浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

ローマ人列伝:ハンニバル伝 2

2009-03-24 18:30:22 | ローマ人列伝
ルーレットにしても「黒、黒、と続いたから次は黒であるはずがない」と思ったら黒が来たりする。更には「黒が3回も来たからもう黒が来るはずがない」と思ったら更に黒が来たりする。

すべてのことは起こりえます。

「そんなはずはない」と思った瞬間に勝機は失われているものです。

ローマ本国攻めを目指したハンニバルに残されていたルートはローマを北から攻めるルート。そしてこれは誰もが「無理だ」と口をそろえるルートでした。というのもイタリア半島の北には天然の城砦とも言えるアルプス山脈がそびえているのです。


(衛星写真によるアルプス山脈)


(左モンブラン、右マッターホルン)

いわばイタリア半島の北はローマにとっての天然の城壁でした。これがあるからこそ、ローマは後塵の憂いを感じず地中海制覇に集中することが出来たのです。

「北からローマを攻める」と宣言するハンニバル、兵士たちは全員口をそろえて「無理だ」と言いました。

ハンニバルは決して蛮勇に任せ不可能なことを行う人間ではありませんでした。

ハンニバルは知っていたのです。多くのガリア人たちが家畜を引き連れてアルプスを越えていることを。

ハンニバルの武器の一つは「情報」でした。現地に多くの調査兵を送りその事実を捉えていたのです。現地の非武装民が出来ることが我々に出来ないはずはない。さらにもう一つの武器は「人の心を読む力」でした。恐れられていた現地ガリア人たちもあくまで自分たちの敵がローマであることを伝えれば、そして幾ばくかの金を渡せば決して自分たちを襲うことはない、ということを彼は既に読んでいました。

ハンニバルは5万の兵とカルタゴ本国(アフリカ)から連れてきた37頭の象を従え、エプロ河を越えます。

「ハンニバル、エプロ渡河」の報は早速ローマ本国に届きます。ローマ元老院はハンニバルの狙いがピレネーの南側、スペイン全土の掌握であると思います。スペイン本土にはいくつかローマ同盟都市があるものの、まだ未開の地、決してローマにとって惜しい土地ではありません。よってローマは対カルタゴ対抗戦を、カルタゴ本国海軍によるシチリア攻めにしぼり防備を固めます。


(青い点線がハンニバルのルート)

しかし続いて届いた報は「ハンニバルがアルプスを越えようとしている」というもの。ここに来てローマ元老院は29歳の若きハンニバルの思惑が一切分からなくなります。5万の兵と37頭の象を従え、アルプスを越えようとするなど何を考えているのか、単なる若気の至りなのか。

いつの時代も自分の理解を超えたことに対する人間の対応は変わりません。それは「無視」。誰もが無謀に思えるルートを進んでいるハンニバルのことを元老院は無視し、とりあえずの戦線であるシチリア防衛に専念します。


一方、アルプスの麓にたどり着いたハンニバル軍。周りの山岳民族は見慣れぬ大軍、そして見たことも無い象という動物に敵意をあからさまに見せます。無用な苦労はしたがらないハンニバル。金を送って彼らを懐柔します。目下、彼の敵はこのアルプスの山々、現地の山岳民族などにかまっている暇はありません。

真冬ではないとは言え9月のアルプス。雪は舞い兵士の体力を奪っていきます。アフリカ生まれの象はそもそもこんな気候の中では動こうともしませんし、一歩踏み外せば谷底という危険な中では野生動物の勘で一切、足を動かさなくなることもしばしばでした。そのたびに兵士たちは後ろから象を押します。少なくない人間が谷底へと足をすべらせ、その断末魔は兵士たちを更に凍えさせます。


このような状況の中、なんとかアルプスを越えさせたのはハンニバルの将としての行動でした。屈強な兵であればあるほど、金や見せ掛けの名誉には命をかけません。彼はただ、自分たちが信じた将のために命をかけるのです。そして将を信じるのは言葉ではなく「行動」です。

ハンニバルは決して多弁な将ではありませんでした。しかし多くの言葉以上に彼の行動は多弁でした。

アルプス越えの最中も、彼は兵に守られて安全な兵の中列にいることをせず、常に兵士と共に最前列に居、時には自らおびえた象を押しました。いつやってくるかわからない山岳民族の弓矢に常に警戒し、もし矢の一本でも飛んでくればすぐに駆けつけました。

雪吹きすさぶアルプスでの夜営の際、兵士たちは束の間の休息を取るハンニバルの近くを通るときには腰に下げた剣を手で押さえたといいます。せめて自分たちの司令官の眠りを妨げるような音を出さないように。

塩野七生はこう書いています。

優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの人間ではない。
率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。持続する人間関係は、必ず相互関係である。


敵であるローマ人には悪魔のように恐れられたハンニバルは自軍では「この人についていく」と兵に思われたと共に「この人には自分たちがいなくては」と思われた将軍でした。


アルプスの麓を発ってから9日後、やっとアルプスの登りの道を終えます。人も馬も象も疲労の極地にありながら、ハンニバルは全軍を集め東の空の下にかすかに見える平野を指差します。

