つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

運動する

2012-01-29 | Weblog
エネルギーがあった。なぜあったかは自由である。その自由が集まり巡る動きとなり、
始まりと終わりがなくなって、永遠の動きとなった。
これがなくなることの無い理である。何ものにも影響されることの無い単独の存在である。
唯一の存在である為に、百千万劫難遭遇といわれる。つまり、これ以外は存在しない。
存在しないということは、影響したりされたり無い、できない、考えることもいらない、できないということである。

巡る変化が新たとなるもので、変化に対応した現象となっている。
まるで何も無いところから生じてきたように見えるが、もと(エネルギー)が在していたからの有となっている。
無から有は生まれることは無く、有としての存在、自由だったからである。
この自由から物語は始まった。
廻る動きで空間が生まれ時間が生まれ、すべてが高速で廻り動いているために、
静止しているようになる。高速で走る車の中のようなものである。いっしょに同じ速さで動くものは、
止まっているのと同じ感覚となる。

動きの無いところには変化は無く、空間も時間も無い。
どんなに距離が離れていても瞬時である。
それはどういうものかといえば、たとえて、夢の世界である。
夢の世界には時間も空間もない。そのために、瞬時場面が変化する。時間も過去現在入り雑じる。
未来が夢となることは無く、未来が夢と現れるのは、想念の自由によるためである。気にしたことに振り回されてしまう為の現象である。
夢の世界は心の世界である。だから、心にも時間が無く年は取らない。そのため、肉体は衰えても心は若い。
そこに差違が生じ、こんなはずでは・・と思う。
肉体は、エネルギーの変化に対応して生じる無常のもの、心は記憶でつくられていく常住のもの、生命エネルギーである。
幾多の記憶の統一されたものが現生命である。記憶が正しくつくられていなければ欠陥生命となって、苦しむ世界となっている。
現世にいるのは、未だ覚れないでいるための証でもあり、覚る為の機会でもある。

人の経験が記憶となって智慧となる。実際に自分で行うということは、自然に学ぶということである。
その自然に学んだ経験が智慧として身につく。たとえて、コツ、要領である。それは他人にはわからない。
それを教えて、知識である。知識は他人の経験が正しいとして学ぶものである為に、いくら教えられても、経験としなければ忘れる。
身につかないのである。
・・よいこととして学んでも、行為となっていかなければ絵に描いたもちである。
よって、動くことである。さしも祈らず動くことである。そして、他力を仰げばよく道理が守ることとなるものである。
コメント
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