唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変ー三性分別 その(3)

2010-04-24 23:56:12 | 心の構造について

 專立寺さんの日記に掲示板の言葉が紹介されていました。自分の身勝手さを実に柔らかく、そして厳しく表現されていましたので紹介します。 專立寺さんとは先日の永代経からのお付き合いになります。これからも日記を楽しみにしています。 

昨日は一日雨がふり続きました。

「朝、目が覚めたら、大雨だった。
 困ったなあと思いました。
 ますます大雨になりました
 わたしが勝手に困っているんだなあと思いました」

横山定男さんの言葉です。

掲示板の言葉をまだ紹介してなかったので
日記に書きました。

 *--*--*--*--*--*--*

世の中の苦しみは
一切自分勝手です

  ー横山定男ー

*--*--*--*--*--*--*

「困ったなあ、嫌だなぁと思って苦しんでいる。
 そのことは、どう考えても自分勝手なことだった。
 世の中の苦しみは、一切自分勝手です」

難波別院の機関誌『南御堂』新聞のカメラマンを
されておられた横山さんは、
若くして仏教の教えに出遇われ、
深い念仏者としての言葉と、
カメラのファインダーを通じて感じ取られた
人間のありのままの姿を素朴な言葉にして残されました。

その言葉が綴られた『ありのままがありたい』が難波別院から
発行されていています。

その詞集の中には、

「あたりまえのことを、
 そのままそうですかと言えるようになったらと、
 ひそかに喜んでいます。
 あたりまえを、そのままではなく、
 わたしが勝手に解釈して、その思いにしょうと思っている
 そんな人がいっぱいです。
 あたりまえは、あたりまえです
 この世の現実そのもの、
 そのままがあたりまえのようでございます」

「世の中の一切のことに、
 そんな筈ではなかったと、述懐するのであろうが、
 それは自分の勝手な思いを言っていることなんです。
 思い通りにならんなあ、そうはいかない。
 いろいろの出会いに会いつつ、
 あれもこれもその通りにいただけるようになれたらなあ、
 と思うことでした」

 というお言葉があります。(4月23日の專立寺日記より)

專立寺さんのHPはhttp://www.geocities.jp/y_saffron/ です。

唯識にもどります。

 「倶非とは謂く無記なり。善・不善に非ざるが故に倶非と名づく。」(『論』)

 倶非とは無記のことである。善や不善ではないので、倶非と名づけられる。六転識は三性(善・悪・無記)の価値体系からしますと、すべての性質を備えているのです。(「六識は三性倶なるべし」)

 「別して釈するに三有り。初めに正しく頌の文を解し、次に争って同異を申べ、後に果位は是れ何の性に摂むということを顕す。」

 「(初めに)の中に又ニ有り。初めに三性を解す。名字隠れたるが故に先ず解す。」(『述記』)

 倶非とは無記性である。三性の中の無記性であり、何故倶非と名づけるかは、倶非の自性は善・不善ニ種の自性ではないことを顕すので倶非という。無記の名を解釈することは後に述べる。且く何を名づけて善とするのかを述べる。(『述記』取意)

  1. 「善」について説明する。 「能く此世・他世に順益するに為(おい)て、故(かれ)名づけて善と為す。人天の楽果は、此の世には能く順益を為すと雖も、他世に於いてするに非ず。故に善と名づけず。」(『論』)善の定義が示されていますが、此の世の楽果だけを求めるのではなくニ世に亘って順益(利益=安楽)をもたらすものを善というのですね。『述記』をみてみますと「此れと(現在)他(過去・未来)とのニ世を順じ益せしむるを、方に名づけて善と為す。謂く有漏の善は前世(過去。現在に対す)にも益し、今世(現在・未来に対す)にも益し、後世にも益し、倶に楽果を得、人・天の仰ぐ所なり。無漏の有為・無為も亦爾なり。」と。即ち有漏(煩悩をもつもの)の善は三世にわたって、有情を利益し、楽果を得させるといい、また、同様に無漏の有為・無為の善も亦有情を利益し、楽果を得させるといいます。無漏有為の善は悟りの智慧です。無漏智のことで煩悩に汚されていない智慧のことです。因縁によって生起するのが有為ですが、その有為が無漏であることの善ですね、それと無為無漏の善、すなわち生滅変化せず煩悩の汚れのないこと(真如・涅槃)の善は、有情をして生死を超える智慧をもたらすものなのです。ここで大切なことは有漏の善、煩悩にまみれて行う善行もまた善に入ると云われていることです。煩悩にまみれてはいても、小さな、些細な善も大切にしていかなければばらないと思います。そうだからこそ「雑毒の善・虚仮の行」という慚愧も生まれてくるのでしょう。無漏の善が有漏の善になっていく第七末那識の働きを見つめる眼差しがありますね。「此世と他世とに生・死に違越せり。得あり、証あり、及び涅槃に由ってニ世の益を獲。」と説明されています。生死を超えさせる得が有り(無漏智は得るもの)、涅槃は証するもので有り、その涅槃に由って此世(現世)と他世(当来世)のニ世の利益を獲て、もはや悪趣に生まれることはないといわれています。 (続く)

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