つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

何も知らないためにという世界

2011-09-19 | Weblog
人生に行き詰まり、苦しくなってどうすることもできなくなり、
苦肉の策、死を選択する。自殺である。自死といえば聞こえはいいが、普段、
自分の死をどのように心に据えるかなどと思ってもみない。
とっさに、あるいは狂気でなければ自殺はできないことである。
勇気などではない。
苦から逃れる為の恐怖の手段。
何もかも無にしてしまえば楽になると思う短絡的な行為。
すべてが無知から起こる行為である。もう
楽になりたくて、怖くて怖くて仕方が無く、その怖さに犯されて正しい判断ができなくなるために、
誤った行為となってしまう。
恐怖に侵されて死んでいく人の先には恐怖だけである。
そこに慈悲の慈などは微塵も無い。苦しくして死んで行く人の先は、そのまま苦しみのままなのである。
だから、恐怖を抱いたままで死んではいけないのである。なぜか?縁だからである。

死がわからないために、すべての恐怖の元となっている。
死というものが理解できたなら、恐怖も無くなっていく。
もともと宇宙の法則(エネルギーの法則)に恐怖は無く、善悪も無い。だから、絶対善の動きとなっている。浄化の法となっている。
善悪も恐怖も人の判断がつくっているのである。

生命は肉体に宿って目的達成の為に生きている。
肉体は生命ではなく、仮の宿である。道具である。
向こう岸に渡る為に船が必要であるように、肉体を船として生命は彼岸に渡るのである。

生命というのはエネルギーであり、そのために、死というものが無い。
死が無いのは、エネルギーの法則が無くならないという法則となっている為である。
滅することの無いもので永遠となっている為である。
生命が未完なものであるために、動きを持って完成されたエネルギーを目指す。
完成されたエネルギーとなれば、動くことは必要としなくなる。それこそ永遠に変わる事の無い世界で、
その自由を持って生きていられる。
生命というエネルギーが求める世界である。

苦があるから楽を知り、楽だけの世界をつくりたいとしての生命である。
無知であるために誤り、誤りを知り正して進化する。進化が生命の目的達成のための成果である。
一つ一つ乗り越えて、なるべく早くたどり着くために、諸行無常にして輪廻する。
進んでは後退するときもあるだろう。一時の肉体を離れて、リセットされ、亦、心は子供の動きとなって無知から始まる。が、
さまざまに入れ替わった生き様の記憶は、根本の生命に刻まれていき、まとまって、生まれたときの子供の心となって宿る。
進化が誤った進化となっていれば、生命の目的には程遠く、苦の生き様を繰り返す。
六道輪廻であるが、人は、人としての縁である為に、人として生まれ変わる。が、心の世界である。
心がその六道の世界に入り、その姿の現象となる。そのために、正しい縁を作ることである。

正しく生きれば、死は恐怖となるものではなく、
未来世に希望が持てるものとなっている。
何度生まれ変わって、生命の目的である涅槃寂静となるのだろうか。?
自分の心しだいとなっている。
無知であれば、何の為に生きるのか、死が何の為にあるのか知ることも無く、
ただ、輪廻していくだけである。
一切皆苦の世であるために、生まれ変わるのは苦しみである。
だから、輪廻からの解脱が生命の目的である。
肉体を持って正しく生き、無知をなくしていくことである。


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一過

2011-09-18 | Weblog
究めて、たどり着いたところはいたって質素である。
至って質素であるために、極めたものには飾りが無い。
すべてをはらんでいるために、無のようになりシンプルである。
空きが無い。
如来の姿に飾りは無く、けれども煌煌と毫光が彩る。
本物の力というのは、外から飾らなくとも内から美が湧き出てきて、
神々しくある。
質素こそ最も美しい姿である。

簡素な生活を心がけて、
必要以上を求めない。
捨て去って亦
生まれてくるものである為に、なにもかも
ため込まないことである。
一過性にして生きていく。
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是に無知

2011-09-17 | Weblog
どこかに長けていても、どこかが抜け落ちていて、
人に完璧な人は無く、愚かであるほど物知りを装う。
誰も先など知らないものを、あたかも神のように物申す。

完璧でない為に少しの過ちも許される。
過ちを知り、改められて完璧が作られていく。
はじめから完璧は無く、もまれて作られていくものであるための
理屈であるが、それも度を過ぎれば難しい。

ほどほどとしての世である。
そのために、
一生涯懸命に生きられることは無く、ほどほどにして成るものであるとして、
道理で生きている。
だから、一生懸命に生きてはならない。
疲れてしまうだけである。疲れてしまうところに、災いは起きてくる。
病であったり、事故であったり。「一生懸命に頑張っていたのにね」という、一見、よい人のところに悲劇が起きるのは、
それは、道理通りであるからである。
また、
悪い人は悪い目に会うのも道理。法則である為に、
泡沫の世においての見栄えとは違い、その果は正しく現れる。
悪い人は悪いものによって裁きあうのである。
後の世において、その先の世においても。
今の放漫な生き方のために。


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虚構に満ちていて

2011-09-16 | Weblog
巨万の富があったとしても、
あの世で使えるわけも無く、
この世で墓標がピッカピカでも、
何の意味があるのでしょう。
息苦しく、灼熱の暑さと極寒の冷たさとが織り成され、
安らかに眠ることさえできない空間に置き去りにされて、
大気に返ることもなく、そこに拘束されている。
ゆらりと揺らめく陽炎は、真実に覆い被せた苦渋の揺らめき。
解き放て、白い骨をすりつぶして大気の中へ。
それこそ千の風となり、うらみつらみも無く、誰に障ることも無く。
墓標は心の中にあるだけで、どこでもいつでも供養となっている。

