希望(ケモウ)なのですが、、生きる望みがあることと解釈していいと思います。
『摂大乗論釈』(無著造。世親釈。玄奘訳)から意思食を考えてみますと、
「意思食者。是能悕望。由希望故饒益所依。如遠見水雖渇不死」(大正31・332b)巻第三・所知依分第二の三にですね、識食の証明について述べられる中で四食の説明がされています。そしてこの意思食なのですが、「意思食とは是れ能く希望す、希望に由るが故に所依を饒益(ニョウヤク)す、遠く水を見れば渇すと雖も死せざるが如し。」と。
これは希望の喩ですね。此の希望が無くなりますと「望絶便死」(望み絶えて便ち死せり)(『倶舎論』大正29・55b)と喩られていますが、(生きようという意欲の)意思が生きるという希望を抱かせるのですね。つまり、生きようとする意思がなかったならば、望絶便死なのです。
意欲ですが、雑染の欲と善法欲という二つの欲が混在するのです。私は雑染の種子を所依としているわけですから、雑染の種子から出てくる欲は、雑染欲でしかありません。しかしこの雑染が手掛かりとなるわけです。識食までいきますと、はっきりしますが、第八識は無覆無記なんですね。つまり、現行は無覆無記という性格をもっているのです。因の雑染が現行の果において無記という色づけされない性格をもつのです。ここにですね、雑染欲が善法欲に転依する「今」という時が与えられているのですね。
生きるということは、いつでも、どこでも、何があっても転依する時を待っているのではないかと思いますね。
「此の思は、諸識と相応すと雖も、意識に属せるいい食の義偏に勝れたり、意識は、境の於(ウエ)に希望すること勝れたるが故に。」(『論』第四・初左)
この思の心所は八識に通じて相応するのですが、意識に属するものを食ということはですね、意識において食の義が偏に勝れているからである。何故なら、意識は認識対象において他の識と比較して、希望することが勝れているからである、と。
この間の事情を『述記』(第四末・五左)
「(意識と相応する思は)深く勝れて希望し及び未来を縁ず、余(五識等)と倶なる思は希望すること勝るるものには非ず、此れに由りて亦准ずるに六識(第六意識)に属するものなり。體、六識には非ず。爾らずんば思食は體第六なるべし。」と。
第六意識相応の思の心所が意思食の体であることを明らかにしているのです。
六識の中で、前五識は現在を縁じてはいますが、過去と未来の対象は縁じていないのです。未来を縁じているのは第六意識なのですね。従って、「深く勝れて希望し及び未来を縁ず」るのは第六意識であるのです。
意思食でいう思の心所は、欲の心所と倶に働くものですから、欲の心所は別境ですね。第八識は五つの遍行と相応しますが、別境とは相応しないのです。第七識も同様です。ですから第八・第七識は除外されます。