つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

慈を解けば・・・

2006-04-21 | Weblog
社会生活を排除して、知識に左右されない心としていくために、山にこもる。
知識でつくられた想いをなくして、自然の想念としていき、理の判断となるようにしていくために自然の中で暮らす。
これを識滅の修行として。

誰とも会わず、人の知識を受け入れないようにして、自然の法則を体験していく。
その体験が智慧となる。
智慧で得た判断が法則の判断となる。
法の判断となるために、迷うことが無く、考えることが無く、物事に即断できるようになる。
そのために、事故にあったとしても瞬時に避けることができるようになる。
すべての災いにあわなくなる。
これが識滅の行の結果である。
智慧の身についた判断の結果である。

識滅の修行がされない者は、けっして悟りは開かれないとしている。

どうしても社会生活をしていれば、雑念が入る。
様々なよからぬ刺激を受ける。煩悩をなくすのは難しい。
女を女として見るなといっても難しい。まして凡人にはなおさらのこと。
そのために人里はなれ山に入る。ほんとうの出家である。

ただ現代社会ではこのような出家は難しい。まずできるものではない。

だとすれば誰も悟りは開けないのか?救われないのか?
・・・と落胆する。
がしかし、そうでもない。出家しなくても、山にこもらなくても、
(僧)坊主でなくても、信仰無くても、(僧)坊主にならなくても誰でも悟りは開くことができ、苦しみから救われていくことができると説かれているのが
般若心経である。
この般若心経を誤り無く解いて、行為としていくことによって、誰でも悟りは開けるとして説かれたものである。
大衆のための唯一つの法の慈である。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする