つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

般若心経の功徳

2012-01-28 | Weblog
災害を予知して、そのための準備をしても死ぬ人は死ぬ。
災いから逃れようとしても、普段の行いが正しくなければ、
逃れられることもなく、また、そのような人ほど恐怖して死んでいく。
人の世はもう閉じられようとしている。災いから逃れられることはない。
それは、人というすべての人に降りかかるもので、善人悪人という別はなく、地球上の共にあるものとして、
運命共同体である。
人にも様々な人がいる。各生き物達もそうである。まったくの別人であるが、同じ人として捉えられる。
犬は犬、様々な種類がいるが、
他の生き物から見れば犬という一つの同じ姿形であるとして捉えられる。なんら違いが無い。
生き物は皆、種が同じであれば同じに映る。
地球上の一つの生命として、同じ運命である。

ある種が以上に増えてしまえば、自滅行為がされて均等が保たれる。それはその種の中での行為であって、
他に及ぼす害はない。そのために、それで済む。

なぜこうであるのかというのは自由である。自由を持ってしての存在である為に、
それ以外の理由はない。なんら目的を持っての存在ではなく、自由によっての存在である。
あなたはなぜそういう性質なのかと聞かれて、生まれつきとしか答えようがない。

人も異常に増えて、互いを殺しあいながらも増え続けていく。それは、他に害を及ぼしながらの増減であり、
種の中での範囲におさまらないものである。そうなれば、一つの星の自由に当てはまらずに、自ら滅していく自由となってしまう。

がん細胞が、不滅の細胞となって増え続けていくが、増え続けていく基盤をも蝕んでしまう為に、結局のところ自らの
破滅となってしまう。常住のあり方を知らないための果である。それは、なんら目的を持っているものではないためである。
生命もまたその意味、目的を持った存在ではない。種の保存、子孫繁栄のために増え続けるものでもない。そう思うのは人の勝手な判断である。
その身勝手な判断をもってしての不自由となっていくものであるために、自由がきかなくなっていけば肉体は滅してしまう。

生命というのが、エネルギーの法則によって創られているものである為に、エネルギーの法則が無くなることのないものとなっているために、
生命もなくなることが無いとなっている。生命の自由によって、法に対応した姿形となってその環境に現れている。
肉体は、生命の真の世界を創る為の媒体にすぎず、生命は、肉体を持っての行為が記憶のエネルギーとなってつくられていくものとなっている。
その記憶の統一されたエネルギーが、生命の現象世界である。魂の世界、心の世界、想念の世界である。生命の住む世界である。
人は、だから、死ぬ為に生まれ生きていく。その記憶があの世となっていく。
それだから、記憶に悪があれば、悪のある世界となって、天国となってはいかない。
恐怖を抱いたまま死んで行くもの、執着、不安、怨念、苦しみ、悲しみを記憶に宿し気にしていくものは、生命世界が地獄となっている。
これらはみな悪であるために。
肉体が人の死と見ても、生命そのものの無とはならない。幾多輪廻する。生まれるのはただ苦しみである。
生きていくのは苦しみである。そう覚えて、生まれることを覚えるな。
そうすれば、どう生きていくか見えてきて、輪廻から解き放たれて、悪の無い世界が創られ、永遠にその現象の世界となって、そこで生きている。
そこには、好きな父母がいる、兄弟がいる。友がいる。家族がいる。好きな人がいる。好きな・・・ばかりである。

無知を無くす。それもこれも自由である。
心の自由を智慧で持って判断しなさいと、心経は訓える。
これこそ、般若心経の功徳。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« こころこもり | トップ | 運動する »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事