唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変ー自相行相(本質とはたらき) その(1)

2010-04-19 21:33:49 | 心の構造について

 第三能変は「差別なること六種有り」といわれますように、六識であることです。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識ですが、「差別なること」つまりそれぞれが対象(所縁)を明瞭に認識する働きを持っているという事です。六識は第八識(根本識)を依り所としているのです。所縁はそれぞれ色境・声境・香境・味境・触境・法境であることが述べられています。前五識はニ群に分類され(A)眼識・耳識・身識の群で欲界と初禅に働き、(B)鼻識・舌識は欲界のみに働くといわれます。前五識と第六意識はともに表層のこころで、深層の第七・第八識と区別されるわけです。そして表層のこころは麤であり、深層のこころは細に働いていますから、表層のこころは自覚できる心作用であるということができます。第三能変は表層の心の働きを分析した心所論を展開します。具体的には六位五十一の心所論です。心所論は第九頌から第十四頌まで展開されます。そして第十五頌に「根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。・・・」第十六頌に「意識は常に現起す・・・」心は何に依って動き、働くのかを明らかにしていますね。「縁に依る」ということです。それでは自相・行相をみていきます。

 「次に了境為性相(りょうきょういしょうそう)と言うは、雙(そう)じて、六識の自性と行相とを顕す。識は境を了するを以って自性と為すが故に。即ち復彼を用って行相と為すが故に。」(『論』)

 次に「境を了するを性とも相ともする」と言うことは、六識の自性と行相とを並べて顕すのである。なぜなら、識は境を了別することを自性(本質)としているからである。すなわち、また、そのことを以って行相(働き)ともするからである。所縁の境を了別するのは見分の作用(行相)であり、本質は直ちには顕すことができないので、作用をあげて本質も復、了境であるといわれています。(『唯識学研究』取意)

 「中に於いてニ有り。初めに頌を釈し、後に経を会す。此れは初めなり。前の第七の性相の中に解するが如し。」(『述記』)(第七末那識には識の所依論が述べられています。識の所依を種子依(因縁依)・倶有依(増上縁依)・開導依(等無間縁依)により、識相互の関係が述べられています。『専註成唯識論』p79~88)第七末那識では我執がどのように捉えられているのかが論じられ、第三能変では六識の具体的な働きについて論述されているのです。 


日曜雑感 墓参

2010-04-18 18:49:51 | 生きることの意味

久しぶりに晴れ間が覗き日中は少し暖かい日曜日でした。南御堂まで自転車でゆっくりと散歩にでかけました。上の写真は本堂の前で参拝者を出迎えてくれていますブットンくんです。なんとも愛くるしい僧衣姿のブットンくんに思わず心が和みました。手に持っているのはうちわですかね。「仏恩報謝のブットンくんです。」と説明されていましたよ。「掲示板」には金子大栄師の「いのちというのは/同感するはたらきである」とありました。南御堂の法話は「人は自分が悩んでいるときや悲しいとき、誰かに気づいてほしいものである。時には「誰も振り向いてくれない」と不満をもらすこともある。しかし反面、隣で苦しんでいる人がいても、何かあったのかと平然と日々を過ごしていることもある。まことに自分勝手としか言いようのないのが人間である。泣く人に対しては泣く人の心持に同感し、悩む人に対しては悩む人に同感する。いかにもそうであると同感してゆくはたらき」と語られる。私という存在にまでなった無量寿の「いのち」の根底にある同感のはたらきが、今私に、輝いているだろうか。」と道行く人に問いかけられていました。私は「輝いているのか、輝いていないのか、若し輝いていないのならば何故なんだろう」という問いを頂き南御堂を後にして真田山公園を抜け玉造へ自転車を走らせ、そして旧中道本通りへ出て中道墓地へと向かいました。この中道墓地には私が十代のころ大変お世話になった浄琳寺の前々の坊守さん、森家のお墓があるのです。彼此45年の歳月が流れてしまいました。一度も顔を出すことなく師の恩を忘却して今日に到ってしまいました。本当に申し訳のないことです。あちらの岩にぶつかり、こちらの岩にぶつかりながら老境に入って、やっとなすべきことの意味が、命の根底から問わずにはおれない「すでにして道あり」の白道が開かれてきました。随分長い道のりで、幾多の人々に反逆し、恩を仇で返してきたこではありますが、ここまで私を支えてくださったことへ多大の感謝の念を頂くと共に、慙愧をも頂くことができました。決して許されることではありませんが、いのちあるかぎり「いのちの問いかけ」を身をもって訊ねてまいりたいと思います。


