唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変ー了別境識 その(3)

2010-04-07 23:43:41 | 心の構造について

 「次の第三能変は、差別(しゃべつ)なること六種有り。境を了することを性とも相とも為す。善と不善と倶非となり。」(『論』)

 第一能変(阿頼耶識)・第二能変(末那識)の考察が終わった次に第三能変が説かれます。第三能変は六識であること。その自性(本体)と行相(認識のはたらき)は境(対象)を了(認識)することです。所縁の境を了別するのは見分の作用、すなわち行相なのです。行相をあげて自性も亦、了境であるというわけです。「善と不善と倶非」といわれますから、善の心にも、不善という悪の心にも働きますが、無記というどちらでもない状態としても働きます。善・悪・無記というすべての性質を備えているということです。「六種有り」とは六種の識。境を明らかに認識する働きです。眼・耳・鼻・舌・身・意識であることです。対象はそれぞれ、色・声・香・味・触・法境になります。そしてこの六識は根本識である第八識を依り所としているということです。第八阿頼耶識は蔵識ともいわれますように、私たちの経験やすべての行為の種子を蓄えているところを依り所としているということは、表層の六識の働きは私の全人格を支えとして働いていることなのです。(識転変ということ)第八阿頼耶識を離れては外界は存在しないということを言い表しています。対象を認識する能縁と認識対象である所縁の織り成すハーモニーが表層の六識として動いているのですね。問題は能縁です。どのように認識されているのかが問題なのです。根・境・識については昨日述べましたのでここでは省きます。

 (六識得名)「論に日く。中の思量能変の識に次で、後に応に了境能変の識の相を弁ずべし。」(第二能変に次で了別境識の働きをあらわす)

 (随根得名)「此の識の差別に総じて六種あり。」(六種の区別)

        「六の根・境とに随って種類異なるが故に。」(識も種類異なる) 『述記』に「根と境と各六別なること有るを以って識も彼に随って異なり。故に多少にも非ず。亦定して別にも非ず。」と六っを一つとして考えてもいけないし、そうかといって別々と考えてはいけない、と云っているのです。(不一不異の義)

        「謂く眼識乃至意識と名く。」(六根・六境に随い六識を名づく)

        「根に随って名を立つるは五義を具するが故なり。」(境に随って名を立てないのは何故かということです。その答えとして五の意義をあげます)

        「五とは謂く。依(え)と発(ほつ)と属(ぞく)と助(じょ)と如根(にょこん)となり。」

        「六識身は皆意に依って転ずと雖も。然も不共なるに随って意識と云う名を立つれば五識身の如く相濫する過無し。」

        「或いは唯意のみに依るが故に意識と名づく。」

        「識の得名を弁するに心・意とは例に非ず。」

 「眼識乃至意識」 これは『瑜伽論』第一に「眼(所依根)に依って色(所縁の境)を縁じて色に似て了別す」と説かれていることによります。五義については「根に依ると、根に発せらると、彼の根に属せると、彼の根を助くると、根に如たるとの故に」

  1.  根に依る識ということで、眼識は眼の中の識を云う意味になり、眼あることに由る識あるということです。意識はどうなるのかといいますと、意は第七識に由るのです。そして色あることにより識があるのではないといい、現に色ありと知ることがあっても識が必ずしも生ずるものではないといわれます。
  2.  眼に発せられる識という意味になります。「眼が変異するに由って識も必ず変異す」といわれます。見道所断に於いて第七識が無漏となる時、六識も又必ず無漏となるといわれています。境は識を発しないということ。 続く