「あそこはもうイタリアだ。イタリアに入りさえすればローマの城門の前に立ったと同じことになる。もうここからはくだりだけだ。アルプスを越え終わった後で一つか二つかの戦闘をやれば、我々は全イタリアの主人になれる!」

兵士たちの咆哮。ハンニバルは2日間の休息を全軍に命じます。



峠越えは下りのほうが楽、と考えるのは素人の考えです。正解は「上りも下りも辛い」。

なんとかアルプス越えの登りの道を終えたハンニバル軍、ここからは下りの道です。しかし、時期は9月。寒さと雪は日を追うごとに厳しくなります。更には凍った下り道、足を滑らすことも多くなりました。

アルプスを下り終えた頃にはもともとの5万の兵が2万6千まで減っていました。下り終えた平野でハンニバルはアルプス越えに要した日数と同じだけの15日間の休息を全軍に告げます。

ローマ軍が襲ってくることは無い、と確信しての休息です。

なぜならここの付近にはローマの同盟都市はなく、もし襲うのであればハンニバル軍がアルプスを越える、ということが分かった時点で進軍していなければ間に合いません。その報を聞いた元老院が自分たちの理解を超えた戦術を「無視」したために生まれたハンニバル軍に取っての時間的メリットでした。

メリットを最大限に活かしたほうが勝つ。ハンニバルはこの時間的猶予を最大限に活かします。まずは当然、兵士にとっての休息として、そして自ら近隣のガリア人の懐柔に動きます。5万の兵が半減することはハンニバルにとっては計算のうちだったのかも知れません。

近隣のガリア人は多かれ少なかれローマ人に恨みを持っていました。彼らを概ね金で(カルタゴは兵士を傭兵で賄うのが常でした)、場合によってはハンニバルの武力で、兵士としていきました。アルプスを越え多少疲労が見えるとはいえ名将ハンニバル、ガリアの都市トリノを一日で落としたという記録も残っています。

5万で出発し、2万6千まで減った軍隊はガリア兵の増強により3万6千まで回復していました。

目前へと迫ったローマ軍との決戦に先立ち、ハンニバルはこれまでの行軍の過程の途中、捕虜にしたガリア人に命じます。

「希望するものには決闘を許す。決闘に勝ち抜いたものには武器と馬を与え自由を許す」

多くのガリア人奴隷が決闘を望みました。それを見守るハンニバル軍の兵士たち。彼らの間には奇妙な共感が生まれました。自分たちは何のために戦っているのか。敵はガリアでもカルタゴでも、ましてや辛いアルプスの山道でもない。すべては打倒ローマのため。自由のための決闘を行うガリア人の勝者にも敗者にも、ハンニバル軍兵士は惜しみない拍手を送りました。

決闘が終わった頃、ハンニバルは自軍の兵士たちに向き直り語り掛けました。

「これからローマとの戦いが始まる。いま、諸君が見たものは見世物ではない。諸君がローマとの戦いで今のガリア人たちのように戦えば必ず勝利できると約束しよう。

我々の後ろにはいま越えてきたアルプスがある。このアルプスにまた挑戦したいと思うものもいないだろう。

今の我々にはローマ軍に勝つか、それとも敗れて死ぬか、2つの道しか残されていない。我々は勝者になりさえすれば不死の神々さえ望めない報酬を手にすることになるだろう。シチリア島、サルデーニャ島といわず、ローマ人が所有しているすべてのものが我々のものになる。

休息はじゅうぶんに取ったと思う。これからはスペインを出てアルプスを越えた今日までの苦労とは違う。同じ苦労でも報酬が待つ苦労だ。

敵将が誰であるか私は知らない。だが誰であろうと戦いの陣幕の中で生まれ、宿営地の中で諸君らと共に育ち、勇将ハミルカルを父に持った私とくらべられるわけがない。スペインからアルプスを越えイタリアに辿り着いた私に敵う将などローマにはいない。

戦争は必ず勝つ。そして勝ったあかつきには諸君らにカルタゴでもスペインでもイタリアでも望むところに土地を与えよう」

アルプス越えという偉業を成し遂げた彼ら、15日間もの休息をたっぷり取った彼ら、そして今、目の前で本当の戦いというものをガリア人に見せられた彼らは自分たちの将の演説に大歓声を上げました。

その歓声を現実的な戦果とすべく、まずハンニバルは敵軍視察のために騎兵6千のみを率いて東に向かいます。行き先は最も近いローマ駐屯地ビアチェンツァ付近。


ただ、奇しくもローマ軍も偵察のためにビアチェンツァから騎兵、軽装歩兵あわせて4千の兵で西に出発したところでした。偵察隊ながらそれを率いるのはローマ執政官、つまり軍総司令官コルネリウス。

第二次ポエニ戦争初の戦いはこうした偶然により始まります。舞台はティチーノ川。


…to be continued...