第三能変ー了別境識 その(14)故此不説

2010-04-18 12:52:00 | 心の構造について

 「然れども六転識の所依と所縁とは、麤顕(そけん)なり、極成せり、故に此には説かず。」(『論』)

 『述記』には問いがなげかけられていまして「此の本頌の文には唯識を明かすを以って但見分のみを説くと雖も、然も見は根に依って起こり、相は見より生ず。何が故に本文に根と境とを弁ぜざる。」『唯識三十頌』本文には問いが付されていないが、本文は唯識を明かすことを命題としている。なのにただ見分についてのみ説かれている。見分は根に依って起こり、相分は見分に依って生じるのである。にも拘らず何故に本文には根と境について説かれていないのか、という疑問ですね。(見分は認識する働き、相分は認識される対象で、見分の認識対象が相分になります。)その答えが根と境は麤顕であるので説かれていないと言います。詳しくは下の『述記』の文に依ります。

「下は説かざる事を顕す。共依は下に説く。且くは不共依を顕す。頌(三十頌)の中に説かざる事は、一に色は麤にして而も且つ顕なり。ニに乃ち諸論に皆有りて彼此極成せり。故に本頌の中に更に別に説かず。此れは即ち本文に根と境とを説ける頌無きことを会す。」「麤にして而も且つ顕なり」ということです。これは表に非常に解りやすく現れていることなので、凡夫の境界なのですね。そして諸論に皆説かれている(大・小乗を問わず)こと。極成せり、といわれます。極成は因明の用語で主張者と相手側も共に承認していて異論のない事柄をいいます。世論でいうところの、世間一般に信じ、承認されている事柄です。ここでは大・小乗を問わず承認されていることと云う意味になります。

 「謂く本頌の中に初能変の識は、唯所縁を明かし(不可知の執受処)、所依を明かさず。第二能変には倶にニ種ながらを明かせり(彼に依って転じて彼を縁ず)。此の六識は共の所依を明かして(根本識に依止す)所縁をば明かさず。麤にして而も且つ顕なり、又復極成するを以って頌の文に略して説かず」(『述記』)

  • 初能変 第三頌(不可知執受処)で所縁を明らかにしています。
  • 第二能変 第五頌(依彼転縁彼)で所依と所縁を明らかにしています。第八識を所依として転じて第八識を所縁とする、ということです。
  • 第三能変 第十五頌(依止根本識) 六識すべては根本識(阿頼耶識)を所依として働いているわけです。

 「前に義の便に随いて已に所依を説いて、此の所縁の境をば義の便に當に説くべし」(『論』)

 前に(『論』巻四 依・所依の文 専註成唯識論ではp83・『論』巻五 六ニ縁証の文 専註成唯識論ではp103)(義の便に随って)已に所依を説いたので、ここでは此の所縁の境についても(第三能変の別名についての経典の会通の所論を指す。p108)義の便(意義内容をわかりやすく)のために当に説くのである。これはこの後に論議されます。 


