今日は私事ながら息子の大学の入学式でした。多くの学生が新しい校門をくぐって夢の一歩を踏み出しました。親は何処までも子供の応援団ですが親としては不安と希望の織りなす複雑な気持ちになりました。小・中・高の入学式も挙行されますが、みんな自分の居場所を早く見つけてほしいものです。「みんなちがって、みんないい」(金子みすず童謡集より)そんな世界に、おおらかに、力づよく生きてもらいたいと願うのです。
お昼からは(僕は三時ごろ伺いましたが)鶴見区茨田大宮の専立寺さんの永代経の会座に参詣させていただきました。僕は同じ区内に住んでいるのですが非常に頑張っておられるお寺さんなのです。僕の勝手かもしれませんが、寺の御住職さんは御門徒さんと出来るだけコミニュケーションをもっていただいて開かれた寺を目指して戴きたいのです。寺の敷居を高くしているのは僕の思いなのですが、その思いを破って開かれた寺を目指しておられるお姿に敬服しました。困難なことは多々あると思いますが直球一直線で頑張っていただきたいと思います。法話は難波別院教務部長の墨林師で心のこもった仏法をお聞かせいただきました。特に私の居場所の問題、現代は居場所喪失の時代相を呈している中で「座」とは何かを御話しくださいました。『観経』の「憂悩なき処」をテーマとして私の本当に求めているものは「無憂悩処」であると指摘され、それを邪魔している問題は自分の中にある「自分さえよければ」という自己中心にあるといろいろな譬えの中で明らかにしてくださいました。最後に御恩ということで、御蔭さまと感謝するのですが、反対に影と云う負の問題にも謝することができるのかという問題も指摘されました。影も御影様なのですね。負の問題とは自分にっては非常に都合の悪いことですが、この問題に手を合わせる事が出来た時、御蔭さまが生き生きと働き、輝くのではないかと教えられました。貪欲・瞋恚・愚痴は三毒の煩悩といわれ私たちの心を蝕んでくるのですが、この煩悩が本当は何か、何が真実なのか、そして私は一体何を求めているのかを探し求める縁となるのですね。煩悩は悪ではないのですね。「無憂悩処」を求める限りない縁となるのです。煩悩を断ずる必要のない世界を親鸞聖人は命がけで探し求め私たちに示してくださいました。如来回向として。それが正定聚住不退と私の居場処を明らかにされたのです。