希が叩かれてからの脇本雄太は,自身の優勝だけを目的とした競走になったこともあり,稲川がマークしきれませんでした。ただこれは稲川の脚力の問題であって,ラインで上位を独占できなかったのも無理のないところでしょう。根田が山田に続いていれば,2着,3着の争いはもっと激化したかもしれません。
この後で國分は『はじめてのスピノザ』でも例示していた,第四部定理五九備考について検討しています。
まず前提としていっておかなければなりませんが,殴打という動作は,それ自体でみられるなら善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打がそうであるというより,人間の身体humanum corpusの所作はすべてそれ自体でみられる限りでは善でも悪でもないのであって,殴打もそのような所作とみられる限り,善でも悪でもあり得ないということです。一方,それが徳virtusといわれるのは,人間の身体の力potentiaを表現している限りにおいてです。したがってこのことも殴打に限られるのではなく,もし人間の身体のある動作が,その人間の身体の力の表現とみられる限りでは,すべて徳であるといわれなければならないのです。
しかしこうしたすべての動作は,善にもあり得るし悪にもなり得るのです。たとえば同じ備考の中でいわれているように,殴打という所作が憎しみodiumから発生するとすればそれは悪といわれなければなりません。もちろんこの部分でいわれていることも,殴打という所作に特有に適用されるわけではありません。ある人間の身体の動作が,憎しみに代表されるような悪しき受動感情から発生しているときは,それらはすべからく悪といわれるのです。悪しき受動感情がいかなるものであるのかということは,第四部定理四五系一に列挙されている通りです。
ではなぜその場合は悪といわれなければならないのでしょうか。それは第四部定理四五で憎しみは善であり得ないといわれているからなのですが,鍵となるのはこの定理Propositioを証明するときに,第四部定理三七にスピノザが訴求している点だと国分はいいます。この定理は,徳に従っているということは,自分のために欲求する善を,他人にも欲求することであるという主旨のことをいっているのです。つまり規準は自分のために欲求する善にあるのです。その善を他人に対して欲求しないような状態になることは,有徳的であるということから離れていくことなのです。このゆえに憎しみから他人を殴打することが悪といわれることになります。僕たちは憎しみによって他人に殴打されることを自身の善として欲求しないからです。
脇本勇希がスタートを取って前受け。6番手に新山,8番手に山田,最後尾に根田で周回。残り2周のホームの入口から新山が発進。誘導との車間を開けていた脇本勇希が突っ張ったのでてこずりましたが,脚力の違いで打鐘では新山が脇本勇希を叩きました。山田がこのラインに続き,脇本雄太は脇本勇希を捨てて山田の後ろにスイッチ。バックから山田が発進。ホームで山田との車間を開けていた脇本雄太は山田の発進をみてさらに外を捲る形。山田は新山はあっさり捲りましたが,外の脇本雄太が直線の入口では前に。そのまま抜け出して脇本雄太が優勝。山田が3車身差で2着。脇本から離れてしまった稲川は4分の3車身差の3着。
優勝した福井の脇本雄太選手は3月のウィナーズカップ以来の優勝。記念競輪は昨年4月の武雄記念以来の優勝で14勝目。福井記念は2014年,2015年,2017年,2018年,2020年と優勝していて4年ぶりの6勝目。このレースはラインの厚みが違いますので,どういう展開になっても脇本雄太の優勝は確実で,ラインを引き込めるかどうかが焦点とみていました。新山は脇本勇希には先行させないという競走。とくに脇本勇希にアシストをしなかったのは,先行争いがよい経験になるとみてのものでしょう。脚力通りに新山の先行にはなったものの,叩くのに脚を使いましたから,失速は止むを得ないところ。脇本勇希が叩かれてからの脇本雄太は,自身の優勝だけを目的とした競走になったこともあり,稲川がマークしきれませんでした。ただこれは稲川の脚力の問題であって,ラインで上位を独占できなかったのも無理のないところでしょう。根田が山田に続いていれば,2着,3着の争いはもっと激化したかもしれません。
この後で國分は『はじめてのスピノザ』でも例示していた,第四部定理五九備考について検討しています。
まず前提としていっておかなければなりませんが,殴打という動作は,それ自体でみられるなら善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打がそうであるというより,人間の身体humanum corpusの所作はすべてそれ自体でみられる限りでは善でも悪でもないのであって,殴打もそのような所作とみられる限り,善でも悪でもあり得ないということです。一方,それが徳virtusといわれるのは,人間の身体の力potentiaを表現している限りにおいてです。したがってこのことも殴打に限られるのではなく,もし人間の身体のある動作が,その人間の身体の力の表現とみられる限りでは,すべて徳であるといわれなければならないのです。
しかしこうしたすべての動作は,善にもあり得るし悪にもなり得るのです。たとえば同じ備考の中でいわれているように,殴打という所作が憎しみodiumから発生するとすればそれは悪といわれなければなりません。もちろんこの部分でいわれていることも,殴打という所作に特有に適用されるわけではありません。ある人間の身体の動作が,憎しみに代表されるような悪しき受動感情から発生しているときは,それらはすべからく悪といわれるのです。悪しき受動感情がいかなるものであるのかということは,第四部定理四五系一に列挙されている通りです。
ではなぜその場合は悪といわれなければならないのでしょうか。それは第四部定理四五で憎しみは善であり得ないといわれているからなのですが,鍵となるのはこの定理Propositioを証明するときに,第四部定理三七にスピノザが訴求している点だと国分はいいます。この定理は,徳に従っているということは,自分のために欲求する善を,他人にも欲求することであるという主旨のことをいっているのです。つまり規準は自分のために欲求する善にあるのです。その善を他人に対して欲求しないような状態になることは,有徳的であるということから離れていくことなのです。このゆえに憎しみから他人を殴打することが悪といわれることになります。僕たちは憎しみによって他人に殴打されることを自身の善として欲求しないからです。