唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変ー了別境識 その(12) 三業の(教)化

2010-04-16 23:42:24 | 心の構造について

 「成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の化を起し、四記の等きを作すという。若し遍縁ならずんば、此の能無からんが故に」の記述を読みながら、脳裏をかすめて『大経』に説かれる法蔵菩薩の兆戴永劫の修行を思わずにはおれませんでした。その内容は「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起こさず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なし。三昧常寂にして、智慧無碍なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願倦むことなし。専ら清白の法を求めて、もって群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもって衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して、作なく起なし。法は化のごとしと観ず。麁言の自害と害彼と彼此倶に害するを遠離して、善語の自利・利人と人我兼利するを修習しき。国を棄て王を捐てて、財色を絶ち去け、自ら六波羅蜜を行じ、人を教えて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ねてその生処に随いて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応す。無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。」というものです。親鸞聖人は『教行信証』信巻(真聖p225)に引用され、三心一心の問答の帰結として、如来の真実を顕しておいでになります。私たちの考えは因から果に向かうのが常なのですが、本当はどうなのでしょうか。因から果に向かう途中に挫折があり、傲慢になって、自らの経験が最大の武器になっていくのでしょう。体験談が流行るのは自らの経験と願望が重なるからでしょうね。でもね、最後の一線はどうなのでしょう。死生の事・生死一大事には何の意味が与えられるのでしょうか。生死一大事を超えてこそ幾多の経験が意味を持つのでしょうね。「三業の教化」といわれ、「三業の所修、一念、一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。」と教えられることは、「諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。」ということなのではないでしょうか。

 「三業の化とは、身化に三有り。

  1. 神通を現じて(教)化す。 謂わゆる種々の工巧等の処を現じて、諸伎傲慢衆生を催伏するに、即ち是れ悲と慧と平等に運ずる道なり。神通を現じて迦葉等を度するが如くなり。
  2. 受生を現じて化す。 謂わゆる彼の処に往て、同類の生を示して尊位に居て一切の異類の衆生を摂伏するなり。
  3. 業果を現じて化す。 謂わゆる本事・本生の難修の諸行を領受するを示すなり。

 語化に亦三有り。

  1. 慶慰語をもって化す。 謂わゆる宣暢する所は種々の楽に随う文義巧妙にして、小智の衆生、初めて聞きてまさに信ずべし。
  2. 方便語をもって化す。 謂わゆる学処を立て、諸々の放逸を毀し、不放逸を讃するなり。又復た随信解人、随法行人等を建立するなり。
  3. 弁揚語を以って化するなり。 謂わゆる衆生の無量の疑惑を断ずるなり。

 意化には四有り。

  1. 決択意化。 謂わゆる彼の八万四千の心行の差別を決択するなり。
  2. 造作意化。 謂わゆる衆生の所行の行と行と不行との若しは得、若しは失を観じて取捨せしめんが為に対治を造作するなり。
  3. 発起意化。 謂わゆる彼の対治を説かんと欲する為の故に。彼の所楽の名句字身を顕すなり。
  4. 領受意化。 則ち四記に依る等なり。   (『樞要』)

 尚、『演秘』に釈して日くとして詳し論じられています。今は略します。『仏地経』を引用して会通していますことは、三業の化の中の決択意化を表しています。いわゆる対機説法です。機に応じて八万四千の法門が示されます。それにより有情の疑惑を断ち、功徳を与えて彼岸へと導くのです。因から果への道程が果から因に向かう仏道への転換がみてとれます。