第三能変ー了別境識 その(13) 八万四千の法門

2010-04-17 23:56:10 | 心の構造について
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 親鸞聖人が担われた課題は、人間として、人間らしく
生きることはどのようなことなのか。そして仏道の課題として一歩一歩
階段を登るように解脱を求めることが真実の仏道なのかという問いが、「今」という事実の中で確かめるように頷かれたのではないでしょうか。そのことは龍樹菩薩が担われた課題でもありました。「今」解脱をしなければ、解脱は夢物語になるのではないのか。難の質は「いつか、必ず解脱できる」という、今を置き去りにした夢の世界の中に妄想を描き出しているにすぎないことへの限りなき眼差しであったのです。解脱を求める真の課題は「疾く阿惟越地に至る」ことではなかったでしょうか。それは「怯弱下劣の言」といわれようが「大人志幹の説にあらず」といわれても、「今」救済される道がなかったならば救済という事実は闇の中に葬りさられてしまうのではないか、という問いであったのでしょう。聖道の諸教は「行証久しく廃れ」という事実は難の質の中に隠されているものだったのです。「諸々の難行を行ずること、久しく乃ち得べし。或いは声聞辟支仏地に堕す」(『易行品』真聖全p253)といい、「若ししからば是大衰患なり」といわれることに真摯に取り組まれたのではなかったでしょうか。このことは今を生きる私たちの課題でもあるわけです。「意化」するとは八万四千の法門を以って教化すると説かれるのですが、親鸞聖人は「宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」(玄義分)と云えり。」この中の「余」に注目されるのです。解脱をする道は八万四千の法門が用意されていて、縁に随って解脱を得ることができるというわけです。「門余」に由って八万四千が生きて働くわけです。「善導独り仏の正意を明せり」といわれる所以ですね。「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。」(真聖p341)「余」に依って平等に救済される法門が開かれたわけです。

第三能変ー了別境識 その(12) 三業の(教)化

2010-04-16 23:42:24 | 心の構造について

 「成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の化を起し、四記の等きを作すという。若し遍縁ならずんば、此の能無からんが故に」の記述を読みながら、脳裏をかすめて『大経』に説かれる法蔵菩薩の兆戴永劫の修行を思わずにはおれませんでした。その内容は「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起こさず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なし。三昧常寂にして、智慧無碍なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願倦むことなし。専ら清白の法を求めて、もって群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもって衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して、作なく起なし。法は化のごとしと観ず。麁言の自害と害彼と彼此倶に害するを遠離して、善語の自利・利人と人我兼利するを修習しき。国を棄て王を捐てて、財色を絶ち去け、自ら六波羅蜜を行じ、人を教えて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ねてその生処に随いて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応す。無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。」というものです。親鸞聖人は『教行信証』信巻(真聖p225)に引用され、三心一心の問答の帰結として、如来の真実を顕しておいでになります。私たちの考えは因から果に向かうのが常なのですが、本当はどうなのでしょうか。因から果に向かう途中に挫折があり、傲慢になって、自らの経験が最大の武器になっていくのでしょう。体験談が流行るのは自らの経験と願望が重なるからでしょうね。でもね、最後の一線はどうなのでしょう。死生の事・生死一大事には何の意味が与えられるのでしょうか。生死一大事を超えてこそ幾多の経験が意味を持つのでしょうね。「三業の教化」といわれ、「三業の所修、一念、一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。」と教えられることは、「諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。」ということなのではないでしょうか。

 「三業の化とは、身化に三有り。

  1. 神通を現じて(教)化す。 謂わゆる種々の工巧等の処を現じて、諸伎傲慢衆生を催伏するに、即ち是れ悲と慧と平等に運ずる道なり。神通を現じて迦葉等を度するが如くなり。
  2. 受生を現じて化す。 謂わゆる彼の処に往て、同類の生を示して尊位に居て一切の異類の衆生を摂伏するなり。
  3. 業果を現じて化す。 謂わゆる本事・本生の難修の諸行を領受するを示すなり。

 語化に亦三有り。

  1. 慶慰語をもって化す。 謂わゆる宣暢する所は種々の楽に随う文義巧妙にして、小智の衆生、初めて聞きてまさに信ずべし。
  2. 方便語をもって化す。 謂わゆる学処を立て、諸々の放逸を毀し、不放逸を讃するなり。又復た随信解人、随法行人等を建立するなり。
  3. 弁揚語を以って化するなり。 謂わゆる衆生の無量の疑惑を断ずるなり。

