浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

ローマ人列伝:ハンニバル伝 5

2009-03-27 18:33:44 | ローマ人列伝
「アルプスを越えて攻めてくるはずが無い」とローマが思った時点、いや、むしろハンニバルがローマにそう思わせた時点から、ハンニバルの侵攻は始まっていました。

黒が2回続いたから次は赤、というわけがありません。

ハンニバルが選んだ道は再度、山脈を越える困難な道。

結局、ローマ軍は二手に分かれながらもハンニバルに裏をかかれることになり、ハンニバルの更なる南下(つまりはローマ本国に近づくこと)を許すことになります。

その報を聞いたローマ軍2名の司令官、早速、きびすを返しハンニバル追走に向かいます。追跡するローマ軍にとってはありがたいことにハンニバルは通過した村を焼き払いながら進んでいました。彼の足跡を追うのは容易です。

現ハンニバル軍に近かったのはセルヴィリウス、フラミニウス両軍のうち、フラミニウス軍。彼は先立つ執政官選挙でも「打倒ハンニバル」を公約に掲げ票を集めた人間です。これがハンニバル打倒のチャンスとばかりにハンニバルが現在潜伏しているという情報に基づきトラジメーノ湖に急襲します。


ここまでことごとく「兵は欺道なり」の言葉を体現するかの如く敵を欺いてきたハンニバル。ここで村の焼き討ちも、トラジメーノ湖への潜伏もすべて彼の戦略だったことにフラミニウウスが気づくのはまだ先のことです。



(現在のトラジメーノ湖)

トラジメーノの戦いに対する後世の歴史家の評価はただひとつです。曰く「戦いとは認めない」。

なぜならこれは単なる騙まし討ちであるから、というものです。

しかし僕はこれこそがカンネーの戦い以上のハンニバル戦術の真骨頂であると思っています。

まずハンニバルの目的の第一は、「二正面攻撃ではなく各個撃破の戦いに持ち込む」ことでした。

戦争学においては「二正面攻撃は最高の愚策」が定説です。どれだけの名将でも一度に二方向の敵に対して戦うことは出来ないのです。これは歴史上、正式な二正面攻撃を成功させたのはナポレオンだけ、しかも彼ですら一度だけ、という事実からも明らかです。

ハンニバルが最も恐れていたのはセルヴィリウス軍、フラミニウス軍に挟まれること。両群に挟まれればいくらハンニバル軍と言えども勝ち目はありません。なんとか各個撃破に持っていくことが彼の狙いでした。

戦術の基本は各個撃破です。敵軍団をひとつひとつたたいていく。

各個撃破には現代の用兵術まで続く3つの原則があります。つまり「倒しやすい方から倒す」「近い方から倒す」「危険な方から倒す」。

ハンニバルにとってセルヴィリウス軍、フラミニウス軍どちらが倒しやすいと思ったのかは分かりません。しかし、近い、ということで言えば明らかにフラミニウス軍でした。

更にハンニバルがトラジメーノ湖を戦場に選んだのには地の利がありました。ここは常に濃霧に覆われることが多い土地。

敵は湖の周辺を行軍することが明らかです。ならば湖を挟んで攻撃すれば敵を「背水の陣」に追い込むことが出来るのです。川と違い湖は向こう岸に渡ることは出来ません。

彼の選んだ戦法は待ち伏せです。トラジメーノ湖のそばの街道の林にハンニバル軍5万の兵が息を潜めます。

もちろん、無意味に村を焼き払っていたのもすべてはフラミニウス軍をおびき寄せるためです。



これがトラジメーノの戦いの陣形図です。赤がローマ軍進行路、青がカルタゴ軍部隊。ハンニバルの布陣が「いやらしい」のはローマ軍の行路の先(図右)にスペインからの古参兵を壁のように配置し、その左に歩兵、ガリア兵、最左に騎兵、と機動力が高くなるように配置していることです。これによりローマ軍の最後列を騎兵が追い立てることが出来ます。まるで牧羊犬が牧柵に羊を追い込むように。この狭いゲリラ戦でも彼の戦術は「包囲戦術」でした。