富が与えた幸せは、虚構に満ちていて、
疑いと不安が消えないもので、真実として見入ることができないものである。
まるはだか、
盾が無く、矛先が向けられたときに盾となるなら、信実となるものだ。
かけがえのない富を持っている人である。
あの世でも無駄になることはない。
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独りであること

2011-09-15 | Weblog
人の世の偉い身分にあるからと、
偉ぶる人ほど愚か者。
地位と名誉に執着し、金にものを言わせるけちな人。
最も地獄に落ちる人。

人は群れて暮らしたがり、群れてこそ病む。
独りを思って寂しがり、独りを楽しむ。
誰を仰ぎ、誰に仰がれることもせず、
指図されず、指図せず、優劣も見ず、振り回されもせず、
束縛から離れて、自由である。
まるで心のように。
あなたは何様?といぶかることは無い。
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悲しい世

2011-09-14 | Weblog
下劣な人というのはいるものだ。
情けないが、そんな憐れな人は多々いる。
真実という事を知らない人である。
この世の欲だけにとらわれている為に、
後先を見ない、見れない人である。
欲望渦巻く世の中だから、そんな人でも欲得に任せて生きていられる。
そんな人だからと言ったほうが合うのだろう。
不条理と言える見える世の中だから、悪びれた人が物理的に裕福だったりする。
ただ真実に無知であるために、真実を知ることもできなく、
それはあまりに可哀想な身の上にある。蔑むべき人であるために、本来、
救いの対象の人である。が、その無知が故に反省することが無く、
自分を省みることができないために、救われることが無い。
他力による導きではあるが、自力が合わさることが無ければ、救われることは無いものである。
彼らは死ぬまでそれをわからない。死んで瞬間、真実を見る。
欲得の波に叩かれ、
後悔という海に溺れる。その形相たるや苦に歪んで。
下劣な人の辿る真実。・・・必ずや死は訪れる。真実である。それでも、
無知でいられますか?

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心の味わい

2011-09-13 | Weblog
欲を長けず、ただその人の為にとしての心使いが
功を奏していく。そのような澄んだ心は不思議なことを生む。
暗雲にわかに掻き曇る中ですら、大事となることなく過ぎてしまう。
不幸中の内にも幸いとなる。
困る様相を見せても困らずに、好転の兆しさえ現れてくる。
大変を大変と思わずに、こつこつと地道にこなし始めていれば、
苦は抜けていき、楽が生じてきたりする。

何かを頼まれたとき、いつも瞬時に、
よくしてあげたいと思えるなら、そんな有り難い事が起こってくるのである。
嘘と思うか、本当と思うかは、心の味わいにある。
よく心をみがいて、味わってください。
最高に面白くなるものですよ。
不思議なことばかりで。
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不可逆

2011-09-12 | Weblog
この世の中は
因果応報というものをもつ。
日々、今日が同じなように明日を予期するが、
いろんなことが起こるので、予期しないことにもあう。
よいことをしていれば(道理に従っていれば)、事がすんなりと済まされていくものだが、
ほんの僅かな隙を突かれて、よい人でもよからぬことに出遭う。
それでも、もともと心が澄んでいて、悪びれの無い人には、
救いの神が現れて、よからぬ事柄も難無く、また、よく事が好転していく。
捨てる神がいれば拾う神がいるのである。
日々、くさりながら生きているのなら、よい事もそうでなくなることを信じて、
くさることをやめて生きてみよう。
僅かながらついた傷が、
いつの間にか広がっていくように、よいこともまた同じである。
よいことをくさらずに、ただ前向きに信じて生きていく。
光はただ前進するだけなのだから。
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人なのに→

2011-09-11 | Weblog
なんとも人の心は浅ましい。
通常は常識人を装っているけれど、
非常事ともなれば、人の心の真が見えてしまう。
人だもの↓と思えども、
人なんだから↑とも思い、高貴な素質のあることを重んじる。

脳は、たびたび騙されてしまう。
浅ましさで得た利の先も利ありと判断。
おとなしくして逃す得の先は損とする。

擬態をもって、獲物を捕らえるものがいることを見ていても、
ありのままと見てしまう。
ただ、
どれもこれも、信じるものにはかなわない。
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戒められる?

2011-09-11 | Weblog
過ぎてしまえば苦しみも
親しく思えてしまう。
昔を懐かしみ
憧れたりもするが、そんなに昔がよかったことはない。

人が憧れたりする昔は、闘いすんで日が暮れての
ほんの少しの平和と思えた頃のこと。
何もかも無くて純朴な景色の頃、何かが芽生えていく
萌える頃のこと。
初めての経験にときめき、めまぐるしさにうばわれる生への希望。
恋にもえて、愛に芽生えて、挫折を知り、切なくも人生を歩む。
そんな、稀な平和を見つけてのこと。

戦いに明け暮れ、お山の大将を好む人、人、人の集まり。
どこの国に於いても、快楽とそれを満たそうとする野望とで生きている。
過去を見て嘲るだけなら
今も昔も変わらない。
ほんの少しの平和を見つけて、そこのところにいるだけだもの。
人災を産むために天罰が与えられ、天罰を知り驕りをなくすことである。

自然の非情さを知り涙ぐむなら、
人は、わざと人をめがけて非情をする。
それこそ涙の甲斐も無く。
2000~2100中、
2001,09,11・2011,03,11
2012,12,22,21.03=未来は不確定である。
切に、「我が身に置き換えて」という浄化をもって変化する。
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