 意化には四有り。

  1. 決択意化。 謂わゆる彼の八万四千の心行の差別を決択するなり。
  2. 造作意化。 謂わゆる衆生の所行の行と行と不行との若しは得、若しは失を観じて取捨せしめんが為に対治を造作するなり。
  3. 発起意化。 謂わゆる彼の対治を説かんと欲する為の故に。彼の所楽の名句字身を顕すなり。
  4. 領受意化。 則ち四記に依る等なり。   (『樞要』)

 尚、『演秘』に釈して日くとして詳し論じられています。今は略します。『仏地経』を引用して会通していますことは、三業の化の中の決択意化を表しています。いわゆる対機説法です。機に応じて八万四千の法門が示されます。それにより有情の疑惑を断ち、功徳を与えて彼岸へと導くのです。因から果への道程が果から因に向かう仏道への転換がみてとれます。  


第三能変ー了別境識 その(11) 経をもって会通

2010-04-15 23:51:22 | 心の構造について

  「『仏地経』に説く。成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の化を起こし四記の等きを作すという。若し遍縁せずんば此の能なからん故に。」(『論』)

 『仏地経論』巻六の十種の化の中、第一に神通を現じて化す中の文に説かれていることで、(経を引いて別釈す)『仏地論』第六に広く此の義を解せり。三業の化合して十種あり。其の四説等も亦彼しこに説くが如し。決択心行というは、即ち八万四千の法門意業の化なり。四記も亦爾なり。」(『述記』)

 『仏地経』には仏が有情を教化するのに身・口・意の三業の化(教化)をもって行うことが説かれています。身化・口(語)化・意化ですね。そして身化に三種説かれて(1)神通を現じて化し、(2)受生を現じて化し、(3)業果を現じて化す、と。口(語)化に三種。(1)慶慰語化、(2)方便語化、(3)弁揚語化です。次が意化です。これには四種あります。(1)決択意化、(2)造作意化、(3)発起意化、(4)領受意化になりますが、「決択有情心行差別」は意化の初めの決択意化になります。仏の成所作智が、有情の心行(心のはたらき)を見極めて、それに合わせた巧みな説法(抜苦与楽)で教化することですね。具体的な方法として有情の心根に合わせた八万四千の法門が説かれることになります。機に応じて説かれるわけです。四記とは四記答のことで、他人の問いに答える四種の方法です。(1)決定答ー直ちに肯定する方法で、一向記です。(2)解義答ー問いの意を分別し、いくつかの場合に分けて答える方法。分別記ともいいます。(3)反問記ー反問して問いの意を確かめて答える方法、(4)置答ー答えるべきものではないものに対しては、黙して語らずで、答えない方法、捨置記ともいいます。(四記ー一向記・分別記・反問記・捨置記)

 『論』に云われることは、「仏が成所作智によって有情の心のはたらきを見極め(有情心行差別)て、仏自らが三業をもって教化を行うとき、意業の教化では八万四千の法門を説かれ、有情を教化されるわけです。或いは有情の問いに対して四記をもって答えられます。是が成されるのは遍縁(一切の対象を縁じること)がなかったならば、あり得ないことであると主張しているわけです。『荘厳論』に述べられていました諸根互用の対象が五境であると云われているのは、麤顕と同類によることの相違であると会通しましたが、ここでは『仏地論』を引用して遍縁をもって、諸根互用した五識は一切諸法を認識すると会通しているのです。

 『樞要』に身化・語化・意化について詳しく説かれていますので、次回引用しながら学びたいと思います。

 参考文献『仏地経論』巻六より

「論曰。成所作智。應知。成立如來化身。此復三種。一者身化。二者語化。三者意化。第一身化復有三種。一現神通化。二現受生化。三現業果化。第二語化亦有三種。一慶慰語化。二方便語化。三辯揚語化。第三意化復有四種。一決擇意化。二造作意化。三發起意化。四受領意化。」


