つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

不自由な自由

2011-09-24 | Weblog
動物には動物のそれぞれの生き方がある。
共存はしていくものだが、
人のように暮らしていくのは不都合である。
かわいさのあまりに支配欲に駆られ、ペットとして
そのものの自由を変えてしまう。
独自に生きる術を奪うのは、何人にあれしてはならないことである。
自由を奪うものはまた、自由を奪われるものとなるのであるから。
あなたが誰かに支配されたくないように、他もまた支配されたくないものである。
我が身に置き換えて物事を考えたとき、誰を仰ぐこともないものである。
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こころというもの

2011-09-24 | Weblog
心経の説く心のありかたを常日頃より実践して、
智慧を身につけていれば、臨終に際して恐怖も無く、むしろ未来世に希望を持つことができる為に、
顔は穏やかで笑みを浮かべて他界となる。さて、そのような人の
死んだ瞬間、テレビ画面が移り変わるように、目にもとまらぬ速さで死後の世界が現れる。
そのために、死んだということに気がつかなく、死後の世界であることにさえ気づかない。
なぜなら、この世と寸分違わない世界であるから。心は、この世で死んだ自分の身体を他人と判断してその場を見る。
それは、自分がそこで生きて見ているからである。これは、
生命に死がないために起こる現象である。自分の死は他人であり、自分で自分の死に立ち会う。周りの人は夢と同じ人であるために、
家族も知人も夢の人達である。だから、誰も自分を不思議な人(死人)とは思わない。自分の心の現象の人達であるためである。
生前の家族が知人が、あなたを偲んで涙していても、自分の心の家族知人は、あなたと同じである。
夢がこの世と同じであり、夢を見ているとき、夢の世界だと思わないのと同じである。
夢が心の世界となっているように、死後の世界も心の世界となっているのである。
だから、既存の地獄が天国があるわけではなく、自らの思いで創られる世界となっている。
地獄へ天国へ行くのも心のあり方である。
凡そ、俗世衆生というのは、心経で説く心を呑み込めないでいる。

死んで無に帰すという思いでいるなら、好き勝手生きたほうがよいはずである。
死んで無に帰すという思いと矛盾があるために、ぴかぴかの墓を作り、冷たく狭いところに骨をしまう。
誤解が商売となって、金をかければ成仏できると思っている。
骨もなにもかも気である。自然に帰して大気にまじりあって、それこそ千の風となりそよそよと吹くものを。

無に帰すことなく連なっていく為に、心をみがいて、死後の世界を天国としていくのである。
悟ることができないために、連なっていく世界となっているもので、悟ることができれば
行為が伴い輪廻を脱して、時間も空間もない永遠の自由の世界、死後の世界、真の生命の住む世界となっていく。
未だ無知にあり、そのために何劫という時を転生していくのである。それは、ただただ苦しみに他ならない。
未来世に生まれ変わるまでのあの世に於いても、亦
未来世に於いても苦しみはついてまわる。
苦しく死ぬ人は、あの世も未来世も苦しく、時間空間を持たないあの世に於いては、その心故に
絶対世界となって、変わらない世界となる為に抜け出すこともできなくなってしまう。
それこそ、地獄という。
心故にである。

地獄に仏。是という法則の慈悲の慈である。無くなることのない慈悲である。
慈の世界を創るか、悲の世界を創るか、心の持ち方によって(臨機応変)とでも言おうか
変わるのである。
何にしても自分に懸かるのである。
心をみがいてすべてが美しくなっていく。
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