浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

ローマ人列伝:ハンニバル伝 7

2009-03-29 10:38:52 | ローマ人列伝
ハンニバルを追ってローマを出陣したローマ軍総計8万7千。彼らの動きをハンニバルは手に取るように知っていました。調査兵によるものかどうか今では定かではありませんが、兵士の数、率いる執政官の性格までしっかりと把握していたと言われています。

ローマ軍の兵数と自軍の戦力を比べれば圧倒的に食料が足りない。一度体勢を整えるためローマからは離れてしまいますが、食料補給のため南下しカンネーに向かいます。

カンネーは豊かな町。標的ローマからは遠ざかることになりますが10日分しか残っていなかったハンニバル軍、潤沢なカンネーを落とすことにより有り余るほどの食糧を確保します。

一方、ローマ軍、ハンニバルがカンネーに駐屯した報を受け、誘われるかのようにカンネーへと向かいます。ローマ軍は騎兵を最大限活用したいハンニバルの思惑には気づいていました。しかしここに来てまだ、もう一回言いますが、ここに来てまだ!彼らは自分たちの強み、重装歩兵がハンニバル軍に有効であると思っているのです。だからこそカンネーに広がる平原を自分たちにとって有利な場所と思っていました。

ここに過去から学べなかった弱さがあります。

以前は負けたとは言え今回の兵数はハンニバル軍5万に対しローマ8万7千。この兵数であれば負けるわけがない。

ここに来てまだ!「負けるわけがない」と思っているのです。


両軍はカンネーの村すぐそばのオファント川付近の開けた平地に陣を引きます。

ここでにらみ合うこと約2ヶ月。

このにらみ合いの2ヶ月間、大きな戦いは起こらず小競り合いのみ。しかもその小競り合いはことごとくローマの勝利でした。
一度などローマの死者が100名程度に対し、ハンニバル軍の死者が千を超えたことがあります。今までハンニバル軍の悪魔的な強さを伝え聞いていたローマ軍の中に「ハンニバル軍くみし易し」の雰囲気が流れます。

なんのことはありません。

ハンニバルはポーカーでも麻雀でもプロが素人に使う手を使っただけです。つまり「はじめ軽く勝たせて後でごっそり」

気をよくしたローマ軍は全軍のうち1万を川の向こう岸に待機させます。本格的な戦いになった場合にもしハンニバル軍が川を渡って退却しようとしたら待ち伏せするために。

ここまでハンニバルは何一つ動きませんでした。彼はローマ軍がハンニバルを警戒していたことを知っていました。今はあくまで「ローマが先に手を打っている」とローマに思わせることだけが彼の目的でした。

そして本格的な戦いが始まります。

(注:以降、戦略図が続きます。ぜひ画像が閲覧できる状態でどうぞ)


執政官ヴァッロ率いるローマ軍の布陣は両翼に騎兵、中央前列に軽装歩兵、その後ろに重装歩兵。あくまで中央突破を狙うため歩兵は中央を厚くしています。

対するハンニバル軍は同じく両翼に騎兵、中央前列はガリア歩兵、その後ろにカルタゴ歩兵。ローマの一の太刀、中央の厚い歩兵に対するためにガリア歩兵は弓形に沿らしてあります。


開戦直後、あくまで中央突破を目論むローマ軍歩兵に対してハンニバル軍はガリア歩兵で応戦します。さすが歴戦のローマ軍の中央歩兵攻撃は厳しいものでしたがカルタゴガリア歩兵もよく戦います。とうぜん、じりじりとガリア歩兵は下がり弓形が崩れていきます。


ローマ軍は数の有利を活かしカルタゴガリア兵の中央を攻め続けます。結果、カルタゴガリア歩兵は2つに分離します。


分離した中央部から姿を現したのはアルプス越えからハンニバルに付き従ってきた古参のカルタゴ歩兵。ローマ軍はカルタゴ=ガリア兵という第一陣を打ち破ったので、あとはカルタゴ兵を打ち破れば戦闘終了、と確信します。

もちろん、この一連の動きは稀代の戦術家ハンニバルの用兵によるものでした。中央のカルタゴ歩兵の不利(という見せ掛け)の一方、騎兵同士の戦いは数に勝るカルタゴ軍有利で進んでいました。

ローマ騎兵をカルタゴ騎兵が打ち破ったと同時に2つに分かれているカルタゴ=ガリア歩兵は更に外へと移動します。もちろん、これはローマ歩兵を更に奥へと誘い込むため。


既にローマ騎兵は壊滅。カルタゴ騎兵はより深く入り込んだローマ軍のうしろを狙います。


分離したカルタゴガリア歩兵がローマ軍の両脇を、騎兵が背後を囲んだところで勝負あり。


障害物の無い平地にも関わらずローマ7万の兵はハンニバル軍にすっぽりと包囲されることになります。囲まれたローマ軍の中央付近にいた兵士の多くは敵の剣による「戦死」ではなく、将棋倒しになり味方に押しつぶされる「圧死」によって命を落とします。

ここにいたり、平地での会戦ながら7万の軍勢を5万が包囲し殲滅させる、という歴史に名高いカンネーの戦いは決着をしました。

司令官ヴァッロは退却の一途、ハンニバル軍の逃走を阻止するため後方に置かれたローマ兵1万は司令官を失いほぼ全員が捕われ捕虜となりました。

両軍の被害はローマ側が7万の死者、そして1万の捕虜。ハンニバル側の死者はわずか5千。



屈強を誇ったローマ重装歩兵は完膚なきまでに敗北します。

ピリッポス2世が発明し、アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)に受け継がれ、古代マケドニアの主戦力となり、一時は地中海世界を征圧した重装歩兵戦術、いわゆるファランクス戦法はここに完全に終焉を迎えました。
そして今までその存在は知っていてもその使い方に気づいていなかった「騎兵」の戦い方の時代が始まるのです。


カンネーでの圧倒的勝利と共に名将ハンニバルの名が地中海世界に響き渡ります。既にハンニバル支持の北のガリアに続き、東の大国マケドニア、更には第一次ポエニ戦争の発端となったシチリア島の国シラクサがハンニバル支持を表明しローマは孤立します。

そのローマの窮地を救うべく名を上げたのが、「ローマの盾」「ローマの剣」と呼ばれた2人の老将軍、そしてティチーノ、トラジメーノ、カンネー、3つの戦いを目の当たりにし、ハンニバルの戦い方をその目と肌で学んだ25歳、スキピオでした。


…to be continued...