つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

是を知る

2013-08-11 | Weblog
法が円運動であるために、日の回りが絶対正しいとして法を是としている。
是であるために、決まった時間に決まったところを決って通る。
何もかもが狂いなく回るのである。だから、そのその昔、何月何日は晴れで、
何月何日は雨の日で、何月何日には風が強く吹く日で等、天気も決まっていた。
狂いなく回るのが法則であるための予めである。
エネルギーは廻る変化によって、変化に対応したエネルギーとなって現れてくる。
完全に変化に対応したエネルギーは、動く必要もなく完成されたエネルギーの形となっている。
鉱物などは完成されたエネルギーであるために、動く必要は無いものとなっている。
植物などもそうである。地上で一番進化した生命エネルギーといってよい。
動くものは未完成エネルギーであるために、動きながら変化に対応している。
人は動きながら変化に対応しているために動物であり、その動きはすべて法の動き円運動となっている。
だから、目をつむりながらの移動は直線的に進むことはなく、必ず曲がってしまう。
他の動物もそうである。曲線的動きをする。それは円運動が法則となっているためである。
山の中でどれも同じ景色で道に迷えば、行けども行けどもぐるぐる回り、何度も同じところに返ってきてしまう。
その広さは、その人の行動範囲の広さによって戻ってくる。
人に直線的認識が外れてしまえば、まっすぐに歩くことができないのである。
その時、法の動きとなって、ぐるぐると同じところをまわるのである。
日常的にも、人の動きは法の動きとなっていて、必ず元に戻ってくる動きとなっている。
行ってきますと家を出て、ただ今戻りましたと帰ってくる。生活のすべてが円運動となっているのである。
それはまた、元に戻るというための浄化の動きでもある。円運動というのは浄化の動きでもある。
法則が浄化の法則となっているために、人の行為も浄化の行為となっているのである。そのため、
人生正しく浄化となっていれば、法に沿うことであり、よく道理に守られていく。
事多い中でも、その巡りがよくなっていくのである。

人の体も廻っている。意識しなくとも法の動きとなって、止まることがない。それは、法が止まることがないためである。
片時も止まることなく正しくリズムを刻んでいる。
外部から取り入れた栄養でもって、良くも悪くもなる。それが変調であり、何かが起こる兆しである。
悪いものを食べれば悪く、よいものを食べればよく変化していく。
意識もそのように同じである。
だから、受想行識の世界となっている。
此の世は、外部からの刺激を受けて、想行識が作られていくのである。
受けた刺激を正しく浄化して、終には天国が作られるものである。
人という動物の生命エネルギーである。
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