つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

すすんでする苦

2006-04-19 | Weblog
自然のものは人を育てる。

人の作ったものは便利で、人が楽になるように作られる。
そのために人を育てない。

自然は人に合わせることは無く、ままに動く。
然りに合わせて、人が動いて、人のすべてが育まれる。

便利なものに染まるほど、人は弱くなる。
弱くなればなるほど、他に頼る。

己に頼れと釈迦は言う。自己をよりどころとせよと。

戸惑いながらも、迷いながらも自己を鍛錬し、磨き上げていくことだと教えている。
自分を厳しさにさらして強くしていけば、その理にかなう。自然にかなう。

便利になれば楽になる。楽になればなるほど、憂いが生まれる。

諸行無常であるために、楽が続くことは無い。そのために、楽でいるためには楽を選ばず、
進んでする辛さを選ぶとよい。
いやでも苦はやってくる。だから、したくない苦をするよりも、あえて自分でできる苦るしい、辛いと思うことをしていくこと。
そうすれば、したくない苦はしなくて済んでいく。

どうであれ苦は苦である。どんな苦でもしたくはない。あたりまえである。が、人の
思うままにはいかないのが自然である。
苦があっての楽であるために、苦は避けられない。
だから、絶対したくない苦を避けるために、日常の耐えていける苦(自分から進んでする辛いと思うこと、苦しいと思うこと)を行っていくのである。
そうすれば、絶対したくない苦は相殺されてしまい、しなくて済むことになる。

えてして、人は善行は難しいことで、苦しいことと思っている。
だから、それを行っていけば、善く人は育つ。


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「しん(心)(芯)」がきれいでなければ・・・

2006-04-17 | Weblog
 見た目がきれいな人であっても心が美しくなければ、なんにもならない。
心さえきれいにしていれば、化粧しなくてもきれいになる。
ほんとうのことだよ。

さびている鉄にきれいに色を塗っても、けっしてきれいにはならないのと同じ。
時間が経てば、さらに汚くなっていく。

人は鉄ではないけれど、事は同じだよ。

どんなに姿かたちを彩っても、心(しん)が、芯が汚れていればきれいになることはないよ。
まなこ無い人は騙されてしまうけど、時が経つとそんな人でも汚かったことを知る。

心が主であり、心にもとずくものだから、こころ(芯)さえきれいにしていれば、
真に容姿端麗となるんだけれど・・・
そんな人を見たことがありますか。
そんな人を見つけられますか。

ちゃんとした「まなこ」さえあれば、見つけられるんだけど・・・
或いは、そんな人はひとりもいないのかもしれないかも、双方、今は・・・。
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ややこしいだけで、むずかしくはない・・・

2006-04-14 | Weblog
何億もの精子の中から選ばれて生まれた。たまたま、たまたまなこと。
稀有なこと。
そんなことを思えばものすごく貴重な人生。
なのに何も知ることなく、ただ生まれたから生きているというだけ。

偶然とも思える生まれが、本当にただ偶然だけだろうか?

何もない処からは何も生まれない。
あるから生じてくる。
何もないということは、何もないと思うこともできないこと。もちろん語ることもできない。
何もないと言えるのは、あるために言えることで、本当に無いとすれば、
このように「無」について思考することはできない。
すべては「有」の中での「無」としているもので、だから「無」は「無い」ではない。
すべて「有」の存在であるために、その中に「無」はない。

「ある」から目的を持って生まれてくる。
偶然ではない偶然で生じてくる。そして、
無知として、知ることを欲する。
智を得れば、解脱となっていく。
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幸せではない事

2006-04-13 | Weblog
 今生は何の因果で辛い人生を歩むのか?
過去世においても、来世でもこの境涯であろう?

生まれ変わって未来世は幸せになろうねと今生を悔やみ、心を慰める。

生まれ変われるんだと喜ぶことは哀しいことである。
生まれ変わっても、生まれ変わっても、苦しみは無くならない。
今、少しばかり良いことをしたとしても、来世に良い境遇に生まれるとは限らないし、報いによって幸せな処に生まれたとしても、幸せとは限らないし、
幸せになれるともいえない。

振り返って、今生辛い人生だったから、今度生まれてくるときは、「人生、間違わず生きてやる」と思っても、果たして、生まれてきたら、子供の生命となって、子供の動きとなって生まれるために、記憶はリセットされていて、何も覚えていない。

何も知らない動きとなって、亦人生繰り返す。
ただただ苦しみの世を迷う。

輪廻は、けっして良いことではない。
生まれ変わることじたい幸せではない。
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輪廻は苦しいだけ・・・

2006-04-12 | Weblog
自分に問いかける。「自分は何のために生きているの?」「今まで何を経験してきたの?」
「生きてきた意味は何?」
「生きていく目的は何?」「これから何を体験していくの?」
「どこからきてどこへいくの?」

これらの事柄は、自分という肉体が証拠となって、それで証明していける。
自分を証拠としてみながら観察していけばよい。

すると、生きていくことはただ苦しいことだとわかってくる。
このことが分かってくると、生まれていることに執着がなくなる。
これが理解できれば、神を信じなくても、信仰をしてなくても、輪廻を信じていなくても解脱は得られる。
執着=煩悩が消えていけば、その行き着く先は涅槃となる。

神や仏を信じて信仰していればそれにこしたことはないだろうが、
そういうことを一切信じていなくても解脱はできていく。

この世は、何度生まれ変わっても、苦しいだけで、どんな境遇に生まれても苦はなくならない。輪廻転生は苦しいだけである。
ただ生き続けることは何の意味も無い。
その苦しみ続ける生命が輪廻を離れるには、人が生きているうちにその原因である煩悩をなくしていくことである。
執着=煩悩をなくし、心の平安を体験していくことである。
心の平安を経験としていくことが解脱となる。涅槃となる。

生まれてきて、人生としているときだけ叶うことである。

すべては無くならないとした判断が元となる。

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まばゆくて、目が見えず、心を失う

2006-04-10 | Weblog
必要以上に自分を飾り付ける人がいる。
両手に何個も宝石の指輪をはめて誇らしげにする人。
そしてその腕にも、耳にも、首にも、頭にも、と
きりが無く。

それをすばらしいと見るのか、悲しいと見るのか。

貪りの強さが見て取れる。
我が我がという浅ましい姿。これでもか、これでもか、というきりの無さ。

輝きを得たものを、その輝きの使い方を知らないために、己の醜さを、輝きに照らして、さらしている。

輝きの力を知ることなく、飢えて死んでいく子供たちがいる。
ある人の体にまとわれている輝きは、正しく力を示せず、苦しむ人に届かない。
命を救える力のある輝きも、誤ると醜さを照らし出し、
ただ哀しく輝くだけ。そして、くすんでいく。

苦しむ者に手を差し伸べる者は、まばゆいほどの美しい輝きを放つ。
多くの青く澄んだ瞳の輝きに包まれて、さらに自らが宝石のように光り輝く。
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死んでしまえば、後の祭り・・・

2006-04-09 | Weblog
どんなに悔やんでも、死んでしまえばなにもできないし、してあげることもできない。 生きているときだけが可能性を秘めている。

誰でもわかっていることだと思うが、時間はただ無駄に過ぎていることが多い。

死んでしまえば、二度と再び同じ人に逢うことはない。
あの世に行けば会えると思うだろうが、あの世に行ってもけっして同じ人に逢うことはない。
それは、夢を見れば分かる。
夢の中で会う友は、夢の中の友であり、現実の友ではない。
ただ自分の記憶の現象の友である。
夢の中で友と会っていても、現実に友は自分のそばにはいない。
物事も伝わっていない。

あの世も記憶の現象の世界である。
生前、やりのこしたことがあったとして悔やんでも、それは後の祭りである。
この世のことは、この世にあるときだけしか叶わない。
それだけに、生前の時間は大切なのだが・・・。

この世の声があの世に届くことも無く、あの世が何かをしてくれることも無い。
絶対交わることの無い世界となっているために、死んだ人に逢うことはない。
死んで、あの世に行っても、前に死んだ人に逢うことは無く、ただ
記憶の現象の人に会えるだけである。
記憶の現象として会うものである。
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愛と勘違い、欲