第三能変 了別境識 その(10) 相違会通

2010-04-14 23:58:06 | 心の構造について

 「荘厳論に、如来の五根は一々皆、五境の於に転ずと説けるは、且く、麤顕(そけん)と同類との境に依って説く。」(『論』)

 『荘厳論』に説かれる諸根互用の記述に対する会通がこの「且く、麤顕(そけん)と同類との境に依って説く。」という点です。

 「彼(『瑜伽論』)の第三巻の中の菩提品の説なり。此の能は唯、成所作の中にのみ在り。故に唯『仏地』のみあり。或いは即ち初地にありといへり。或いは八地に入る。此れ(『成唯識論』)は是、本義なり。彼の論は一には麤顕(五境)なるに依るといい、ニには同類なるに依っていう。実は一切を縁ずるに皆障碍なし。」(『述記』)

 「論(『成唯識論』)に、荘厳論より同類との境の故に至るは、彼の論(『荘厳経論』巻三・別転変化を説く偈とその釈)の第三の偈を案ずるに、是の如き五根転じて変化して増上を得、諸義所作に遍ずること、功徳千二百なりと云えり。」(『演秘』)

 『荘厳論』引用の偈は五根を転じて変化することを顕しているのです。

  •  問題は前説に「一根が識を発して一切の境を縁じる」と述べられていましたが、『荘厳論』には「如来の五根は一々すべて五境に対して活動する」と云われていることはどうしてかということです。「如来の」と説かれるのは仏果でなければ諸根互用しないので、あえて菩薩の名をあげず、「如来の」と説かれるので、問題は無いとしています。「疏に、或いは即ち初地というより此れは是れ本義なりに至るは、仏地論の中には義に本(義)と別(義)と有り。本を挙げて別を簡べり。」と。本義と別義がある中の本義ということです。
  •  「しばらく麤顕と同類の境によって説く」といわれますように、略して五境で諸根互用を述べて会通しているのです。何によって略しているのかは「麤顕と同類」の二点からなのです。広義の立場は一切境を縁ずるのですが、ここでは法境が除かれて説かれているのです。『荘厳論』では五境を麤顕とする、狭い立場から五境に対する五識の諸根互用を表しています。「同類」は五境は五根の同類と云う事です。五根では、法境を認識することは出来ませんから同類ではないのです。「如来の五根は」といわれていますからその五根の同類は五境ということで述べられているわけです。一切境の諸根互用を否定しているわけではありません。
  •  「成所作の中にのみ在り」。成所作は、成すべきことを実行するということですが、ここでは智慧ですね。成所作智(じょうしょさち)で前五識を転じて得られる智慧のことで、「無漏の眼識乃至身識の五は皆神通変化の所作をなすこと勝れたり、是の故に成所作智となづく。」といわれています。真実は、「一根が識を発して一切の境を縁じる」ことで、一切境について諸根互用であるというのです。

参考文献 『大乗荘厳経論』無着著 大正蔵経31・605上より抜粋

 「自下次説別轉變化。偈曰
    如是五根轉 變化得増上<vbr></vbr>
    諸義遍所作 功徳千二百
釋曰。此偈顯示轉五根變化。此變化得二種増上。一者得諸義遍所作。謂一一根皆能互用一切境界故。二者得功徳千二百。謂一一根各得千二百功徳故。」

 


