つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自由

2012-01-02 | Weblog
ただなんとなくというしきたりで、
毎年のことだからという行事で、
これといった意味も無く、
これという意味も知らずに物事を為しても、
なんら利益となることは無く、気休めということにもならない。

意味のあることと勝手に思い込むことの勝手を、
正しく使えて自由という。そうでなければ、勝手にはいかない。自由にはならない。

念じることと信じることの差には、振り回されることと動じないこととに分かれる。
‘あなたを信じていたのに’ということには勝手な念いがある。そのためにまことができずに、
その念いに振り回されて、逸脱した行為となってしまう。人が変わったようにとげが出る。
‘あなたを思っているから’ということには勝手にまことがある。
まことがあるものにはふりまわされることはない。信じている為である。どんなことがあっても動じることが無く、
逸脱してしまうことは無い。乱されることがないのである。それは、すべてを受け入れている為である。
勝手に念じずに、まことに信じることにシフトしていくこと。
それが、心念となっていく。その力が悪の浄化となっていく。心念の力は、浄化されたものが現れてくるために、
あらゆる災いが無害となってくる。「念彼観音力」=‘彼の観音となった心念の力’である。

自由というものは、どうして?なぜ?ということのこたえである。
自分がここにこうしているのも、自由でもって いる。
どうしてそんな性格なの?
それも自由である。
質も仕組みも自由でもってなっているのである。
自由勝手である。その自由を知らなければ勝手にはいかない。
コメント
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