2006-04-08 | Weblog
ある日、好きな人ができて、夢中になり、見境が無く、のめりこんでいく。
その人が欲しくて、虜になった。
欲の虜となって、愛して愛して尽くしていった。

愛は通じて、互いに必要となる。 いくらかの間、互いの心を愛と信じ過ぎていく。

二つの影をおとして、一本の道はつづいていたが、進むにつれて、分かれ道に出逢う。

そのどちらか一方を二人が選ぶことなく、双方別々の道を選ぶ。
一人は右に、一人は左にと。
道は大きく離れてゆき、けっして交わることが無くなる。
二度と目が逢うことがなく、振り返って軌跡だけが残る。
甘酸っぱく、ほろ苦く、セピア色にそまり、うすくほこりがかかって、置き去りになる。
ただありのままに残る。

一番愛した人が、一番遠くの人となり、一番欲しかったはずが、一番いらないものとなる。
愛と思っていたのは、互いの我欲。
束の間のつかの間の出来事。

一番愛した人は、一番遠く離れる。
これを知り得て、優しい人となるならば、互いの踏み台となっていた過程が、
報われる。
いちばん愛した人は、いちばん遠く離れる。
いちばん知っている人が、いちばん知ることのできない人となる。
これを知り得て、我欲を捨てる。
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思いの力

2006-04-05 | Weblog
 死後の世界はある。そして、来世に生まれ変わるとしても、
亦、人に生まれる。
けっして、他の生き物に生まれ変わることは無い。
それは、縁によるものであるためである。
人は、人としての行為をし、経験をつんでいくために、この繰り返しが、絶対となり、縁となっていく。これが法則となっているために、無くなることが無く、続いていく。そのために、人は人として生まれ変わる。
この縁を滅して行けば、人との縁はなくなる。

たとえば、人として生まれたが、オオカミに育てられ、オオカミとして生活し、
オオカミとしての行為をしていけば、その繰り返しの経験が絶対となり、正しいとなって、縁となっていく。そのために、姿は人としていても、やがて死んで、
今度生まれてくるときは、オオカミそのものの姿となって、オオカミとして生まれてくる。縁起の法である。

釈迦は、もう二度と人として生まれたくないとした強い思いが、修行となって、
悟りを開いていった。そして、縁起の法を発見することができた。
その釈迦の修行が、完全なものだったために、人との縁を断つことができ、
輪廻することがなくなった。
だから、釈迦の啓示は一切無い。

二度と生まれたくないと思ったのは、人生は苦るしいものだからである。
この世に生まれてくること事態、苦しみだからである。
輪廻することは苦しみだからである。
人生には、それなりに楽しいこともあるだろう。
幸せと感じるときもある。生きていてよかったと思うことが必ずある。
でも、その何倍もの苦しみがほとんどである。
必ず訪れる死の恐怖からも逃れることができない。
どんなに美しくても、やがて醜く、朽ち果てる。
この世は、「一切皆苦」なのである。
この苦から逃れるために、修行となっていったのである。

心念の力が、極めたのである。



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良い人

2006-04-02 | Weblog
 良い人になろうとして、日々努力する。
誰からも好かれたいと、いつも気をくばり、頑張る。
自分は良い人なんだと自負する。

そんななか、悪い人に逢う。
この人は悪い人なんだから、悪い目にあって当たり前として、悪く対処する。
意地悪をして、困らせてやろうとする。悪いことをする人なんだから、悪いことにあって当然として、その人によからぬ事をして、悪い目にあわせる。

はたして、自分は良い人?
良い人はどんなことに対しても、良く対処する。
悪いことはしないから良い人なのに。
意地悪をして、困らせようとすることは、良い事?

どんな人にたいしても、良からぬ事をするのは、良い人ではない。
「目には目を」は、良い人のすることではない。

特に懲らしめようとしなくても、悪い人は、必ず悪い目にあう。
自らの悪によって、懲らしめられる。

善を守る悪は、善にはならない。

「人は修善を断じつくして、ただ性善あり。仏は修悪を断じつくして、ただ性悪あり。」 智の言葉である。
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