深い霧の中、ハンニバル軍全兵士は息を潜め将軍ハンニバルの号令を待ちます。目の前を行軍していくローマ兵。

ちょうどローマ兵の前衛がハンニバル軍を通り過ぎる頃、ハンニバルは兵士に号令をかけます。

ローマ軍前衛は霧の中から現れた殺戮者に驚きの声を上げます。うしろに続いているローマ軍兵士は前方で何かが起こったことはわかりますが濃霧に囲まれそれが何なのかが分かりません。

塩野七生はこう表現しています。

「高速道路上ではしばしば、事故に気がつかないで走ってきた後続車が、次々と追突事故の犠牲になることがある。」

稀代の戦術家ハンニバルのもっとも美しい戦術がもたらしたものはローマ人にとっては美しさのひとかけらも無い地獄絵図でした。

一兵士も、軍団長も、そしてローマ最高の栄誉とされる執政官だったフラミニウスも、どの身体が誰のものかわかぬままトラジメーノの湖に浮かびました。

執政官フラミニウス率いるローマ軍2万5千のうち死者はフラミニウスを含む1万5千。一方、ハンニバル軍5万のうちの死者はほぼ無傷と言っていい2千。圧勝でした。

勝ち負けは起こってしまった過去であり、変えられません。一度負けたからと言ってそれはそれ、次に勝てばいいだけの話。大事なことはその勝敗から何を学ぶか。ローマ軍は残念ながらこの戦いを単なる「騙まし討ちによる大敗」としか捉えませんでした。一方、ハンニバルは圧倒的勝利を収めながらもやはりローマの重装歩兵の攻撃力は見くびるべきではない、という思いを強くしていました。

この2つの姿勢の差が次の結果の差につながるのです。

ことごとく負け続け、ハンニバルの侵攻を許すことになったローマ元老院。失った執政官フラミニウスに代わり対ハンニバル戦略を一任する人物を選びます。後に「ローマの盾」と呼ばれるファビウス・マクシムス。




…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 4

2009-03-27 04:16:32 | ローマ人列伝
古来より圧倒的勝利を収めたいくつかの戦いには共通点があります。

それは「戦闘前に敵の戦闘力を極限まで削いでおくこと」

三国志の赤壁の戦いの際の孫呉両軍の圧倒的勝利の要因は、事前に魏の船を繋ぎ機動力を削いでいたためでした。

戦闘前に敵の戦闘力を如何に最小化するか、が「戦略」であり、戦闘開始後に自戦闘力を如何に最大化するか、が「戦術」です。

ハンニバルは優れた「戦略家」でした。


夜明け前の騎兵急襲の報に飛び起きたローマ軍司令官センプローニウスが見たものはローマ軍騎兵に押されるハンニバル軍騎兵。ティチーノの戦いで圧倒的な強さを誇ったハンニバル軍はローマ軍騎兵に押され散り散りに退却している。

それを見たセンプローニウス、正に自分が考えていた「ハンニバル軍は食料に不足している」という思いを一層強くします。ハンニバルとの戦い、雌雄を決するのは今だ。いや、今しかない。全軍にハンニバル軍追走の指示を出します。

ローマ軍の勢いに押されトレビア川を渡り退却するハンニバル軍騎兵。追うセンプローニウスはここで一気に殲滅すべく全軍にトレビア渡河を命じます。

このトレビア川、冬でも凍らないのはただ単に流れが速いから、というだけの理由。夜明け前の河は氷のように冷えていました。

この川を渡るローマ軍。起きたばかりの兵士たちは身を凍らせ数名は川の流れに耐え切れず流されていきます。かじかみながら川を渡ったローマ軍の前にあったものは、夜明け前からしっかりと食事を取り、身体を温め、川を渡れるように全身に油を塗ったカルタゴ兵士の隊列。

冷たい川水にさらされ満足な食事も取っていないローマ兵士たち、この時点でハンニバルの「戦略」は100%成功でした。

あとは自戦闘力を最大化する「戦術」の勝負です。

カルタゴ軍は総勢4万、うち騎兵1万。

対するローマ軍は渡河前の状態で総勢4万、うち騎兵4千。

ここに第二次ポエニ戦争第二戦、トレビアの戦いが幕を開けます。


戦術は布陣に現れます。

ローマ軍は伝統の中央に重装歩兵を配しあくまで中央突破。一方、ハンニバルは自軍中央は現地で調達した兵とも言えないガリア歩兵。しかし両翼に広がるにしたがって戦闘力の高い騎兵を配置。


