唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変ー自性行相 その(2)識という別名について

2010-04-20 23:52:13 | 心の構造について

 「斯に由って、兼ねて所立の別名をも釈して能く境を了別するを以って名づけて識とは為すが故に。」(『論』)

 「心意識の三種名の中に名づける所の識の別名なり。能く境を了別するを名づけて識と為す故に。謂く了別の行麤なるが故なり。心と意とを識と名づくに非ず。」(『述記』)

 「斯に由って」とは「了境為性相」を指し、立てられた所の別名をも説明して、よく境(対象)を区別して知ることを以って、識と名づけるからである。

  1. 「心」ー第八阿頼耶識を「心」といい、
  2. 「意」-第七末那識を「意」といい、
  3. 「識」-第六意識は「識」という別名を持つのです。「斯に由って」いわれていました「境を了すること」を自相・行相とも為す、といわれていたことが、同時に別名の識を説明したことになるといわれています。「境を了別」することが「識」と名づけられるからである、と説明されています。そして了別の働きは麤であるからともいわれます。

経典をもって会通する。

 「契経に説けるが如し。眼識というは云何ぞ。謂く、眼根に依って諸々の色を了別す。広く説かば乃至意識とは云何ぞ。謂く意根に依って諸法を了別すと。」(『論』)

 「下は経を会するなり。此の言は解すべし。謂く有るが問うて言く。且く眼識の如きは亦余の根にも依る。境を縁ずることも通じて能く一切の法を了す。云何ぞ、但眼にのみ依って色のみを了すと説いて、六(分別依)と七(染浄依)・八(根本依)との依って声等を了すとは言わざるや。経を牒して問うなり。此の問に答へん為の故に。次の論に云く。」(『述記』)

 『論』に言われていることから、経典の内容について疑問が起こると、『述記』には印されています。経典では眼識は眼根に依って諸々の色を了別すると説かれているけれども、眼識の依り所は眼根だけではなく、分別依・染浄依・根本依の三つとあわせて、計四つを所依としているのではないか。また自在位には一切法を了別するといわれている。にも拘わらず「但眼にのみ依って色のみを了すと説いて、六(分別依)と七(染浄依)・八(根本依)との依って声等を了すと」言わないのか。という疑問です。「眼根に依って諸々の色を了別す」とだけ言われていて自在位には眼識が了別するはずの声等の一切法を挙げないのかということです。未自在位では眼識の対象認識は色境のみですが、自在位では眼識が認識するのは一切法なのです。このことを会通するわけです。前五識の所依・識が依り所とするのは五根だけではなく、分別依・染浄依・根本依の計四つの所依を持つのです。先に述べた通りです。

 「彼の経は且く、不共の所依と未転依の位と見分が所了とを説けり。」(『論』)

 契経は、しばらくは不共依(五根)と未転依の位と見分の認識対象(相分)とを説いているのである。共依を説かないのではなく、ここでは除外しているということです。「未転依の位と見分の所了とを説いた」ということは、已転依の位と自証分も除外して説かないということになります。自証分は相分を認識対象とせず、見分を認識対象としているのです。ここではそれを除外して見分の認識対象である相分を説いているのです。眼識なら色境のみを説いているという事です。 また明日にします。