唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変ー三性門 その(1)

2010-04-22 23:51:02 | 心の構造について

 第三能変の九門の中の第四門にあたります。第一は六識得名・第二は自性・第三は行相で第四で三性門(三性分別)に入ります。三性とは善・不善(悪)・無記(倶非)のことです。この三性については以下説明をしていきますが、要点だけ述べますと、「善」については「能く此世・他世のために順益するが故に名づかて善と為す」人未来際に亘って順益を為すことを善といい、為さないことを不善と云うのですね。「悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと、他世に於いてするには非らず。故に不善に非ず。」とい云い、人天の楽果や悪趣の苦果は此世・他世を問わず善・不善の立場からは倶非なるものになるわけです。六転識との関係では善の心所と相応する識であれば善に摂められ、不善の心所と相応する識であれば不善に摂められると云われています。ここに問題が提起され『論』および『述記』に詳しく説かれています。

 ちょっと横道にはいりますが、「ただ念仏」の一道を歩むのはどのような意味を持つのかを考えてみたいのです。私たちは幸いにも曽我量深先生や安田理深先生の教説に触れる機会を与えられましたが、真実を語られるのは「離言の言」でもって語られますから、両刃の剣なのですね。一歩間違えて聞きますと奈落の底に転落していきます。「指月の譬え」のように、どうしても月を見ず指に執着してしまいます。具体的には実体化の問題です。如来を実体的にみるのかということ、そして衆生を実体的に捉えるのかという問題になります。真実は私が明らかになったということが、如来を証明し、衆生を我が身に引き受けていけるのでしょう。「迷っていると思っていた」ことが「迷っていることがはっきりした」ことが如来の本願を証明するのでしょうね。本願を証明した歩みが迷っているそのまま、おおらかに生きる身に育てられるのではないですか。私がはっきりしないままの議論は両刃の剣で我が身を傷つけてしまいます。我が身の上に何が働いているのか真剣に問い糺していきたいものです。そうすれば如来と云い、法蔵菩薩と云い、十方衆生が我が身の上にどのように関係しているのかがはっきりするのではないでしょうか。唯識教学は聖道の学問ですが、私は信心の内容として唯識から学ぶ姿勢をとっています。明日から三性門の教説を学びます。