(図1)

ハンニバルの基本的な戦法は包囲戦法でした。中央の歩兵が争っている間に両翼の騎兵が敵を包囲する、というもの。

包囲戦法の本当の意味は「敵の主戦力の非戦力化」。前面の敵には圧倒的な攻撃力と防御力を誇る重装歩兵も、ほぼ鎧を身に着けず半裸のガリア歩兵のスピードに追いつくことが出来ず、ただ彼らを追うだけ。いや、「追わされる」だけ。

両翼の騎兵は数も戦闘力もハンニバル騎兵が勝っています。進めば進むほど重装歩兵の背後が空くことになり、そこに機動力で騎兵が入り込めばうしろはがら空き。ましてや重装歩兵の最大の武器、槍は急激な方向転換に向いていません。

(重装歩兵部隊)

更にはトレビア河の林の中には昨夜、ハンニバルが仕込んだマゴーネ率いる伏兵部隊2千(図1の下部にある青いユニット)。この伏兵が川沿いを駆け上がりローマ軍の背後をたたいていきます。最強を誇ったローマ重装歩兵はなす術もなく敗れます。

第二次ポエニ戦争の第二戦目、本格的な会戦としては初戦、トレビアの戦いはハンニバル軍の圧倒的な勝利で終わります。

すべてはハンニバルの計算どおり。唯一の計算違いといえばあれだけ苦労してアルプスを越えさせた象の生き残り3頭が会戦ではまったく動かず戦略にならなかったことのみ。

この戦いの数字的結果はこのように記されています。

・ローマ軍
歩兵36,000
騎兵4,000
うち死傷20,000

・カルタゴ軍
歩兵30,000
騎兵10,000
象3頭
うち死傷者はほとんどガリア傭兵でありカルタゴ兵はほぼ無傷。
象2頭死亡。


戦闘自体はカルタゴ軍の圧倒的勝利だったものの、この戦いでカルタゴ軍が得たものは多くはありませんでした。真冬の曇天の中での戦いであったため、ローマ司令官の敗走を許すことになりましたし、更に言えば先の戦いで父である執政官を救った16歳の若兵を今度も生きて逃がすことになりました。この若兵は何度もハンニバルの勝利を目の当たりにしながら幸運にも生き延びたことでその肌でハンニバルの戦いぶりを学ぶことになります。


得るものは少なかったとはいえ、偶然始まった言わば局地戦のティチーノの戦いと違いこちらはローマ軍とがっぷり四つに組んだ戦い。この戦いで圧倒的な勝利を遂げたハンニバル軍の名声は鳴り響き、兵志願者が急増します。アルプス越え直後には2万6千まで減っていたハンニバル軍は5万を超えるまでになっていました。



正当な戦いであればローマ軍の勝利を疑っていなかったローマ元老院、ハンニバルの戦術には恐れをなします。

ハンニバルに敗れた2名の執政官は任期を終えローマに帰還しました。敗軍の将は十字架刑に処すカルタゴと違い、ローマでは決して敗軍の将に処罰を与えませんでした。これは前線で戦う司令官に後塵の憂いなくただ目の前の敵に専念してもらうための措置です。
しかし執政官の任期は任期。2名は執政官の役を辞し、新たな執政官が任命されます。セルヴィリウスとフラミニウス。

当然のことながら彼ら2名に託されたのはハンニバルのローマ侵攻の阻止。

彼らにはそれぞれローマ元老院から2万5千ずつの兵を与えられ、ハンニバル撃破を命じられます。

ハンニバルがどのルートを辿ってくるかを誰も予測できない以上、軍勢は二手に分かれるしかありません。

このとき、2つのローマ軍が予想したのは「既に5万の軍となったハンニバルはここぞとばかりに平易な道をたどってくるだろう」というもの。「あれだけの苦労をしてアルプスを越えてきたのだ、今は困難な道を取るはずがない」

「そんなはずがない」と思った時点で既に次の戦いの勝敗が決まっていました。



…to be continued...