第三能変ー了別境識 その(9) 諸根互用

2010-04-13 23:20:36 | 心の構造について

 前回からの続きになりますが「諸根互用」について諸論に尋ねてみます。繰り返しになりますが『述記』に「若し自在を得るときは根互用するが故に。何を自在と名づくる。」と問題提起がなされ『仏地論』を引用して「成仏の時に成所作の識(成所作智ー前五識が転じて得た智慧)彼れ方に起こるが故に」と、仏位(果)を自在位とすることを述べています。これが本義になるわけです。「互用」とは『樞要』に「一々の根の処に遍く諸根を有す。各々自ら用を起こす。一根を以って一切の境を得ると云う事は諸根の用各々一切に遍ずるを以って、故に互用と名づく。」と述べられています。即ち、一識が自らの境のみならず、他の境すべてを認識することなのです。例えば眼識ならば、眼識の対象は色境ですが、色境のみならず、声境・香境・味境・触境をも認識することのなるのですね。識は根に依るわけですから根も他の境を認識することになります。『了義灯』には「一識は六境を縁じて、各々自根に依る。境は是れ共せるが故に。・・・一識は通じて六根に依って、通じて六境を縁ず。・・・根と識と不共なり。境は即ち是れ共なり。」として、五境のみではなく、六境の諸根互用を承認しています。法境をも縁じるということです。一切の境を縁ずるということは、五境に限ったことではないという事です。


第三能変ー了別境識 その(8) 六識ニ位

2010-04-13 00:10:13 | インポート

 「境に随って名を立てたるとは、識の義に順ぜるが故に。」をうけて六識ニ位が述べられます。(六識における未自在位と自在位)

 「此の後の境に随って六識の名を立てたるは、五色根が未自在なるに依って説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用するを以って一根、識を発して一切の境を縁ず。但根に随うべし、相濫ずる失無きをもって。」(『論』)

 この後の認識対象に随って六識の名を立てたのは、五識根が未自在であるから説く。もし自在を得たときは、諸根互用するので、一根が識を発して一切の認識対象を縁じることになる。これでは混乱するので、境に随って名を立てるのではなく、ただ根に随うべきである。根に随って名を付けるならば混乱を発する失が無いことになる。「諸根互用」とは、眼識は未自在位では色境のみしか認識しないが、自在位においては諸根互用というお互いの識がお互いの認識対象を共有することになるのです。眼識は色境だけではなくその他の声・香・味・触の各境をも認識することになるのです。他の識も同様の作用をしますね。「眼は口ほどに物を言う」といいますでしょう。また香道では香を聞くといいますね。六識の名は自在位では混乱を発しまうので、未自在位において名をたてるのです。各識の所依に随ってですね、各根に依って各識を立てるのです。

 『述記』に問題提起がされています。「若し自在を得るときは、根互用するが故に。何を自在と名づく。総じてニ解あり。

  1.  初地に随って名づく。無漏の五識現前するが故。
  2.  成仏の時に成所作の識が証するから、前五識が転じて成所作智に成る。
  3.  然るに別義あり。入地の菩薩(初地の菩薩)には無漏の五識現前せずと雖も第六識の後得智を得て五識を引生して浄土等の中にて神変の事を現ずることができる。五識は他の境をも認識することができるので、自在位と言い得るのである。「五識通じて一々一切の異の境界を縁ずることを不思議力に引生せせらるるが故に」
  4.  或いは別義あり。七地已然には煩悩あって現行して絶えざるに由る。殊勝にあらざるが故に自在と名づけず。八地に入る以後に煩悩行ぜず純無漏起こるを以って、五識を引生して互いに縁ずることを得べきを以ってまさに自在と名づく。(七地已然は煩悩が活動しているので自在位とは言い得ないのですが、八地以上は煩悩が活動しないので自在位と言い得るのです。)

 (1)は不正義。何故かといいますと初地は未だ無漏の智慧がおこらないからです。(2)・(3)・(4)は正義として認められています。

 この項はもう少し述べてみたいと思います。(続く)

 


