つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

あの世の実体

2011-09-04 | Weblog
人が死んで
いつか亦生まれてくるときの間まで、
あの世というところにいる。生命は、肉体を失ってはいるが、
魂が刻んだ生前の記憶が現象となって、
そのままあの世という世界がつくられていく。生命が肉体を持って活動していた記憶が、
そのまま現象されていくために、どのような思いが刻まれているかによっての世界となっている。
そのために、この世のすべてがそのままある世界となって、少しも現世とかわらない。
思い想い(記憶)の世界であるために、苦しい想い、怖い思いを抱いていれば、現象の世界は恐怖の世界となっている。
つまりは地獄となってしまう。
人が死んでしまい、肉体を失っても、生命はエネルギーの法則によってなくなることが無い。
エネルギーの法則がなくならないためである。生命もまたエネルギーそのものであるからである。
何度も繰り返して言うが、エネルギーあっての世界である。そのエネルギーの性質が回る性質となっているために、
始まりとか終わりとかの無いもので、止まることのない動きとなり、無くなることの無いものとなっている。
その中での事柄であり、回る変化によって、増減、生滅があるだけで、だから、根本、増えもしなければ減りもせず、
変わらないものとなっている。
生命は法によって、肉体の生滅を繰り返しながら、変化に対応して生きている。
記憶というエネルギーが、生命エネルギーとなり、何世代にもわたる思いの統一されたものが心となって、その時(肉体を持ったとき)の
心となっている。その判断で人は生き、その心に突き動かされていく。その人の性質である。

人が死ねば人でなくなるために、死が人の経験とならない。
経験とならないことは、どんなに知ろうとしても人はわからない。
わからない事を想像で語ってしまえば、その正誤がわからなく、語られたことが誤っていても
正せなくなってしまう。だから、釈迦は語らなかった。弟子達にあの世の事を聞かれても答えなかった。
生前、どんなに苦行をして悟りを開いても、死後の世界を知ることはできなかった。そのために、答えることはできなかった。
だから、生命の空白の時間(場)、世界であるとしてとしたのである。
空しいとか、実体が無いとかと解釈してしまうものではない。現象の世界という実態である。
人の思いが創るという生命の実体の世界である。その釈迦の語ることのできなかった世界を証明したのが菩薩である。
生前、釈迦の教えた行を修し、悟りを開き、観自在菩薩と呼ばれるようになった人の死後の世界から、
同じく、釈迦の行を修している修行僧の一人、舎利子に修行が縁となって降臨、乗り移り、啓示となって語ったのが
般若心経である。真実、死後の世界から語られたものである為に、嘘のないものであり、その効力ははなはだすばらしいものであった。
釈迦の説いた修行が間違いの無いものであり、死後の世界の実体が語られ、法則を簡潔に説き、凡人でも悟れる(救われる)方法を
語ったものである。それゆえに、人々がよく苦より救済されていった為に、般若(一般人)の要の経典となって、広く知れわたっていったのである。
救いとは、現世の救いではない、生命そのものの救いである。
生命の実体はあの世、永遠に変わらない世界、時間の無い世界、法則の世界である。
それを幸せ(天国)とするためである。
コメント
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