第三能変ー了別境識 その(7) 随根得名・随境得名

2010-04-11 21:05:45 | 心の構造について

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 何故、第六を意識と名づけるのかについて考えていますが、前五識は前滅の意と有色根(五つの感覚器官)とのニの依によるけれども、第六識は等無間(意)と第七識(意)とに依り、ニ倶に意であるから前五識と違って意識と名づける、といわれます。第七・第八と違って間断があるので、所依に随って意識というのです。第七・第八もただ意のみを所依としていますが(互いに意を所依としているということ)、無間断なのですね。
  随境得名(境に随って名を得)
 六識は、所縁の境に随っても名づけられる。 「或いは色識乃至法識と名づく」(『論』) 「此れも亦た依主釈。能く彼彼の境を縁ずる識なるが故に」(『述記』) 「今の解すらく。有財釈に通ず。能有の境を以って色識等と名づく。即ち有財釈なり。・・・謂く六境に於いて了別するを識と名づけり。境を有するを以って名づけて識と為すとは言わず。」(『演秘』)「依主釈」についてーえしゅしゃくと読みます。前の部分である名詞・代名詞が後の部分の性質を制限し規定するとみる解釈の事。水瓶といえば水に依る瓶と云うようなこと。 「有財釈」についてーうざいしゃくと読みます。合釈の事で例として「青蓮を青き蓮華を有する、の意に解し池を意味します。)青連を以って池を形容することです。ここでは六識が「色・声・香・味・触・法」の境を縁じることから(前の部分)、(後の)「色識・声識・香識・味識・触識・法識」と名づけることができるのである。
 「境に随って名を立てるとは、識の義に順ぜるが故なり。謂く六の境の於(うえ)に了別するを識と名づくるをもってなり。」(『論』)
 境(対象)をはっきりと認識するのを識と名づけるのです。ここに問いがだされます。
 「問。眼識の所了の色も亦た是れ法なり。意識の所了に亦た色等有り。何が故に眼識をば法識と名づけず。第六意識を色識と名づけざるや。此の問いに答ふるが為の故に、次の論に云く。(『述記』)
 眼識の認識対象の色もまた法、色法であるから法識と名づけてもよいのに、何故眼識を法識と名づけないのかという疑問がだされるのです。また意識が了別する対象にも色がある。意識を色識と名づけないのか、という問いがだされています。この問いに対する答えが、
 「色等の五の識は、唯色等のみを了す。法識は、通じて能く一切の法を了す。(『論』)
 「前の五識は唯色等のみを了す。境界狭きが故に法識と名づけず。第六の法識は能く一切の法を了す。境を了すること寬きが故に色等識と名づけず。」(『述記』)
 眼識の対象はただ色境のみを了別し、他の境は認識対象にはなりえず境界が狭いので法識とは名づけないのです。他の四識も同じ構造になります。第六意識は「能く一切の法を了す」といわれますように、一切諸法、三世に亘るすべての存在を認識の対象とするのです。「境を了すること」は広い範囲に及ぶので色等識とは名づけないのであると解しています。
 「或いは能く別の法を了す。独り法識の名を得たり。」(『論』)
 『述記』に「別法の義」と「別識の義」の二つの解が説かれます。
  • 別法の義 「謂く十二処の中に別して法と名づくるは、謂く第六の外処なり。(十二処中の六外処のひとつ。六外処は色外処・声外処・香外処・味外処・触外処・法外処)別に名づけて法とすることは、余の境と名を共同せざるが故に。此れは別法をば第六の能く了するを以って、独り所了に随って彼の名を得たり。故に唯、第六識を法識と名づくるなり。亦不共なるに従がって法識の名を得たり。・・・不共なるを以って別と名づくるは是れ本義の意なり」(『述記』) 第六意識の認識対象はひとえに六境中の法境であって、法処は他の五処とは別の法であり、この別の法を第六識のみが認識するので法識といいます。これが本義とされます。
  • 別識の義 「或いは能く法を了別すれば、独り法識という名を得たり」と読みます。                                    「故に六識の名は、相濫ずる失(とが)無し。(『論』) 「この理に由るが故に六識の名を得たること互いに長ずる所あり。相い濫ずる失なし。」(『述記』) 六識は眼根に依り眼境を了別し眼識と名づけられるように、六識それぞれが認識対象を了別している点からお互いに混乱することは無いというのです。